【中編SF小説】オラエの秘密~未来から来たらしい男
あらすじ:
高校生の佳美は、休日の駅構内の書店で、見知らぬ男から「オラエに気を付けて下さい」と告げられる。意味の分からないその言葉は、やがて彼女の人生に長い影を落としていく。時は流れ、近未来。佳美の夫の修造は、社会に静かに広がる新種の薬物“OLAE”を追ううちに、それが人類の未来と過去の両方を揺るがす存在だと知る。少女時代の出会い、壊れかけた家庭、未来からの干渉、そして異星文明の痕跡――過去と未来が交錯する中で、二人は「幸福」と「選択」の意味を問われていく。
本文:
.1
休日の午後の駅は、平日の駅とは少し雰囲気が違う。
改札へ吸い込まれていく人の足どりに、月曜日から金曜日までのような忙しなさがない。
行き先の決まった人たちがいる一方で、行き先そのものをあまり気にしていないように見える人たちもいる。
待ち合わせまでの時間を持て余し、売店の前で缶コーヒーを選んでいる男がいた。小さな子どもの手を引きながら、駅構内のパン屋から漂う甘い匂いに少しだけ足を緩める女の人もいた。
そうした人々を眺めていると、佳美は、自分がどこかべつの町へ紛れ込んだような気持ちになることがあった。
学校が休みの日に制服のまま出歩くのは、少しだけ後ろめたい。
しかし、制服を着ていると、家を出る理由を深く問われずに済む。佳美は、そういう小さな方便を覚える年頃だった。親は、休日くらいゆっくりしなさいと言うくせに、家にいればいたで、将来のこと、勉強のこと、進路のことを思い出したように口にする。高校生という年齢は、まだ子どもでいることが許されるようでいて、同時に、もう子どもではいられないことを毎日のように告げられる年齢でもあった。
改札の脇にある小さな書店は、そういう息苦しさから身を隠すにはちょうどよかった。入口の上の蛍光灯はやや古く、明るさのむらがある。雑誌棚の前は、人が立ち止まりやすく、奥へ行くほど通路が狭くなる。いちばん奥の壁際に、文庫のSFが肩を寄せ合うように並んでいる。そこへ行けば、駅の喧騒は少し遠のき、紙の匂いとインクの匂いが入り混じった、乾いた空気に囲まれる。
佳美は、その棚の前で立ち止まった。時間旅行。異星文明。終末戦争。未来史。表紙に描かれたそれらの題材は、現実にはありえないはずなのに、現実よりもずっと本当らしく思えることがある。
現実では、人はたいてい、選択肢があるように思わされつつ、初めから用意された細い通路の上を歩かされる。進学校へ行き、偏差値に見合った大学へ入り、職を得て、生活する。それが悪いわけではないし、必要なことなのだろうと佳美も分かっている。しかし、その「分かっている」という感覚が、時々、ひどく窮屈に思えて胸が詰まることがある。
彼女は、表紙に見覚えのある海外SFを一冊抜き取り、裏表紙の解説に目を落とした。遠い惑星へ移住した人類が、失われた地球を想い続ける話だった。そんなふうに、いったん失われた場所のことを、人はどれくらい永く覚えていられるのだろう、と佳美は思った。まだ失ってもいないもののことを考えているのに、その問いは妙に心に残った。
「オラエに気を付けて下さい。とても重要なことです」
声はすぐ近くからした。静かで、しかし躊躇がなかった。駅の店内で知らない人から話しかけられるときの、あの押しつけがましい調子ではなかったからこそ、佳美はかえって返事が遅れた。
顔を上げると、見知らぬ背広の男が立っていた。年齢は三十代半ばくらいだろうか、とっさには判別しにくい。顔立ちは整っているというほどでもなく、むしろ印象に残りにくいくらい平凡だった。しかし、その平凡さに、逆にわざとらしさを感じた。どこにでもいる人に見せようとして、かえってどこにも属していない人間のように見える。男の表情は、不思議なほど真剣そうだった。周囲の時間とは別の、もう少し粘り気のある時間の中に一人だけ立っているような目つきをしていた。
「……はい?」
佳美が言うと、男は頷いた。
「私、“運命改変商会”のヤマダです。もちろん、仮の名ですが」
