信心の名を借りた暴力──あの日、殴られたのは子どもだけじゃなかった
「信心のため」と言いながら、人の尊厳を踏みにじる光景を、私はいくつも見てきました。
それは信仰ではなく、支配の習慣です。
今もSNSの片隅で、同じ構図を目にします。
笑顔と題目の裏に、どれほどの“恐怖”が隠れているかを知っているからこそ、私は見過ごせません。
──
十八の頃、学会の会館の駐車場でのことです。
小学校高学年くらいの男の子が、「行きたくない」と小さな声でつぶやいた瞬間、
父親がその子を力まかせに殴りつけました。
何発も、迷いなく。
私は思わず、その男の襟首を掴んで傍の田んぼに突き落としました。
今でもその感触を、はっきり覚えています。
幹部には「何をしている!」と怒鳴られましたが、どうしても許せなかった。
あれは“信心の指導”などではなく、ただの暴力でした。
あの親父はきっと、あの日だけじゃない。
常習だったと思います。
年月が過ぎても、あの構図は消えません。
信仰を理由に、他人の心に土足で踏み込む人たち。
「あなたのためだから」と言いながら、プライバシーを切り裂いていく。
善意を装うほど、始末が悪い。
母はよく言っていました。
「信心っつって、人んちにズカズカ踏み込むがら、
嫌われんだ」と。
その言葉の意味が、今になって沁みます。
信心が本物なら、人の心の領分を尊重できるはずなのに。
学会の活動家たちは、まるで人の生活が“布教の舞台”であるかのように振る舞う。
それは救いではなく、侵入です。
──
そして今朝、SNSで一つの動画を見ました。
東南アジアのSGIメンバーらしき人が、
幼い我が子を御本尊の前に座らせ、題目をあげさせている。
それでも、その映像の中に親の姿はありませんでした。
画面には、子どもだけ。
小さな背中が一人で題目を唱えている。
まるで“純粋な信仰の証”を演出するように。
私は、その無言の「親の不在」に胸が苦しくなりました。
祈る子どもの姿は可愛いと感じるよりも、どこか痛々しい。
子どもの祈りは本来、誰かに見せるためのものではないはずです。
信仰が生きる支えになるならまだしも、それを“誇示”や“宣伝”に使う瞬間、
信心は、慈悲ではなく支配に変わります。
私はその動画を保存し、モザイクをかけてXに
「この神経はわからない」と投稿しました。
ほどなくして、学会員と思しきリプライが届きました。
しかし、その擁護は支離滅裂でした。
理屈にもならない理屈。
まるで「信心のためなら何をしても正しい」と言わんばかり。
その姿に、かつて駐車場で殴っていた父親の顔が重なりました。
「信心のため」という言葉は、いつから“免罪符”になったのか。
誰かを救うはずの祈りが、いつのまにか他人を支配するための道具になってしまった。
そして、その歪みを見抜けないまま誇りにしてしまう。
信心の名のもとで、人はこんなにも人間を見失うのか。
あの父親も、SNSの投稿者も、たぶん同じ場所に立っているのだと思います。
「信じること」は自由だけれど、「信じさせること」は暴力です。
──
あとがき
あの日、殴られたのは子どもだけではありません。
信心の名を借りて暴力を振るう父親の姿に、
“人間の心”が殴られていました。
そして今日、画面越しに題目を唱える子どもの姿を見たとき、
私はその静かな暴力を、また目撃した気がしました。
母が言った「嫌われるだげなのにな」という言葉が、いまも耳に残ります。
本当の信仰は、誰かを踏みにじらなくても成り立つはずです。
そして、沈黙せずに問い続けることも、信仰の一つの形だと思うのです。
