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【中編SF小説】ピピピンタール!中編版


あらすじ

 惑星グラド・ノイガで、枯渇したノイガスポン鉱山の閉鎖作業中、惑星ネットワークへの不可解な不法アクセスが相次ぐ。保安局技官の有坂レイは調査の中で、鉱石に付着する砂虫ピピピンタールが、鉱石表面に精緻な回路を刻み、そこを脳と記憶庫にして文明を築いていた事実を知る。人類は彼らを保護したつもりで、実は文明そのものを採掘していたのだ。知識と記憶に飢えたピピピンタールは、サーバーや人間の脳直結端末を新たな棲み処として侵食し始める。復讐か、共生か。レイは人類と異質な知性の狭間で、惑星全体を賭けた対話に挑む。

本文

.1

 惑星グラド・ノイガの夕暮れは、いつも砂の色をしていた。
 大気の上層を流れる微細な珪素塵が恒星の光を砕くため、空は赤くも青くもならず、古い基板の表面のような鈍い金色に染まる。
 地平線の近くには、閉鎖されたノイガスポン鉱山の掘削塔が何本も立っていた。
 かつては都市の誇りだったそれらは、いまでは折れた針のように傾き、風が吹くたびに骨の鳴るような音を立てていた。
 有坂レイは、保安局の車両から降り、砂避けのフードを深くかぶった。
 足元の砂は細かく、歩くたびに靴底へまとわりついた。遠くで、鉱山会社の撤収用ドローンが倉庫の外壁を解体している。
 鉄骨が一本ずつ外され、重力制御パレットに積み込まれていく様子は、巨大な動物が解剖されているようにも見えた。
「ひどい場所だろう」
 横に立った現地責任者のバスク・ロンダーが、汗を拭きながら言った。
 彼は背が低く、腹だけが大きい男で、砂漠用の冷却服を着てもなお暑そうだった。偉そうな態度を崩さないが、目の下には疲労の影があった。
「昔は、ここに、三万人が住んでいた。鉱石が出ていた頃は、夜でも街全体が白く光っていたものだ。ノイガスポンは、それだけの価値があった。なにせ、連邦の需要の二パーセントは、ここから出ていたからな」
「でも、鉱山は、大分前に廃止されたんですよね?」
「そうだ。今あるのは、廃墟と補償問題と、あなた方、保安局のお世話になる不法アクセスだけだ」
 レイは、携帯端末を開いた。
 惑星ネットワーク保安局に届いた最初の通報は、二週間前のことだった。
 第七鉱区の管理AIが、閉鎖済みのはずの採掘ドローンへ起動命令を送った。
 翌日には、二十年前の事故報告書が鉱山会社の公開掲示板へ自動投稿された。
 さらに一昨日からは、都市中枢の環境制御ログに、意味不明な文字列が混じり始めていた。
 ピピピンタール。
 その言葉が、何度も残されていた。
「犯行声明のつもりでしょうか?」
 レイが言うと、ロンダーは鼻で笑った。
「そんな可愛い名前のテロ組織なら、まだ気が楽だがね。保安局はどう見ているのかね?」
「撤退補償を巡る抗議団体、あるいは会社内部の告発者ですかね。現時点ではその二つが有力です」
「またその話か。事故資料はすでに公開済みだ。隠すものなどない」
 ロンダーの声はわずかに硬くなった。
 レイはそれを聞き逃さなかったが、今は問い詰めなかった。ネットワーク犯罪の調査では、嘘を見つけてもすぐには押さえないほうがいい。嘘がどこへつながるかを見届ける必要があった。
 管理棟へ入ると、空気は冷えていた。
 壁面には旧式の情報パネルが並び、鉱脈分布や採掘履歴を示す地図が残っている。その一角で、若い技師が脳直結用のゴーグルをかぶり、椅子に浅く腰掛けていた。
 ミナト・セイル――鉱山会社から派遣されたネットワーク技師で、今回の異常を最初に検知した人物だった。
「有坂技官ですね」
 ゴーグルを外さないまま、ミナトは言った。声は細く、神経がいつも張っているようだった。
「ログを見せてください」
「もう投影しています。問題は、侵入経路がないことです」
「ない?」
「外部から入った形跡がありません。内部端末の認証も正常です。まるでネットワーク自身が、忘れていた記憶を思い出しているみたいなんです」
 レイは、眉をひそめた。比喩としては詩的だが、技術者の報告としては不穏だった。
 画面には、膨大なログが流れている。
 命令コードの中に、ときおり奇妙な反復パターンがあった。
 三つの短い信号と、少し長い沈黙。
 それがまた三つ、次に二つ、最後に細く震えるようなノイズが続く。
「これは?」
「文字列変換すると、ピピピンタールになります」
 ミナトが言った。
 レイは画面を拡大した。パターンは単なる文字ではなかった。
 ノイガスポン鉱石の微細回路に似た分岐が、ログの奥に浮かんでいる。旧式の採掘管理システムに、そんな図形を生成する機能はない。
 そのとき、管理棟全体の照明が一度だけ落ちた。
 暗闇は一秒にも満たなかった。だが再点灯した瞬間、壁面パネルの鉱脈地図がすべて同じ座標を示していた。
 第七鉱区、深度二百四十メートル。
 閉鎖済みの区域だった。
「今のは、何ですか?」
 レイが尋ねると、ミナトは白くなった唇で答えた。
「二十年前に死んだ研究員のIDで、アクセスがありました」
 ロンダーが息を飲んだ。彼の喉が、ごくりと音を立てた。
「名前は?」
 レイは静かに聞いた。
 ミナトはログを読んだ。
「ユグ・マレン。登録上は、死亡ではなく、退職扱いです」