佳美は、本を持ったまま、目をしばたたかせた。
奇妙な名乗りだと思った。笑ってしまえばよかったのかもしれない。あなた、怪しい人ですか、と、半分冗談の顔で言えばよかったのかもしれない。
しかし、男の声にも表情にも、冗談へ逃がしてくれる隙がなかった。
「二十一世紀には、個人の過去を変えることが、条件付きで認可されます」
男は、天気予報でも読み上げるような落ち着きで続けた。
「未来のあなたが、私どもと契約されましたので、お伝えに来ました」
佳美は、黙ったまま、手の中の本の角を強く押していた。紙の表紙がわずかにしなる感触だけが、今、ここが現実の駅構内であることをかろうじて知らせた。
「未来の、私が?」
「そうです」
「何を、契約したんですか?」
「ある人物と会わなかったことにしたい、という趣旨で」
男は、視線を逸らさなかった。
佳美は、その目力の強さが少し怖かった。
――嘘をついている人間は、もう少し視線を泳がせそうな気がする。目を逸らさない人間は、本気で嘘をついているか、本当に事実を言っているか、どちらかだ。
「誰と、会わなかったことにしたいんですか?」
「守秘義務がございますので、そこまでは」
「じゃあ、私が未来でその人と会って、後悔したってことですか?」
男は少しだけ口元を緩めた。笑ったのではなく、答え方に迷ったようにも見えた。
「後悔という言葉で整理できる感情ばかりではありません」
佳美は、ますます眉を寄せた。
「それで、オラエって何なんです?」
「今のあなたが、その意味をすぐ理解しなくても構いません」
「分からないままにしろってことですか?」
「分からないまま残る言葉のほうが、人生を変えることがあります」
その言い方は、反則だ、と佳美は思った。意味を教えず、不安だけを残していくつもりなのだろうか?
しかし、同時に、そのずるさは、まるでSF小説に出てくる『キーワード』みたいだと思った。理解できない単語が一つだけ差し込まれ、そのあと全てが、その言葉の周囲で回り始めるような。変な異星人とか、悪の発明とか。
「そんなこと言われたら、ずっと考えちゃうじゃないですか!」
「それも込みの依頼かもしれません」
男はそう言うと、礼儀正しく会釈して背を向けた。歩き去る足取りにも迷いがなかった。
佳美は、我に返り、本を棚へ戻して慌ててあとを追った。
しかし書店の外へ出たときには、男の姿はもう人の流れに紛れていた。改札前にも、売店の近くにも、それらしい背中は見当たらない。
佳美は立ち止まり、息を整えた。
「オラエ……?」
声に出してみる。意味は分からない。ただ音だけが舌に残った。
オラエ。
方言みたいでもあり、外国語みたいでもある――おらえ、お礼、オラの絵。そうした意味のない連想が頭の中を流れ、しかしどれも、腑に落ちなかった。
ホームへ降りても、その言葉は頭から離れなかった。
電車を待つ列の端に立ち、柱のそばで佳美はずっと同じ音を反芻していた。
それと、もし未来の自分が、ある人物と会わなかったことにしたいと望んだのだとすれば、その人物はこれから会う人間なのだろうか。それとも、もう会ってしまっていて、今は自覚がないだけなのだろうか。
そう考え始めると、通り過ぎる人たちの顔が一人ずつ意味を持ちはじめる。
ベビーカーを押す若い父親、部活帰りらしい女子たち、新聞を畳む老夫婦……誰も自分には関係ないはずなのに、未来から見れば何かの分岐点になっているかもしれない。
「オラエ……」
もう一度、小さく呟いた。
そのとき、肩を軽く叩かれた。
振り向くより早く、冷たい霧のようなものが顔へ吹きつけられた。
鼻と口と目に、刺激のある湿り気が入り込む。空気なのに重たく、白い布で頭を包まれたように息が詰まった。
佳美は咳き込み、反射的に後ずさろうとしたが、足がもつれた。ホームの床が傾く。黄色い点字ブロックが、ひどく鮮やかに見えた。
倒れる、と理解した瞬間、誰かの腕が身体を支えた。
制服の生地の擦れる音が耳元でして、金属と石鹸のあいだのような、少し懐かしい匂いがした。
佳美はその匂いに、なぜかほっとした。
