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強風の海で熱唱する青年

休日、家族と海辺で遊んでいた。

風が強い日だった。
砂は容赦なく飛び、
レジャーシートは何度もめくれ上がり、
私は必死で端を押さえていた。

そのとき、
鬼気迫る表情で自転車を全力疾走する青年が現れた。

風に逆らいながら、
真っ直ぐ海へ向かってくる。

何かが始まる予感がした。

彼は自転車を乱暴に停めると、
一目散に海へ向かい、
迷いなく立ち止まり、
そして――

歌い始めた。

大声で。

強風に向かって。

一瞬で海はアリーナになった。

彼の声は風に散らされ、
サビはほぼ水平に流れていく。

だが彼は構わない。

なぜなら彼は、
この日、この場所で歌うと決めていたのだから。

きっと数日前から考えていたはずだ。

「よし、海で歌おう」と。

家の中でセトリを組み、
スマホのメモに曲順を書き、
風速アプリと天気予報を確認する。

“風速8m。悪くない。”
“晴れ。太陽が俺を待ち望んでいる。”


朝食の、ハムエッグトーストにかぶりつき、
はちみつのお湯割で喉を優しくコーティングする。
母に、
「そんなに急いで食べて、どこ行くの?」
と聞かれ、

「ちょっと海」
と目線はハムエッグトーストに向けたままぶっきらぼうに答える。

小さい頃は、
「トイレ行く」まで逐一報告していたのに、
いつの間にか息子にも秘密が増えた。

母は知らない。

息子が今日、
強風に向かって2番のAメロを解き放つことを。

彼は本気だった。

目を閉じ、
腕を広げ、
全身で風を受け止める。

定期的に観客の方――
つまり砂浜で遊んでいる私たち――
をチラチラ確認していた。

届いているか。

俺の声は。

ほぼ横方向に。

それでも彼は歌う。

海は人を解放的にする。

羞恥心は風に飛ばされ、
自意識は波にさらわれる。

彼の背中はあまりにも眩しかった。


娘と夫は、熱唱する彼の背中を不思議そうに見つめていた。
「ママ、あの人、風にセトリぶつけてるね」
という幻聴すら聞こえてきた。

彼には、親子の視線が憧れの眼差しに写っているのだろう。

私はというと、
飛ばされるポップコーンの蓋を押さえ、
砂まみれになった娘の靴を振り、
必死に現実を守っていた。

強風に向かって叫ぶ勇気はない。

レジャーシートの角を押さえるので精一杯である。

海は人を解放的にする。

だが私はまだ、
重り担当だ。



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ねじ雲|3歳児と暮らすワンオペ育児漫画 育児と創作の合間に現実逃避して書いてます。チップは現実世界への帰還料です。