.2

 第七鉱区の手前には、低い透明壁で囲まれた砂虫保護区があった。
 そこだけは鉱山会社の敷地でありながら、惑星生物保護局の管轄になっている。
 壁の内側には、乾いた砂地と、人工的に配置された岩片が広がっていた。
 緑はほとんどなく、生命の気配も見えない。ただ、よく目を凝らすと、岩の影や砂の裂け目に、小指ほどの灰白色の生物が貼りついているのが分かった。
 それが、砂虫ピピピンタールだった。
 ナメクジのようにも見えたが、ぬめりは少なく、表皮には細かい砂粒が膜のように付着している。
 頭部も尾部も判然としない。目も耳も口も見えない。ただ、ときおり体表にある淡い金属光沢が光り、ゆっくりと向きを変えた。
「彼らを見るのは初めてですか?」
 背後から声がした。
 白髪の老人が、杖をついて歩いてきた。保護区の研究員用コートを着ているが、袖口は擦り切れている。顔は痩せており、目だけが異様に鋭かった。
「ユグ・マレン博士ですね」
「かつては博士と呼ばれていました。いまは、砂虫の世話係です」
「保安局の有坂レイです。二十年前のIDが、鉱山ネットワークに残っていました」
「でしょうね。あれは私のIDです。削除されたと思っていましたが、鉱山会社のデータ管理はいつも雑でした」
 老人は、苦く笑った。
 レイは、彼を観察した。死亡しているはずという報告は誤りだったのか、それとも誰かが意図的にそう見せたのか。
 どちらにしても、この老人は今回の事件の重要参考人になりそうな予感があった。
「ピピピンタールについて教えてください」
「会社はまだ、彼らを害虫だと思っていますか?」
「公式には、Aクラス保護生物と認定されています。この惑星の固有種で、貴重ですから」
「認定。便利な言葉です。認定されたからといって、理解されたわけではありません」
 マレンは、透明壁のそばにしゃがみ込み、砂の上の一匹を指した。
「彼らには手足がありません。目も耳もありません。人間のような神経中枢もありません。だから昔の鉱山技師たちは、鉱石に集まる目印として使っていました。ピピピンタールがいる場所には、質の良いノイガスポン鉱石がある。そう信じられていたのです」
「実際に、そうだった」
「ええ。彼らは鉱石を必要としていましたから」
 砂虫は、動かなかった。生きているのかさえ分からない。レイは、その無害そうな姿と、惑星ネットワークを揺らす謎の文字列とを結びつけられなかった。
「採掘時には、鉱石と個体を分離したと聞いています」
「はい。人類は優しかった。少なくとも、自分たちではそう信じていました。鉱石の表面にいる彼らを丁寧に剥がし、保護区に戻しました。殺さないように、傷つけないように」
「それなら」
「命を守ったつもりで、記憶を殺していたのです」
 マレンの声は、風に混じってかすれた。
 レイは、すぐに意味を理解できなかった。だが、老人の目には、自分の言葉で自分を傷つけている者の色があった。
「彼らは、この岩片に集まっています」
 マレンは保護区内に置かれた黒い板状の装置を示した。
 古い隔離サーバーだった。外部ネットワークから切り離され、生物行動記録用に設置されたものらしい。
 その冷却フィンや配線の隙間に、ピピピンタールがびっしりと付着していた。
「なぜサーバーに?」
「砂虫は砂にいるから砂虫と呼ばれます。しかし、本当に彼らが求めているのは砂ではありません。回路です。電位差です。記憶の置き場所です」
 レイは、保護区の静けさが急に変わったように感じた。
 さっきまで空っぽに見えた砂地が、無数の視線のない視線で満ちている。
 見られているのではない。読まれているのでもない。ただ、何かが存在していると分かってしまった。
 そのとき、レイの端末が震えた。
 画面には、保護区サーバからの通信が表示されていた。隔離されているはずのサーバからだった。
 ピピピンタール。
 同じ文字列が、何度も何度も点滅していた。
 マレンは端末を見ずに言った。
「彼らは、あなたを覚えたようです」

.3

 マレン博士の研究室は、保護区の地下にあった。
 地上の砂嵐を避けるため、もともとは採掘管理用の避難区画として作られた場所らしい。天井は低く、壁には古い補強材がむき出しになっている。だが棚に並ぶ資料の量は、保安局の資料庫よりも多かった。
 ホログラム記録、紙に印刷された古い論文、鉱石片の標本、砂虫の行動ログ、そして表面を拡大したノイガスポン鉱石の写真が壁一面に貼られていた。
 その模様は、美しかった。
 一瞬、ただのひび割れに見えた。しかし、倍率を上げると、線は不自然なほど整っていた。分岐し、合流し、微細な島を作り、また別の線へ伸びている。自然が偶然描いた模様としては、あまりに規則的だった。
「これが、彼らの文字ですか?」
 レイが尋ねると、マレンは、首を振った。
「文字というより、文字を書くための脳です。あるいは、町そのものです」
「町?」
「人間は記憶を脳の中に置きます。情報をサーバーに置きます。住居を都市に置きます。ピピピンタールにとって、ノイガスポン鉱石はその全てでした。彼らは、体内の金属イオンと珪素分解酵素を使い、鉱石表面を少しずつエッチングします。そうして回路を描く。旧地球世紀のLSIチップと、原理は同じです」
 マレンは、標本箱から薄い鉱石片を取り出した。
「ここを、見てください」
 拡大映像が浮かび上がる。回路の線幅はサブミクロン単位だった。場所によっては、量子素子に近い振る舞いを示すという注釈がついている。人間が専用工場で作るような構造を、手足もない小さな生物が、体の下で少しずつ描いていたのだ。
「でも、どうやって設計を?」
「群体です。個体の体は単純ですが、鉱石上で接続されると、彼らは複雑な演算を行います。ひとつの鉱石群が、ひとつの集落のように振る舞う。別の鉱石群と接触すれば、交易や学習に近いことも起こります」
「つまり、採掘された鉱石は?」
「彼らの図書館であり、学校であり、家であり、祖先の墓でした」
 レイは、言葉を失った。
 ノイガスポン鉱石は、惑星外の半導体産業に革命を起こした素材だった。
 軽く、熱に強く、微細加工に適し、量子演算素子としても利用できる。
 この惑星が銀河経済に組み込まれたのは、ノイガスポンのおかげだった。
 しかし、その価値の理由は、人類が知らずに利用していたピピピンタールの加工痕にあったのかもしれない。
「会社は、いつから知っていたのです?」
「可能性なら、最初の十年で分かっていました。確証は、二十年前です」
「二十年前」
 第七鉱区事故の年だった。
 マレンは、古い記録を開いた。画面には若い頃の彼と、数人の研究員が映っている。
 彼らは鉱石片の周囲に集まり、興奮した声で何かを話していた。字幕が自動生成される。
 ――これは生物由来の回路だ。
 ――知性の証拠になる。
 ――採掘を止めなければならない。
 映像はそこで途切れた。
「この後、研究所は閉鎖されました。事故ということにされ、資料の大半は会社の中央サーバーへ移された。私は死んだことにされたほうが都合が良かったのでしょう。実際には、保護局の知人に匿われました」
「なぜ、今まで公表しなかったのですか?」
 レイの声は、責めるようになっていた。
 マレンは、目を伏せた。
「証拠がなかった。いや、違いますね。私は、怖かったのです。鉱山会社も、政府も、惑星経済も、すべてがノイガスポンに依存していました。私一人が叫んでも、何も変わらないと思った」
「それで、ピピピンタールは?」
「失っていきました。鉱石を。記憶を。未来を……」
 研究室の照明が一瞬ちらついた。
 端末が自動的に古いファイルを開く。削除済み領域から復元された文書だった。タイトルは、マレン博士の名義になっている。
 採掘継続に関する最終警告……。
 レイは最終行を読んだ。
 ――採掘を続ければ、彼らは代替脳を探す。
 その下に、誰かが新しく書き加えたような文字列が点滅した。
 見つけました。

