見出し画像

「終戦」という言葉から、誰の苦しみが消えてしまうのか――菱山南帆子さんが少女像のそばで語った「敗戦の日」という言葉を、戦後日本の平和主義と日韓双方に残る記憶から読み直してみる

私は、物心ついた頃から理屈屋でした。


大人に何かを言われる。納得できない。理由を尋ねる。反論を言う。すると最後には「屁理屈言うな!」と言われる。


いや、そこは反論させてください。


「屁」なのか「理屈」なのか、そこを説明してくれないと、こちらとしても引き下がれない。


小学生の私は、その言葉に強い悔しさと苦しさを覚えました。そして、「いつか屁ではない理屈を言ってやる」と思った。


大人になった今でも、私は自分を理屈屋だと思っています。


だから、人が根に持つ感覚も、少しは分かるつもりです。


強く傷ついた経験は、「もう終わったことだから」と言われた瞬間に消えるものではない。むしろ「終わったことにされた」こと自体が、新しい引っかかりになる場合がある。


今回、菱山南帆子さんが韓国の少女像のそばに立ち、日本の侵略の歴史を「終戦」として美化してはならないという趣旨の発言をしたと報じられました。


ここで私は、どうしても自分の子どもの頃を思い出してしまう。


「もう終わった話だ」と言われても、本人の中では終わっていない。


だとすれば、歴史についても同じことが起きないでしょうか。


みんな、気づいているでしょうか?


「終戦」という言葉は、戦闘が終わったという事実を表す一方で、「誰にとっての終わりだったのか」という主語を消してしまう可能性があります。


日本では、敗戦、空襲、原爆、家族の死など、戦争による被害の記憶が残った。


一方、朝鮮半島では、日本の植民地支配から解放されたという歴史的経験がある。


だから、「韓国は韓国、日本は日本、それぞれが悔しさや苦しさを抱えたまま、その後の歴史を歩いた」と考えるほうが、単純な善悪論より現実に近いのではないでしょうか。


もちろん、ここには注意が必要です。


日本の被害経験が、日本による植民地支配や戦争加害を消すわけではない。


逆に、日本の加害を語ることが、日本人の戦争被害を否定することにもならない。


この2つは同時に成立します。


ここで歴史学者のジョン・W・ダワーさんの研究が効いてきます。ダワーさんは日本近現代史を専門とし、『敗北を抱きしめて』で敗戦後の日本社会を政治だけでなく、人々の生活や文化まで含めて描きました。同書はピューリッツァー賞一般ノンフィクション部門などを受賞しています。


つまり、敗戦は「国家が戦争を終えた瞬間」だけではなく、その後の人々が何を記憶し、何を拒み、何を受け入れたのかまで含めて考える必要がある。


政治学者・国際関係論研究者のトーマス・U・バーガーさんは、戦後日本とドイツの反軍国主義文化を研究してきました。日本の安全保障は、軍事力や外部の脅威だけでなく、政治文化や歴史的記憶によっても形づくられるという視点を与えてくれます。


国際関係論・政治学者のピーター・J・カッツェンスタインさんも、歴史・文化・規範が国家の安全保障政策を形づくることを研究してきました。『Cultural Norms and National Security』では、戦後日本の警察・軍事政策を規範の観点から分析しています。


そして政治学者の中野晃一さんは、比較政治学、日本政治、政治理論を専門とし、ナショナリズムや靖国問題、政治とメディアなどを研究しています。


4人の研究を並べてみると、面白いことが見えてきます。


戦争は「戦闘」だけでは終わらない。


記憶が残る。文化が残る。政治的な規範が残る。そして、その残されたものが、次の時代の政策や社会認識に影響する。


だから少女像をめぐる問題も、「日本と韓国のどちらが正しいのか」という勝敗表だけでは読み切れない。


菱山さんの発言を支持するかどうかとは別に、「終戦」という言葉によって、誰の経験が見えなくなっていないかを考える余地はあります。


私は子どもの頃、「屁理屈」と言われたことを、今でも覚えています。


たぶん、人間というものは、理屈だけではなく、記憶によって生きている。


だから「もう終わったことだ」と言われても、記憶まで終わるわけではない。


韓国社会にも、植民地支配をめぐる消えない記憶がある。


日本社会にも、戦争による被害の記憶が残っている。


そして、その悔しさを消せないまま、両国は戦後を歩いてきた。


だからこそ必要なのは、どちらの記憶を消すかではなく、互いの記憶がなぜ消えないのかを調べることなのだと思います。


「終戦」と呼ばれた瞬間は、戦争の終わりだった。


けれど、記憶の始まりでもあった。


そして、その記憶をどう語るかという問題は、まだ終わっていない。


私が子どもの頃に欲しかったのも、たぶん同じでした。


「もう黙れ」ではなく、


「なぜ、そう思ったのかを聞かせてくれ」


という言葉だったのだと思います。


参考情報:少女像のそばに立った日本の平和活動家「侵略の歴史を『終戦』と美化してはならない」(ハンギョレ新聞)

掲載:Yahoo!ニュース


#歴史認識
#日韓関係
#戦争と平和
#菱山南帆子
#少女像
#終戦
#敗戦

いいなと思ったら応援しよう!