そう思った自分に驚く間もなく、視界は暗く閉じた。
.2
修造が玄関のドアを開けた瞬間、甘ったるい匂いが鼻の奥へまとわりついた。
砂糖を焦がしたようでもあり、南国の花を過剰に煮詰めたようでもあり、どこかで嗅いだことのある匂いの寄せ集めのようでもある。
人間の感覚が快いと認識しそうな香りを、少しずつ、いやらしいほど丁寧に配合し、逃げ場なく室内へ満たした匂いだった。
その甘さの下には、換気されない部屋特有の澱みと、生活の疲れがわずかに腐り始めたような臭気が潜んでいる。
「佳美?」
呼んでも返事はない。
廊下を進む途中、居間の散らかりようが目に入った。
食べかけのパック、開けたままの栄養ゼリー、飲み残しの水が濁っている。
床を巡回するはずの清掃ユニットは途中で止まり、壁際では家事ロボットが待機灯を弱々しく点滅させている。胸部パネルには「主命令優先 介入拒否」の表示が出たままだった。
佳美が停止命令を出したのだろう。自分の荒れた生活を機械に整えられることさえ、煩わしくなっているのかもしれない。
「またか……」
口の中で呟いた言葉は、怒りというより、疲労に近かった。
寝室のドアを開けると、案の定、佳美がベッドに横たわっていた。下着姿のまま、片脚を投げ出し、天井をぼんやり見ている。口元には白いプラスチック製の細いチューブが咥えられ、先端から目に見えないほど淡い蒸気が立ちのぼっていた。
OLAE――情動安定化化合物。通称オラエ。初期には、不安障害や外傷後ストレスに対する補助吸入剤として、限られた臨床下で用いられていた。麻薬のような副作用が殆どなく安全な薬という触れ込みだったはずだ。
それが規制の網をくぐり、合成経路の不明な改良品が地下に流れ始めてから、社会は少しずつ歪みはじめた。
修造は駆け寄り、佳美の唇からチューブを引き抜いた。軽い感触だった。妻の口から生活そのものを取り上げてしまうような、奇妙な気分になった。
「やめろと言っただろう!」
佳美は、ゆっくりと目を動かし、修造を見た。焦点が合うまでに少し時間がかかった。ようやく彼を認識すると、彼女は子どもみたいに無防備な笑みを浮かべた。
「寂しくないわ」
その声は、愛情の言葉というより、遠くから流れてくる録音のように平板だった。
「あなたがいるから」
修造はその一言に、腹の底のどこかを鈍く殴られたような気がした。
ここにいても、自分は彼女に触れていないし、言葉も届いていない。それを本人の口から、幸福の形をした空虚な台詞で突きつけられると、怒ることも正すこともむなしかった。
「いるから何だ。俺がいることを、本当に分かって言ってるのか?」
佳美は目を閉じ、少しだけ首を振った。
その仕草には、拒絶とも肯定ともつかない曖昧さがあった。
「大丈夫。もう痛くないの。全部、少し遠くなるから」
「何が痛いんだ?」
佳美は、応えなかった。あるいは、応えたくても、言葉になる前にオラエの甘い煙がすべてを均してしまうのかもしれない。
そのとき、修造の携帯端末が短く電子音を発した。こんな雰囲気の中であっても、機械の音は、妙なほど現実味があり、シビアに聞こえる。
取り出した画面に、一行だけが浮かんだ。
特殊工作員Sへ A埠頭に集合せよ
それは数秒で消えた。
修造は端末を握りしめた。
行かなければならない。しかし、またこの部屋を出るのかと思い、疲労感を覚えた。
――いったい何度、この生活を中断して任務へ向かい、戻ると生活がもう一段階崩れているのを見てきただろう。
* * * 修造は、もともと、特殊工作員になるつもりは、なかった。
大学では金属工学と応用物理を学び、卒業後は軍属研究機関で、異星由来と推定される航法技術の断片を解析する班にいた。
そこで彼が出会ったのは、局所ティプラー円盤と呼ばれる装置と、その原理を解析して理論化したものだった。
異星文明は、超光速航法を、単純な推進力の延長ではなく、時空の接続関係そのものを局所的に組み換えることで実現していたらしい。空間を走り抜けるのではなく、離れた場所どうしを一時的に“隣”へ変えてしまうのだ。