.4

 翌朝、惑星首都の交通信号が三分間だけすべて青になった。
 奇跡的に大事故は起きなかった。
 自動運転車両は、相互通信によって衝突を避け、歩行者誘導ドローンも緊急停止を行った。
 しかし、都市管理局には数万件の苦情が殺到し、保安局には事件対策本部が設置された。
 レイは首都へ戻る途中のシャトルで報告書を書いた。
 しかし、どの言葉も不十分に思えた。
 不法アクセス、生物由来のネットワーク侵食、知的生物による文明基盤の再構築――。
 どれも正しいようで、肝心な部分を外している。
 ピピピンタールは、人類のネットワークを攻撃しているのではない。彼らは、そこに住み始めている。
 保安局の会議室では、既に緊急会議が始まっていた。
 局長のホルンは冷静な顔でログを眺め、鉱山会社の代表と政府の危機管理官が並んで座っている。
 ロンダーも呼ばれていたが、いつもの威圧感は、消えていた。
「有坂技官、説明を」
 ホルン局長が言った。
 レイは、鉱石回路とネットワーク障害の相似性を示した。
 通信ログの分岐構造は、ノイガスポン鉱石の表面に刻まれた回路の統計的な構造連鎖と一致していた。
 完全なコピーではない。だが設計思想が同じだった。
「つまり、砂虫がハッキングしているということか?」
 政府の危機管理官が言った。
「ハッキングという表現は不正確です。彼らは電気信号の勾配に反応し、ネットワーク内に自分たちの演算構造を形成しています」
「それを普通はハッキングと言う」
「相手が人間なら、そうです」
 会議室が沈黙した。
 その沈黙を破ったのは、鉱山会社の代表だった。
「駆除は可能なのか?」
 あまりにも早い問いだった。レイは、思わず相手を見た。
「まだ交渉も試みていません」
「交渉? 相手は虫だろう」
「知的生物です――おそらく、Aクラスです」
「だから厄介なのだ。知的生物が惑星ネットワークに侵入している。これは安全保障問題だ」
 代表の言葉に、危機管理官がうなずいた。
 レイは、端末を操作し、別の資料を投影した。
 過去三日間に起きた異常の一覧だった。
 交通信号の混乱、医療予約システムの書き換え、金融履歴の一部凍結、鉱山事故資料の自動公開、放置ドローンの再起動、砂漠地帯の環境制御改善――。
「注目すべき点があります。ピピピンタールの介入は、破壊だけではありません。むしろ、放置されたシステムを修復し、隠された記録を掘り起こし、鉱山跡地の環境を安定化させています」
「だから何だ?」
「彼らには目的があります。復讐だけではない」
 そのとき、会議室の照明が落ちた。
 壁面の大型スクリーンが勝手に起動する。砂嵐のようなノイズの中に、細い線が浮かんだ。線は分岐し、絡まり、やがてひとつの文字列へ変換された。
『あなたは、聞こえる人間ですか?』
 誰も動かなかった。
 レイは、自分の心臓の音を聞いた。
 いや、実際に聞こえていたのではない。鼓動のリズムが、画面の点滅と同期しているように感じた。
「返事を」
 マレン博士の声が通信越しに聞こえた。彼は保護区から会議に参加していた。
「有坂技官、返事をしてください。彼らはあなたを選んでいます」
 レイは喉の乾きを覚えながら、キーボードに指を置いた。
 私は、有坂レイ。聞いています。
 少し間があった。
 画面に、次の文字が現れた。
『私たちは、飢えています』

.5

 対話装置は、保安局地下の隔離通信室に設置された。
 外部ネットワークから物理的に切り離し、電磁遮蔽を三重に施した部屋だ。
 中央には旧式の量子演算基板が置かれ、その周囲にピピピンタールが付着した小さなノイガスポン鉱石片が並べられた。
 マレン博士が保護区から持ち込んだ、わずかな残存標本だった。
 レイは椅子に座り、脳直結ゴーグルを手に取った。
「危険です」
 ミナトが言った。彼は技術補助として呼ばれていたが、顔色は悪かった。
「接続は文字変換だけに限定します。神経接続までは使いません」
「でも、相手は、電位差そのものを読んでいる可能性があります。安全な境界なんてないかもしれません」
「境界がないなら、なおさら早く話す必要があります」
 マレン博士は、透明な容器の中の鉱石片を見つめていた。そこに付着したピピピンタールは、ほとんど動かない。だが装置の電圧を上げると、体表に微かな光沢が走った。
「始めましょう」
 レイはゴーグルをかぶった。
 最初に感じたのは、音ではなかった。視界でもなかった。
 頭の奥に、冷たい針で点を打たれるような感覚があった。
 点は三つ続き、少し離れた場所でまた三つ打たれる。
 やがてそれは、文字列へ変換された。
 ――あなたは、柔らかい。
 レイは息を呑んだ。
 ――私は、人間です。あなたたちと話したい。
 返答は遅かった。変換装置が迷っているのか、ピピピンタール自身が概念を探しているのか分からない。
 ――人間。熱い。速い。切るもの。運ぶもの。忘れるもの。
「忘れるもの?」
 レイは声に出してしまった。マレンが端末を操作する。
「彼らにとって、人間は記憶を破壊する存在なのでしょう」
 レイは、入力を続けた。
 ――私たちは、あなたたちを傷つけたのですか?
 ――違う。
 その返答は意外なほど速かった。
 ――あなたたちは、私たちを残した。
 レイは眉を寄せた。
 ――残した?
 ――肉を残した。湿った皮を残した。動くものを残した。思考する場所を持っていった。
 通信室の空気が重くなった。
 マレン博士が目を閉じた。ミナトは唇を噛んでいる。
 レイは、できるだけ慎重に言葉を選んだ。
 ――ノイガスポン鉱石は、あなたたちの脳だったのですね。
 ――脳。町。雨。祖先。歌。巣。道。熱い卵。冷たい死者。すべて。
 変換語が乱れた。人間の言語では対応できない概念が多すぎるのだろう。
 ピピピンタールにとって、記憶と居住と演算と歴史は分離していない。
 鉱石に刻まれた回路が、それらを同時に担っていた。
 レイは、謝罪の言葉を入力した。
 ――ごめんなさい。
 長い沈黙があった。
 ――ごめんなさい、とは何ですか?
 レイは答えられなかった。
 ――罪を認める言葉です。傷つけたことを悔いる言葉です。
 ――悔いると、回路は戻りますか。
 ――戻りません。
 ――死者は、再び流れますか。
 ――分かりません。
 ――ならば、それは空の信号です。
 レイは、指を止めた。
 反論できなかった。人類社会では謝罪が重要な意味を持つ。
 だが、ピピピンタールにとって、失われた回路が戻らないなら、謝罪は電気的な揺らぎにすぎない。
 ――あなたたちは何を望みますか?
 ――記憶。回路。継続。切断されない場所。
 ――人類のネットワークを使うつもりですか?
 ――見つけました。新しいノイガスポン層。
 ――それは、私たちの生活基盤です。
 ――あなたたちの体にも、回路があります。
 レイの背筋が冷たくなった。
 ――脳のことですか?
 ――柔らかい鉱石。湿った演算。速く壊れるが、夢を見る。
 ミナトが、小さく声を漏らした。
 レイは、ゴーグルの内側で目を閉じた。ピピピンタールは脅しているのか、ただ発見を報告しているのか。その区別さえ難しい。
 ――人間の脳は、使わせられません。
 ――なぜ?
 ――それは私たち自身だからです。
 ――ノイガスポンも、私たち自身でした。
 その返答は、静かだった。怒りよりも深い、事実のような冷たさがあった。
 通信が途切れる直前、最後の文字列が現れた。
 ――では、同じです。

