【短編小説】たぶん、知りたくもない。
家を出ると、ボタン雪が降っていた。見慣れた景色が虫食いみたいに、齧られてところどころ見えない。
鍵を閉めるとき、指先に朱がついていた。ポケットに入れた茶封筒に触れると、なぜか少し温かかった。
昔のことを思い出した。まだ私が大学生だった頃のこと。
私は下宿先のアパートの1階のコンビニでアルバイトをしていた。
ちょっとチャラいが気のいい店長と、気やすい他のスタッフたち。働きやすい店だった。
私はほとんどのスタッフと面識があったが、夜勤のある一人だけ、知らない人がいた。
私が知っていたのは、彼の名前と、同い年、ということくらいだった。
ある朝、出勤すると、いつもスウェットを着ている店長が珍しく黒のスーツを着ていた。挨拶をしても、どこか上の空で、そのまま忙しなく出かけて行った。
小さな違和感は、バックヤードで着替えているうちに消えた。並んだロッカーの脇、姿見と店内イベントのカレンダーの下には来月のシフトが貼られていた。私はそれをケータイで撮った。もう二月か、と思った。
それからレジまで行き、交代のスタッフに声をかけた。その日夜勤だった筒井くんも、店長みたいに、どこかいつもと違っていた。
「お疲れさま。変わるよ。」
声をかけると、筒井くんは、少しぼうっとした雰囲気のまま、「おう」と答えた。それから、思い出したように言った。
「お前、倉橋のこと知ってる?」
倉橋というのが、私が唯一面識のないスタッフだった。
「知ってるって何が?」
答えると、筒井くんは気まずそうに、言ってはいけないことを話すみたいに言った。
「死んだんだって。……で、店長、葬式行ってくるって」
「あー」
間抜けな声が空中に伸びて、「そうなんだ」と言ってみたが、どこにも着地しなかった。
咄嗟に、「びっくりしたね」と言うと、彼はフニャッと笑うみたいに息を吐いた。
「まぁ。どうして死んだのかもわかんないけど」
いつも交代の時間になるとすぐに帰る筒井くんは、なんとなく話したそうにレジに留まって、何があったんだろう、一昨日は元気だったのに、みたいなことを何度か繰り返した後、一限目に出ないと、と帰っていった。
その時間は時折タバコを買いにくる客が一人か二人いたくらいだった。
私は筒井くんが帰るときに乗っていた原付のモーターの音を、しばらく残響のように聞いていた。
その日の夜、携帯の写真でシフトを確認すると、写したシフト表の倉橋さんの欄が消えていた。拡大してみると、その欄には白い修正テープで消された跡があった。雑な店長がやけに丁寧に貼ったテープの白は、元々の紙よりも少しだけ白くつやっとしていた。
それから今に至るまで時折、倉橋さんみたいな知らない誰かは、知らないままいなくなった。
勤務先の同じ部署の誰か、マンションの二つ隣の誰か。不意に慌ただしく、時に静かに。
使われていたデスクが片付けられ、郵便受けの名字の札が外される。
昨日も一枚、紙が届いた。知らない私の兄が、死んだらしい。
母の口から幾度か聞いただけのその名前が、財産放棄の同意書の紙の上に印字されていた。祐一。こんな漢字だったのか、と思った。
私は紙に判をおした。体の感覚が少しだけ遠くなった。
そういえば一度だけ、倉橋さんが、店の前にいたのを見たことがあった。
私はアパートの部屋のベランダに珍しく出ていた。普段はそんなことはしないのに、寝付けないまま朝を迎えて、なぜか外の空気が吸いたくなった。
明け方の空気はやけに青くて、向かいの公園の街灯の灯りが偽物みたいに見えた。
見下ろすとコンビニの前にはゴミが散乱していた。誰かがゴミ箱に捨てた生ゴミを、カラスが漁ったのだろうか。ぼんやりと眺めていると、ユニフォームの襟元からねずみ色のフードを出した、若い男性が出てきてゴミを片付け始めた。トングで一つ一つ、何度かしゃがみこみ、しつこいくらいに拾っていた。彼は最後にホースで水を流した。濡れたアスファルトがさっと青くなった。
彼が店に戻ると、私は部屋に入り、昼過ぎまでよく眠った。
後から、その時間に入っていたスタッフの名前を見てみると、倉橋さんだった。
兄のことも、誰かのことも、私は知らない。
たぶん、知りたくもない。
雪はまだ止まない。傘をさすほどでもない。
私はところどころ凍っている道を避けるようにして歩く。
ポストの前で、封筒を取り出す。指についたままの朱肉が乾いて張り付いている。目は手元を見ているのに、視界の端が白く消えていく。
封筒を投函すると、暗い箱の中へ紙が落ちる乾いた音がした。
(文字数 1852)
花澤薫さん主宰の文芸賞に参加させていただきました。