その副作用として、時間方向にもわずかな位相ずれが生じる。人類はその位相ずれを逆手に取り、小規模な過去遡行装置を作りあげた。
だが解析が進むほど、修造はその技術の不穏さを知った。
時空は道ではなく、縫い目を持たない広がりだ。その広がりへ無理に継ぎ当てを繰り返せば、布地と同じように疲労する。
記憶の重なり、因果の歪み、物質結合の局所崩壊――人の感覚では説明しづらい破綻が、少しずつ蓄積するようだった。
研究が軍事と諜報の側へ移されたとき、修造は解析班を離れた。安全柵の内側に残って理論を磨くより、むしろ現場で現実の汚れに触れているほうが、自分にはまだ耐えられる気がしたのだ。
言い換えれば、彼は逃げたのかもしれない。理論の責任から、半分だけ。
* * * A埠頭の倉庫は、夜の海と油の匂いが混ざる場所だった。
風が吹くたび、塩気のある湿り気が頬を撫で、どこか遠くで金属がきしむ音がした。大型コンテナの影は深く、作業灯の白さだけが異様に人工的だった。
修造は、一人で待ち、約束の時刻ちょうどに現れた黒服の男を見た。
人間に見える。しかし、見えすぎるというべきかもしれない。仕草の一つ一つが、こちらの安心感を刺激しない程度に抑えられているように思えた。
そう、人間らしさがを「丁寧に調整された」ような嘘臭さが感じられた。
「待たせましたね」
男は、ボストンバッグを足元へ置いた。
「上物です。サンプルをどうぞ」
修造は、バッグの中をのぞき、白いチューブが整然と並ぶのを見た。
その清潔さがかえって不気味だった。地下で流通する薬物は、もっと雑多で、もっと汚い顔をしていそうなものなのに、これらは病院の備品のように整いすぎていた。
修造は、銃を抜き、男へ向けた。
「お前、何者だ?」
男は、片方の口角だけをわずかに歪めた。
「善良な一市民ですよ」
「ふざけるな。OLAEの分子構造は、現代地球の合成化学では説明できない。神経系への適合性も高すぎる。しかも、情動の平準化だけでなく、意志決定の勾配までなだらかにする。こんなもの、地球の製薬会社が自主開発できると思うか?」
「そこまでご存じなら、話は早いですね」
男は、肩をすくめた。
「私は、未来から来ました」
「未来人なら、なおさら悪い」
「そうでしょうか? オラエは、人間の幸福感を高めます。不安も怒りも、歴史的恐怖も和らげる。人々が穏やかになれば、戦争の確率は減る」
修造は男のその言い方の中に、人間そのものに対する冷酷さを感じた。幸福という言葉を用いているのに、その幸福を人の側から見ていない。温度管理や群集制御の話をしているみたいだった。
「それは平和ではない。眠らせているだけだ!」
「眠りながら滅びないなら、立派な政策です」
その瞬間、倉庫の暗がりから鋭い声が飛んだ。
「だまされちゃダメだ!」
白い光線が男の胸を撃ち抜いた。
男がよろめき、床へ崩れ落ちる。人間の皮膚に見えていたものがずるりとずれ、下から緑がかった肌が露出した。指は細く長く、関節の位置がわずかに違っている。
修造は、反射的に銃口を声のほうへ向けた。
「あ、撃たないで!」
コンテナの影から、若い男が両手を挙げて姿を現した。二十歳前後に見える。
修造は、その顔を見た瞬間、胸の奥に鈍い痛みを覚えた。
彼を初めて見るはずなのに、知っている――鏡像のように似ているのではない。もっと厄介な、時間を隔てた共鳴のような似方だった。
「こいつの言うことは、半分だけ本当です」
若者は倒れた異星人へ、視線を落とした。
「オラエで、社会を穏やかにできる局面は確かにある。でもそれは、抵抗する力も削るからです。昔、イギリスが中国にやったことと同じですよ。麻薬で敵国を鈍らせる」
修造は、銃を下ろさなかった。
「お前は誰だ?」
若者は、少し笑った。その笑い方が、佳美にも似ていた。
「もうすぐ始まるんです。宇宙戦争が」
「質問の答えになっていない!」
「分かっています。でも時間がない」
若者の輪郭が、そのときふっと薄れた。
照明の反射ではない。存在そのものの濃度が落ちていくような、不気味な薄さだった。