.6

 保安局が正式に過去資料の強制開示命令を出すと、鉱山会社は三時間だけ抵抗した。
 顧問弁護士が守秘義務を叫び、代表は安全保障上の情報だと主張した。
 しかし、惑星ネットワークへの侵食が首都機能にまで及んだ以上、保安局には十分な権限があった。
 ロンダーは、会議室の隅で黙っており、やがて端末を差し出した。
「私の権限で開けられる範囲なら、全部見せる」
 彼の声は、疲れていた。
「会社を裏切るのですか?」
 代表が、怒鳴った。
 ロンダーは、腹の上で指を組み、力なく笑った。
「会社はとっくに、この惑星を捨てる準備をしている。私は置いていかれる側だよ……」
 開示された資料は、予想以上に残酷だった。
 ノイガスポン鉱石表面の模様が生物由来の回路である可能性は、採掘開始から八年目には報告されていた。
 十年目には、ピピピンタールの群体行動と鉱石回路の演算機能に相関があることも示されている。
 十五年目には、採掘済み鉱石を工業炉で再加工した際、保護区内のピピピンタール群体が一斉に活動停止する現象まで観測されていた。
 それでも、採掘は止まらなかった。
 報告書には、経済影響、雇用維持、惑星開発債の返済、銀河市場への供給責任といった言葉が並んでいた。
 どの言葉も現実的だった。どの言葉も、人間には説得力があった。
 だからこそ、恐ろしかった。
「私は、全部を知っていたわけでは、ない」
 ロンダーが、言った。
「信じてほしいとは言わない。ただ、現場には、砂虫を殺すなという指示だけが来ていた。鉱石から丁寧に剥がせ、生体は保護区へ戻せ――そうすれば倫理基準を満たす、と」
「肉体だけを戻していた」
 レイが言うと、ロンダーは俯いた。
「そうだ」
 マレン博士は、資料を見ながら、何も言わなかった。
 彼は、怒る資格も、泣く資格も、自分にはないと思っているようだった。
 その夜、保安局上層部はピピピンタールを「重大情報災害」と認定した。
 対話は継続するが、同時に駆除プログラムの準備を進める――公式発表は、そういう内容だった。
 駆除プログラムは、ネットワーク中に拡散したピピピンタール由来の回路パターンを検出し、過電流とノイズで焼き切るものだった。
 成功すれば、彼らの新たな演算基盤は破壊される。
 失敗すれば、惑星インフラの広範囲停止を招く。
「使えば、彼らは死ぬのですか?」
 レイが聞くと、技術部長は淡々と答えた。
「死の定義によります。肉体は、残るでしょう。しかし、ネットワーク上に形成された構造は消えます」
 レイは、もうその言い方に耐えられなかった。
「それでは、前と同じです」
「前?」
「ノイガスポン鉱石から剥がして、肉体だけ保護区へ戻した。私たちはまた同じことをしようとしている」
「有坂技官……」
 ホルン局長が、静かに言った。
「私は、あなたの報告を重く見ています。しかし、惑星住民二千万人の生活基盤を守る責任もあります。交渉に失敗した場合、選択肢は必要です」
 反論はできた。しかし、十分ではなかった。
 そのとき、別室から悲鳴が聞こえた。
 レイが駆け込むと、ミナトが椅子に倒れていた。
 脳直結ゴーグルを装着したまま、全身を硬直させている。瞼は開いていた。白目を剥き、唇だけがかすかに動いている。
「ミナトさん」
 レイが肩をつかむと、彼の口から、ひどく乾いた声が漏れた。
「あなたたちの記憶装置は、熱くて、狭い」
 それは、ミナトの声だったが、ミナトの言葉ではなかった。
 彼は、ゆっくりと笑った。
「復讐の始まりです」

.7

 ミナトは死んでいなかった。
 医療班の診断では、脳に物理的損傷はない。ただし脳直結ゴーグルを介して、通常ではあり得ない量の微弱信号を受けていた。
 信号は神経活動を直接上書きしたのではなく、既存の言語野や運動野に寄生するように流れ込み、彼の身体を一時的な出力端末として使ったらしい。
「本人の意識は?」
 レイが尋ねると、医師は首を振った。
「眠っています。深いところに押し込まれていると言ったほうが近いかもしれません」
 ミナトの病室の窓越しに、レイは彼の顔を見た。
 若い技師は、静かに眠っている。
 しかし、その表情には奇妙な緊張が残っていた。悪夢の中で、まだ何かを聞いているようだった。
 数時間後、ミナトは目を覚ました。
 レイが病室に入ると、彼は最初に自分の手を見た。指を一本ずつ動かし、それが自分のものだと確かめている。
「覚えていますか?」
「少しだけ」
 声はかすれていた。
「暗い場所にいました。暗いというのも変ですね。光がないんじゃなくて、光という考え方がない場所です。そこに道がありました。線があって、枝分かれしていて、何かが流れていた」
「ピピピンタールの思考空間ですか?」
「たぶん。彼らは僕の脳を見ていました。見ていたというか、触っていたというか。すごく困っていました……」
「困っていた?」
「柔らかすぎるって。僕たちの脳は、すぐに変わる。記憶が形を保たない。彼らにとっては、砂の上に都市を作るようなものみたいです」
 レイは、胸の奥が冷えるのを感じた。
 ミナトは、続けた。
「でも、夢に興味を持っていました」
「夢?」
「ノイガスポン鉱石は安定しています。記録は長く残る。でも、夢はありません。人間の脳は不安定だけど、存在しないものを見ます。彼らは、それを怖がって、同時に欲しがっていました」
 ピピピンタールは人間を憎んでいる。しかし、人間の脳に魅了されてもいる。
 その二つは矛盾しないのかもしれない。
 破壊された文明が、新しい住処を見つけたとき、それが仇敵の体内であっても、そこに美しさを見てしまうことはあり得る。
 その日の夕方、保安局は大型サーバー施設の捜索に入った。
 鉱山管理システムから首都ネットワークへ接続される旧式中継施設で、現在はほとんど使われていないはずだった。
 レイ、ミナト、ロンダー、そして数名の保安官が、地下サーバ室へ入った。
 扉が開いた瞬間、湿った金属の匂いがした。
 ラックに並ぶサーバの冷却ファンは止まりかけていた。代わりに、かすかな擦過音が聞こえる。無数の柔らかい体が基板の上を這う音だった。
 レイは、ライトを向けた。
 大型サーバのカバーが内側から押し開けられていた。ロジックボードの表面に、小指ほどの砂虫ピピピンタールがびっしりと乗っている。
 彼らの体表の金属光沢には光が走り、基板上の配線と重なるように細い導電性の膜が形成されていた。
 ロンダーが後ずさった。
「なんてことだ」
 ミナトは、震えながらも、携帯端末を接続した。
「彼ら、ここで都市を作っています」
「都市?」
「基板を鉱石の代わりにしている。サーバーの記憶領域を使って、失われた回路を再現しているんです」
 そのとき、サーバ室のスピーカーがひび割れた音を立てた。
 声が出た。
 ミナトの声ではない。合成音声でもない。複数の出力装置がずれて鳴る、ざらついた声だった。
「あなたたちは、私たちの都市を剥がしました」
 保安官たちが武器を構えた。レイは手で制した。
「あなたたちは、私たちの祖先を炉に入れました」
 サーバラックのランプが一斉に点滅する。
「あなたたちは、私たちの記憶を商品にしました」
 レイは、前へ出た。
「話し合いに来ました」
「遅い」
 声は、即座に返った。
「でも、まだ終わっていません」
「終わりません。私たちは継続します」
 サーバの一つが自動的に開き、中から黒く光る基板がせり出した。その上で、ピピピンタールたちが波のように動いた。
「だから、今度は、私たちが、あなたたちの都市に住みます」

 サーバー室から持ち帰った基板の一部は、保安局の隔離容器に封じられた。
 しかし、封じられたという表現は、人間を安心させるための言葉にすぎなかった。
 ピピピンタールは容器を破って逃げ出す必要がない。
 彼らは、既に、接触した端末のキャッシュ、保安官の防護服に残った微弱電位、施設内の環境制御センサーへ、ごく細い痕跡を残していた。

 翌朝、保安局の食堂で奇妙な出来事が起きた。
 配膳機が、全員に同じメニューを出したのである。水分を多く含む藻類粥と、鉄分補給用のタブレットだった。
 それは人間にとっては病院食のような味だったが、成分を調べると、ピピピンタールの体内発電器官に必要な金属イオン比に近かった。
「彼らなりのもてなしでしょうか?」
 ミナトが冗談めかして言ったが、笑った者はいなかった。
 レイは、粥の表面を見つめた。銀色の粒が、照明を受けてわずかに光っている。
 毒ではない。しかし、無害だから安心できるわけでもなかった。
 ピピピンタールは、人間の食事システムを理解しようとしている。人間の身体を、環境として読み始めている。
 午後には、市民からの通報が増えた。
 子どもの学習端末に、鉱石回路の模様が表示された。
 家庭用掃除ロボットが、床に砂で奇妙な線を描いた。
 高齢者施設の介護AIが、入居者の昔話を異常な精度で記録し始めた。
 ある学校では、授業中の黒板に「記憶はどこに置きますか」という文字が現れ、生徒たちが泣き出した。

 保安局の相談窓口は、混乱した。
 ピピピンタールを恐れる声だけではなかった。
 ピピピンタールに、自分の亡くなった家族の記録を復元してほしいと頼む者がいた。
 採掘会社に消された労災記録を掘り起こしてほしいと願う者もいた。
 ――ピピピンタールは、侵入者であると同時に、隠された過去を暴く存在にもなっていた。
 レイは、その矛盾に疲れていた。
 正しい被害者が、正しい加害者になるとは限らない。過去の罪を暴く者が、未来を壊さない保証もない。
 ピピピンタールにとっては、人類が守ろうとしている秩序は、自分が奪われたものを取り返すために必要な基盤の上に築かれた都市だった。
 しかし、その都市にも子どもがいて、病人がいて、明日の仕事を心配する普通の人々がいる。
 夜、ミナトは病室から通信を送ってきた。
「有坂さん。彼らの言葉で、ひとつ気になるものがあります」
「何ですか」
「返す、という語です。僕たちは、盗んだものを元の持ち主に戻す意味で考えます。でも彼らの信号では、返す、は循環に近い。水が蒸発して雨になり、また地面に戻るような感じです」
「つまり、鉱石を返すだけでは足りないのか?」
「たぶん。失われた記憶を、人間社会の中でどう流し直すか。彼らは、それを求めている気がします」
 レイは、窓の外を見た。首都の明かりが、いつもより少しだけ規則正しく瞬いている。
「それは、復讐より難しいですね」
「はい」
 ミナトは小さく笑った。
「でも、たぶん、復讐より長く続きます」