「ご活躍、期待しています。父さん」
修造は、一歩踏み出した。だが指先が届く前に、若者の姿は夜気の中へ溶けた。
そこに残ったのは、海の匂いと、理解の追いつかない沈黙だけだった。
.3
佳美が目を開けると、見慣れない白い天井があった。
蛍光灯の光は薄く、少しだけちらついている。鼻の奥に薬品めいた刺激が残っていて、喉が乾いていた。身体を起こそうとすると、近くで椅子がきしんだ。
「無理するな」
男子生徒の声だった。
振り向くと、同じ制服の少年が椅子に座っていた。膝の上に佳美の鞄と文庫本が載っている。
妙に礼儀正しい感じだった。誰かを介抱しているというより、誰かから預かったものを正しく返す責任を果たしているような所作だった。
「ここ……」
「駅の救護室だ。君、ホームで倒れていた」
彼は、事務的に言ったが、事務的でいようとしているだけなのだと佳美には分かった。
放っておいてもよかった他人のために、こうして残っている時点で、心配してくれていると丸わかりだ。
「あなたが運んでくれたの?」
「近くにいたから」
「ありがとう」
「別に」
佳美は、少しだけ笑った。そういう返事をする人は、たいてい、優しいことを自分の手柄にしないだけだ。
机の上に置かれた紙コップの水に手を伸ばすと、少年はすぐにそれを取って差し出した。
受け取ると、指先が少しだけ触れた。
その触れ方に、初対面らしいためらいがなかったので、佳美はかえって戸惑った。
「私は、佳美」
「修造」
「修造くん」
「くんはいい」
「じゃあ、修造」
名前を呼ぶと、口の中に不思議となじんだ。初めての音なのに、ずっと前から呼んできたような感触がある。
そんなはずは、ないのに、と佳美は不思議に思った。
修造は、文庫本を差し出した。
「落とした」
「ありがとう」
表紙には、折れも汚れもついていない。乱暴に拾ったのではなく、気をつけて扱ったのだろうと分かった。
「あなたも、SF、好きなの?」
「少しは」
「その顔は、少しじゃないわね」
佳美が言うと、修造は目を逸らした。
照れたのか、何を言い返せばいいか分からないのか、そのどちらでもあるような短い沈黙が生まれた。
「時間旅行の本とか、読む?」
「読む」
「現実にあったらどうする?」
「困るだろうな」
「それ、夢がないよ!」
「夢があるから、問題が起きる」
その返事に、佳美は思わず息を漏らした。こういう考え方をする人か、と少し嬉しく思った。
彼は、何でも現実的に切り捨てるのではなく、むしろ夢が現実へ食い込むことの危うさを知っているように思ったのだ。
救護室を出るころには、頭のぼんやりした感じは、大分、薄れていた。
階段を上がりながら、佳美はふと思いだした。
「そうだ。さっき、変な人に話しかけられたの」
「変な人?」
「背広の男の人で、未来の私に頼まれて来たって」
修造の足が、ごくわずかに止まった。だが彼はすぐ歩き出した。
「それって、宗教の勧誘じゃないか?」
「そういう感じじゃなかったんだ。すごく真剣でさ」
「何て言われた?」
「オラエに気を付けろ、って」
修造は、それ以上すぐには言葉を返さなかった。
佳美は、その沈黙の深さに少しだけ戸惑いを覚えた――知らない単語を聞かされたときの間ではなく、知っていることをどこまで言うか考えている間のように思えたから。
思い切って尋ねてみる。
「知らない?」
「知っているとは、言えない」
その答え方は、嘘ではないのかもしれない。しかし、何か隠しているような感じもした。
「それとね、未来の自分が、ある男と会わなかったことにしたいから依頼された、って」
「ある男?」
「そう言っていたの」
修造は、硬い表情をしていた。
佳美は、その表情を、多分、一生忘れないだろうと思った。何か個人的なことを言われたわけでもないのに、そこで彼の中に一瞬だけ、生々しい感情が走ったからだ。
「気にしすぎるな」
「無理だよ、そんなの。むしろ気にしないほうが変じゃない?」
「変でも、考えすぎると、人は誰かに誘導される」
「修造、よくそういう言い方するよね」
「それは、どういう意味だ?」