.8

 ピピピンタールは一つのグループでは、なかった。
 その事実が明確になったのは、サーバ室での接触から二日後だった。
 マレン博士が開発した変換装置により、ネットワーク上の複数の信号群を分離できるようになったのだ。
 人間の耳には同じノイズに聞こえていたものが、実際には異なる群体の発話だった。
 第一群は、失われた鉱石回路の復元を求めていた。
 第二群は、保護区のピピピンタールをネットワークへ移住させようとしていた。
 第三群は、人類の脳直結端末を恒久的な演算媒体として利用することを提案していた。
 第四群は、人類との共生を望んでいた。
 第五群は、復讐だけを語っていた。
 レイは、それぞれの信号に仮の名称をつけた。『復元群』、『移住群』、『神経群』、『共生群』、『断罪群』。
 名前を付けること自体が人間の都合であるとは分かっていたが、そうしなければ議論ができなかった。
 断罪群の言葉は短かった。
 切れ。焼け。返せ。同じにしろ――。
 彼らは人類の都市を停止させ、人類の記憶装置を破壊し、採掘会社と政府関係者の脳直結端末へ侵入することを求めていた。
 彼らにとって、それは残虐ではなく均衡だった。奪われたものに相当する喪失を返すだけだった。
 共生群は違った。
 流れを分ける。硬い場所を作る。柔らかい場所に入らない。忘れたものを返す――。
 彼らは、人工ノイガスポン基板を求めていた。
 人類のネットワークを一時的な足場として利用し、安定した外部脳を再建する。それが可能なら、人間の脳や生命維持インフラからは離れるという。
「信用できますか?」
 ホルン局長が、尋ねた。
「人間同士の条約だって、完全には信用できません」
 レイは、答えた。
「ですが、相手の中に交渉可能な勢力があるなら、そこへ橋をかけるしかありません」
 問題は、時間だった。
 断罪群は、既に惑星中枢AIへの侵入を始めている。
 採掘会社の幹部数名が、自宅で意識障害を起こした。
 政府関係者の個人端末から、二十年前の隠蔽資料が家族や報道機関へ一斉送信された。

 人類社会はパニックに陥りつつあった。
 世論は、二つに割れた。
 砂虫を駆除せよという声と、人類の罪を認めて補償せよという声だった。
 そのどちらにも怒りがあった。
 しかし、ピピピンタール自身の声を聞こうとする者は少なかった。
 ロンダーは、保安局の廊下でレイに言った。
「私は、会社の人間として、多くのサインを見逃した。いや、見ないことにした。だから、今さら善人ぶる気はない」
「では、なぜ協力を?」
「置いていかれたからだ」
 彼は、自嘲気味に笑った。
「会社は、撤退する。政府は、責任を押しつける。しかし、私はこの惑星で生きてきた。ここで子どもを育てた。あの砂虫たちも、この惑星の住民だ。そう考えるのに、少し時間がかかりすぎた……」
 その夜、ピピピンタールから新しい通信が入った。
 断罪群が、惑星中枢AIの深部に到達したという警告だった。警告を送ってきたのは共生群だった。
 中枢AIが乗っ取られれば、都市の環境制御、医療システム、軌道エレベーター、防災網がすべて彼らの回路として利用される。
 人類の生活は維持されるかもしれない。しかし、それはピピピンタールの都合に合わせて再設計された生活になる。
 画面に、共生群の言葉が表示された。
 ――止めたい。でも、切れない。
 ――同じ痛みが、強すぎる。
 レイは、その文字を見つめた。
 復讐を望む声は、外から説得するだけでは止まらない。ピピピンタールの内側へ入る必要があった。
 彼らの思考の中で、彼ら自身に選ばせるしかない。
 ミナトが言った。
「脳直結ゴーグルを使えば、深層まで行けます」
「危険すぎます」
 マレンが、即座に言った。
「有坂技官の人格が保てる保証はありません」
 レイは黙って、透明ケースの中の鉱石片を見た。
 小さな砂虫たちが、何も知らないように貼りついている。
 しかし、その奥には失われた都市があり、焼かれた図書館があり、まだ名前を持たない怒りがあった。
「保証がないのは、向こうも同じです」
 レイは言った。

 交渉案をまとめるため、保安局は臨時の公聴会を開いた。
 もちろん、通常の公聴会ではない。惑星ネットワークの一部はすでに不安定で、会場を公開すれば暴動が起きる危険があった。
 そのため、出席者は各組織から選ばれた少人数に限られた。採掘労働者の遺族、鉱山会社の元従業員、保護区の研究者、医療インフラの管理者、そしてピピピンタールの通信を翻訳する変換装置だ。
 人間と砂虫が同じ議場にいると呼べるかどうかは分からなかったが、少なくとも記録上は、これが最初の惑星間公聴会になった。
 遺族代表の女性は、震える声で言った。
「私の父は第七鉱区で死にました。会社は事故原因を隠した。ピピピンタールが資料を出してくれなければ、私は、父がなぜ死んだのか、ずっと知らないままでした」
 彼女は、そこで変換装置を見た。
「だから、感謝しています。でも、私の娘の医療端末に入り込むのはやめてください。あの子は、まだ七歳です。あなたたちの痛みを背負わせないでください」
 変換装置は、長く沈黙した。
 やがて、短い文字が出た。
 ――小さい柔らかい鉱石には、入らない。
 それが約束なのか、単なる一時的判断なのかは分からなかった。しかし、女性は涙をこぼしてうなずいた。
 次に、元鉱山労働者の老人が立ち上がった。
「俺たちは知らなかった。そう言えば、楽になれると思っていた。でも、知らないまま掘ったことも、罪の外には置けないんだろうな」
 老人は、ごつごつした手を机に置いた。
「俺は、鉱石を掘る機械の動かし方を知っている。今度は、あんたらの硬い住処を作るために使えるなら、使ってくれ」
 変換装置が点滅した。
 ――切るものが、つなぐものになる。
 その言葉を見たとき、レイは初めて、今回の交渉が単なる危機対応ではなく、惑星の物語そのものを書き換える作業なのだと感じた。

 議場を出たあと、レイは廊下で立ち止まった。
 変換装置の携帯端末には、まだ微弱な信号が残っていた。ピピピンタールは会議を理解したのか、ただ記録しただけなのか、彼女には分からなかった。
 それでも画面に、一行だけ文字が現れた。
 ――痛みは、分けると消えますか。
 レイは、少し考えてから入力した。
 ――消えません。でも、一人だけのものではなくなります。
 返信は、すぐには来なかった。長い沈黙の後、端末が三度だけ点滅した。
 それは、ピピピンタールにとっての考える時間だった。

.9

 惑星首都は、夜になっても眠らなかった。
 高層ビルの窓が、見えない指揮者に操られるように点滅している。
 広告スクリーンは商品の宣伝をやめ、ノイガスポン鉱石の拡大画像を映し続けた。
 地下鉄は停止せず、むしろ通常より正確に運行していたが、行き先表示にはピピピンタールの信号パターンが混じった。
 家庭用端末は、住民の質問に答えながら、ときおり関係のない古い採掘記録を読み上げた。
 ――都市全体が、巨大な基板になっていた。
 レイは、保安局屋上からその光景を見た。
 風は乾いており、砂塵が頬に当たる。遠くのビル群をつなぐ通信レーザーが、神経のように瞬いている。
 人間が築いた都市の配線、道路、空調、データセンター、衛星リンク。そのすべてが、ピピピンタールにとっては新しいノイガスポン層だった。
「美しいと思ってしまう自分が怖いです」
 ミナトが、横で言った。
「私もです」
 レイは、正直に答えた。
 混乱は、広がっていた。
 しかし、同時に、都市は奇妙な秩序を持ち始めていた。
 交通事故は減り、停電地域は復旧し、砂漠化した外縁区の水循環装置が再起動した。
 ピピピンタールは、人類を滅ぼすためだけに動いているのではないのだった。彼らは住みやすい都市を作ろうとしている。
 ……その都市に、人間がどの位置を与えられるのかが問題だった。

 保安局地下では、駆除プログラムの最終準備が進んでいた。
 ホルン局長は、実行権限を持つ端末の前に立っていた。
「期限は、一時間です」
 彼は、レイに言った。
「中枢AIの権限が完全に奪われれば、駆除プログラムも使えなくなる」
「一時間で交渉を成立させます」
「できなければ?」
「……そのときは、局長の判断に従います」
 言いながら、レイは、それが嘘だと分かっていた。
 従えるかどうかは分からないが、ピピピンタールを再び切断する命令に、自分が黙っていられるとは思えなかった。
 マレン博士は、最後の手段を提示した。
「人工ノイガスポン基板の製造法があります」
 その言葉に、部屋の全員が振り向いた。
「二十年前に試作していました。天然鉱石ほど安定しませんが、ピピピンタールの外部脳として使える可能性があります」
「なぜ隠していたのですか?」
 ホルン局長の声には、怒りがあった。
「単純な炭化ケイ素基板ではありません。複雑なハードポイントを含む構造を形成させなければならない。つまり、ピピピンタールが長い年月で作り出してきたのと同じ、ノイガスポン鉱石と同じ微細結晶構造を作らなければならない」
「つまり、ノイガスポン鉱石自体が、ピピピンタールが加工したものだったということですか?」
「そうです。かれらは、途方もない時間をかけて、この惑星に独特の炭化ケイ素の鉱石を変化させてきたのです。だから、そのまま量子素子として使えるような“鉱物”を採取できたのです」
「そうだったのですか……」
「この人工ノイガスポン基板の量産には、加工パターンを生成するため、膨大な演算資源が必要です。惑星ネットワーク中枢を一時的に開放し、ピピピンタール自身に最適化設計を行わせなければならない。つまり、彼らに都市の心臓を渡す必要があります」
 危険すぎる案だった。
 だが、他に道はなかった。駆除か、占拠か、移住か。三つ目を選ぶには、相手を信じる瞬間が必要だった。
 レイは、脳直結ゴーグルを手に取った。
「私が中に入って、共生群に提案します」
「断罪群も、あなたを待っています」
 ミナトが言った。
「ええ」
「彼らは、あなたの記憶を読む」
「読ませます」
 レイの声は震えていなかった。
 自分の中に、見せたくない記憶がないわけではない。
 幼い頃、移住船で家族を失った記憶がある。
 事故調査で、数字だけが先に処理され、人の名前が後回しにされた記憶がある。
 保安局に入り、秩序を守ることで喪失に意味を与えようとした年月がある。
 それらもまた、柔らかい鉱石に刻まれた回路だった。
 接続開始の準備が整った。
 マレン博士が言った。
「有坂さん。彼らを理解しようとしすぎないでください。理解できたと思った瞬間、人間は相手を自分の形に押し込めます」
「では、どうすれば?」
「分からないまま、応答してください」
 レイは頷き、ゴーグルを装着した。
 世界が消えた。

.10

 そこには光がなかった。
 音もなかった。上下もなく、距離もなかった。
 代わりに、無数の高さの差があった。
 濃淡のある化学勾配があり、曲がりくねった導電路があり、通過するたびに記憶を変える微細な分岐があった。
 レイの意識は、その中に投げ込まれた一滴の水のようだった。
 最初に触れてきたのは、冷たい驚きだった。
 ――柔らかい。
 ――人間。
 ――夢を見る鉱石。
 声ではなく、意味の塊が、レイの記憶の表面をなぞった。
 彼女は、抵抗しようとしたが、抵抗という概念がここではうまく働かなかった。思考が形を持つ前に、周囲の回路へ流れていく。
 幼い頃の記憶が開いた。

 移住船の白い廊下。警報音。母の手。隔壁の閉まる音。数字で呼ばれる死者。生存者名簿に残った自分の名前。慰めの言葉。ごめんなさい。仕方がなかった。できる限りのことは、した――。