「まるで、自分が一回そうなったことあるみたい」
「……」
修造は、応えなかった。
改札の外へ出ると、夕方の光がガラス越しに斜めに差し込んでいた。影が長く、駅前の舗道を横切っている。
二人は、自然に同じ方向へ歩きはじめた。
「あのさ、この制服で分かると思うけど、私、××高校なんだよね。二年」
「ああ。俺は△△高校。同じく二年だ」
話は学校のことや授業のことへ移り、さっきまでの奇妙な会話は脇へ押しやられていく。
彼は、別の進学校に通う、同学年の生徒で、家は割と近所だったが、小中学校の学区が違っていた。
彼と話しながらも、佳美の心の底では、オラエという言葉と、目の前を歩く修造という男子生徒のことが、妙な具合に近い場所へ並び始めていた。
別れ際、佳美は、口を開いた。
「ねえ」
「何だ?」
「あなたと初めて会った感じ、しないわ」
修造は、信号の赤を見たまま、しばらく黙っていた。車の列が流れていく。夕暮れの音はどこか遠く、二人だけがその場に取り残されたようだった。
「俺もだ」
彼の短い返事だけで、佳美の胸は不思議なくらい静かになった。
* * * その夜、佳美の家の黒電話が鳴った。
受話器を取ると、しばらくざらついた無音が続いた。切ろうとしたとき、遠いノイズの向こうから女の声がした。
「その人を、好きになりすぎないで」
低く、かすれた声だった。年配の女の声に思えたが、妙なことに、どこか自分の声にも似ている気がした。
「誰です、か?」
「その先は、痛いから」
「何の話ですか?」
問い返しても、返事はなく、回線は途切れた。
佳美は、受話器を持ったまま、しばらく立ち尽くした。
怖いと思うべきなのだろう。
しかし、怖さより先に、やるせない哀しみの感情が胸に広がった。
自分に忠告してきた誰かは、脅したいのではなく、本当に痛みを知っている人の声をしていたように思えたのだ。
.4
情報部の極秘区画は、静かすぎた。
壁も床も光を吸い込むように鈍く、靴音さえ抑え込まれていた。人間の息遣いや焦りや躊躇を、建物の側が最初から想定していないみたいだった。
端末室で一人、修造は認証を重ね、封印されていた記録群を開いた。
埠頭で遭遇した異星人は、表向きには不法薬物流通の犯人として処理されることになった。
公式な社会はまだ、異星人が地下経済へ浸透している事実に耐えられないのだ。人々は、国家の腐敗には怒れても、文明の階層そのものが裂ける話には、簡単にはついてこられない。だから、事実はいつも稀釈され、扱いやすい形へ薄められている。
そんなことを考えながら、画面の最上段に表示された文字列を見て、修造は目を細めた。
運命改変商会
民間個人史修正業務
局所ティプラー円盤、使用申請履歴
やはり、と思うのと同時に、胃の奥が冷える気がした。
過去改変は、長らく軍と特務機関の独占領域だった。その危険性を知れば当然のことだ。
ところが、数年前から、限定的な個人史修正だけは、民間委託の枠が試験的に設けられていた。
大きな歴史は変えられない。しかし、偶然の出会い、すれ違い、一度の会話、その程度なら、人生の流れをよりよい方向へ修復できる。そういう名目だった。
修復とは、ひどく都合のいい言葉だ――と修造は思った。傷んだ布地をリフォームするように、人の人生の綻びを直す、といった語感だった。
次に、彼は、古い技術資料を呼び出した。
墜落した異星文明の円盤型宇宙船から回収された航法装置の断面図だ。花弁のように広がる多層リング、中心部の高密度回転場生成機構、周囲を取り巻くフィールド調相器の素子。
地球側は、それを便宜的に「局所ティプラー円盤」と呼んでいるが、もともと時間移動装置として設計されたものではない。本来は、離れた空間どうしの隣接関係を一時的に書き換えるための装置だった。
彼らの宇宙船は、長距離を飛ぶのではない。遠くの一点を、短い瞬間だけ“ここに近づける”。それが異星人の超光速航法だった。
しかし、その接続は、代償なしでは済まないものだった。
時空は、ゴム膜ではない。