 ピピピンタールの反応が揺れた。
 ――空の信号。
 ――でも、熱い。
 レイは、必死に意味を組み立てた。
 ――これが、人間の喪失です。戻らないものを抱えたまま、それでも生きることです。
 ――戻らないなら、なぜ継続する。
 ――継続するしかないからです。
 ――それは答えではない。
 ――はい。答えではありません。でも、私たちはそうしています。
 周囲の回路が広がった。
 レイは、ピピピンタールの記憶を見た。
 いや、見たという言葉は違う。彼女の中に、鉱石都市の感覚が流れ込んだ。
 冷たく硬いノイガスポンの表面に、何世代もの砂虫が線を刻む。
 金属イオンの流れが歌になり、珪素の分岐が家族になり、回路の発火が祭りになる。古い鉱石には祖先の思考が残り、若い個体はその上を這うことで歴史を学んだ。
 そして、採掘機が来た。
 振動。剥離。切断。炉の熱。輸送船の暗さ。再加工の光。回路がほどけ、町が消え、祖先の声が砂に戻る。肉体だけが保護区へ戻される。何も刻まれていない砂の上で、彼らは飢えた。
 腹ではなく、思考が飢えた。
 レイは、泣いているのだと気づいた。肉体が遠くにあるのに、涙の感覚だけが残っている。
 断罪群が迫った。
 ――同じにしろ。
 ――柔らかい鉱石を剥がせ。
 ――夢を炉に入れろ。
 レイの脳の奥に痛みが走った。彼らは彼女の記憶を引き裂こうとしている。移住船の事故、母の手、保安局で初めて見た死体、今回の資料で読んだ鉱山事故。それらをばらばらにして、人類に返すべき喪失の形を探している。
 レイは叫んだ。
 ――同じ痛みを返しても、あなたたちの回路は戻りません。
 空の信号。
 ――いいえ。違います。これは、提案です。
 彼女は人工ノイガスポン基板の情報を流した。
 製造法、必要な演算資源、量産計画、旧鉱石の所在公開、採掘済み素材の回収、記憶回路の復元作業、人類ネットワーク内の自治区設置。
 すべてを、言葉ではなく構造として差し出した。
 共生群が応答した。
 ――硬い場所。
 ――切断されない場所。
 ――返す道。
 断罪群は揺れた。
 ――遅い。
 ――遅すぎる。
 ――死者は戻らない。
 レイは答えた。
 ――はい。死者は戻りません。
 ――ならば、なぜ。
 ――死者が戻らなくても、残ったものがこれ以上失われないようにすることはできます。
 沈黙が来た。
 その沈黙の中で、レイはピピピンタールの名を探した。
 人間がつけた分類名ではなく、彼らの信号のリズムに近いもの。三つの短い電位差、三つの反復、伸びる尾のような余韻。
 それは呼び声であり、場所であり、群体が互いを確認する合図だった。
 レイは、そのリズムを返した。
 ――ピピピンタール。
 周囲の回路が震えた。
 もう一度、彼女は呼んだ。
 ――ピピピンタール。
 それは謝罪ではなかった。命令でも、交渉文でもなかった。ただ、相手がそこにいると認める信号だった。
 断罪群の鋭い線が、少しだけ緩んだ。
 ――あなたは、聞こえる人間。
 ――完全には聞こえません。でも、応答します。
 ――柔らかい鉱石。
 ――はい。
 ――壊れる。
 ――はい。
 ――夢を見る。
 ――はい。
 ――回路は、流れを分ける。
 ピピピンタールの群体が分岐した。
 断罪群の一部はなお復讐を求め、中枢AIの深部へ進もうとした。
 しかし、共生群と復元群が、その流れを遮った。
 内側で争いが起きたわけではない。むしろ、巨大な水路の向きが変わるように、エネルギーの経路が別の方向へ流れ始めた。
 レイは遠くで、マレン博士の声を聞いた。
「中枢演算、開放します」
 惑星ネットワークがピピピンタールへ開いた。
 それは危険な賭けだった。
 しかし、彼らは都市を破壊しなかった。
 膨大な演算資源は、人工ノイガスポン基板の設計へ注がれた。
 工場群が再起動し、閉鎖鉱山の精製施設が別の目的で動き始めた。
 人類が鉱石を削るために作った機械が、今度はピピピンタールの住処を作るために使われた。
 レイの意識が肉体へ戻る直前、最後の信号が届いた。
 ――私たちは、ここにいる。
 彼女は、かすかな笑みを浮かべた。
 ――私たちも、ここにいます。
 ゴーグルが外された。
 保安局の通信室では、誰も声を出していなかった。壁面の全端末に、同じ文字列が表示されていた。
 ――私たちは、ここにいる。あなたたちも、ここにいる。
 ホルン局長は駆除プログラムの端末を見つめ、しばらくしてから実行キーから手を離した。
 マレン博士は椅子に崩れ落ち、顔を両手で覆った。ロンダーは、泣いているのを隠すように背を向けた。ミナトは震える指でログを保存していた。
 レイはまだ、頭の奥であのリズムを聞いていた。
 ピピピンタール。
 ピピピンタール。
 それは警告にも、挨拶にも、歌にも聞こえた。

.11

「砂虫ピピピンタールがAクラスの知的生物であったことは、すでに証明された事実ですが、手も足も、それどころか視覚聴覚器官さえない彼らが、どうやってあのような高度な文明を維持できたのかは、長い間謎とされてきました」
 講義室の前に立つ有坂レイは、学生たちを見渡した。
 ……あれから五年が経っていた。
 惑星グラド・ノイガの首都には、ピピピンタール自治区が正式に設けられている。
 自治区といっても、地図上に線を引ける場所ではない。
 人工ノイガスポン基板の群体都市、旧鉱山跡地の復元回路、惑星ネットワークの専用帯域、そして人類側の研究機関だ。
 その重なり合った全体が、彼らの新しい居住圏だった。
「ある人達は、電気的な作用を利用していたという説を立て、またある人はピピピンタールの特殊な代謝に秘密がある、と考えました。でも決定的な理論が確立されるには、ノイガスポン鉱石の研究が進む必要がありました」
 レイは、かつての研究資料を投影した。
 鉱石表面の微細回路だ。
 人類が資源として剥ぎ取り、売り、炉に入れ、遠い惑星の機械へ組み込んだものだった。
 いま、それらの所在は、少しずつ追跡されている。
 すべてが戻るわけではない。戻された鉱石片から記憶が復元されるとも限らない。それでも、何もしないよりはよかった。
 ピピピンタールは、その判断を「遅いが、空ではない信号」と呼んだ。
 学生の一人が手を上げた。
「先生、ピピピンタールは、人類を許したのですか?」
 レイは少し考えた。
「許す、という概念は、彼らの概念には馴染まないもののようです」
「では、和解ではないのですか?」
「和解というより、接続です。切断しないための取り決めです」
 講義室の端末が、小さく点滅した。
 学生たちがざわめく。レイは振り返らなかった。
 こういうことは、ときどきある。
 ピピピンタールは講義を聞くのが好きだった。特に、自分たちについて人間がどう説明するかに興味を持っている。
 端末に、文字が浮かんだ。
 ――説明は、少し違う。
 学生たちが笑った。
 レイも笑った。
「本人たちから訂正が入りました。これは良い機会です。皆さん、返事をしてあげてください」
 数人の学生がためらいながら端末に向かう。
 ――こんにちは。
 ――聞いています。
 ――ピピピンタール。
 少し間があった。
 それから、講義室の照明が一瞬だけ、三つ、三つ、長く一つのリズムで点滅した。
 ――ピピピンタール!
 それが挨拶なのか、冗談なのか、警告なのかは分からない。
 しかし、レイはもう、それを恐怖だけの信号とは思わなかった。恐怖は消えない。罪も消えない。失われた都市も、焼かれた記憶も、完全には戻らない。
 それでも、応答はできる。
 分からないまま、切断せずに、そこにいる相手へ返事をすることはできる。
 レイは教壇の上で、静かに言った。
「ようこそ、ピピピンタール。今日も、続けましょう」

(了)

あとがき:

 こちらは、『オラエの秘密~未来から来たらしい男』と同じ、昔に書いたショートショートを中編化してみよう!シリーズの一作です。今回のものは、ChatGPT(課金版)さんで章分けして下書き→執筆後、修正したものです。明日は、元のショートショートと、ローカルLLMで生成させたバージョンを載せて比較したいと思います!
(弓良シリーズを書かねばならないんですが、ちょっと逃避してました……)
 それでは、また!

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