――何度も無理に引き寄せれば、縫い目のないはずの連続体に擬似的な縫い目が生じる。小さな位相ずれは時間方向にも波及し、狭い範囲なら過去との接続さえ可能になる。
人類は、そこへ飛びついた。距離を縮めるよりも前に、時間をいじる方向へ。
報告書の一節が目に留まった。
当該文明は本技術の長期的濫用により、母星近傍の時空安定性を喪失した可能性が高い。
モノポリウム群体発生、時空間位相の局所破断、高周波重力振による惑星軌道不安定化等により、継続的居住不能へ移行の模様。
修造はその文面を読みながら、言葉の向こう側を想像せずにはいられなかった。軌道が外れた惑星は、灼熱の世界になったのか酷寒の凍りついた墓標になったのか。その前に特殊な粒子崩壊の放射に曝されて焼けていたかもしれない。
それ以前の段階で、複数の時空と時間のずれが生じていただろう。
たとえば、家が翌日には家でなくなっていたかもしれない。昨日まで開いていた扉の場所が、今日は一センチだけずれている都市。夜と朝が、同じ街角で違う密度で重なってしまう空……。
そんな場所に住み続けることは、おそらく惑星の問題以前に、心の問題になる。記憶と知覚と因果関係を信じられない土地では、人間は長く正気を保てない。
だから、彼らは地球へ来た。征服という単語だけでは言い表せない、生存のための侵攻として。しかし、その論理が地球人にとっての暴力であることに変わりはない。
修造は次のファイルを開いた。
OLAE = Emotional Lability Attenuator for Earth-humans
対地球人向け情動安定化化合物
効果:幸福感増幅、恐怖、怒り、歴史的危機認識の鈍化
幸福感増幅――あまりに滑らかな表現だ。人間の抵抗心を奪い、選択をさせないようにし、将来に対する切迫感を削ることを、そう言い換えている。
別の記録に移る。
個人改変申請ログ――依頼者コードの列を追っていると、見覚えのある名前が現れた。
佳美・****
申請内容:接触回避要請
対象日時:××年×月×日 東京第三区東部鉄道駅構内
修造は椅子にもたれた。やはり佳美は、過去へ手を伸ばしたのか。
しかし、一件だけではない。まったく同じ日時、同じ座標に対し、複数の介入申請と未認可アクセスが重なっている。
親族候補アクセス
未登録若年男性
外来起源ノイズ混入
因果応力集中警告
監視映像の荒いフレームを拡大すると、柱の影からホームを見ている若い男の顔が浮かび上がった。
昨夜の埠頭で消えた青年だった。骨格の線、頬の陰影、目のつき方。修造自身の若いころと、気味が悪いほど近い。
「本当に……」
声は独り言の形をしていたが、端末室の静けさの中では、まるで誰かに問いかけているみたいに聞こえた。
さらに別の画面では、東京東部の時空応力地図が赤く染まっていた。
複数の改変が重なり、布地へ同じ針穴を何度も開けたように、その地点だけが疲弊している。中心は、あの駅だった。
修造は、端末を閉じた。目を閉じても、赤い応力図だけが瞼の裏に残った。
過去を少し直せば幸福になれる。誰もがそう信じる。だが少しのつもりで開けた穴は、やがて未来の重みで裂ける。
* * * その夜、家へ戻ると、佳美は珍しく起きていた。
部屋の匂いはまだ甘いが、彼女の目には薄い膜の向こうに、かろうじて素の光が見えた。
「修造」
「起きていたのか?」
「たまには」
彼女は、ベッドの端に腰かけ、しばらく修造を見ていた。
「あなた、何か知ったのね?」
修造は、応えなかった。だが沈黙は、時として言葉より正確だ。
「ねえ」
佳美は、じっと修造を見つめた。
「もし過去を変えられるなら、人は本当に幸せになれると思う?」
修造は、考えるより先に答えていた。
「思わない」
「即答ね」
「幸せを設計しようとすると、別の何かが壊れる。確実に」
佳美は、少し笑った。その笑みには、自嘲の気配があった。
「私、昔、駅の本屋で変な人に会ったの。オラエに気を付けろ、って言われた」
修造の胸のどこかが、静かに軋んだ。
「今になって思うの。あのとき、何かが始まったのかもしれないって」
修造も、佳美をじっと見つめた。
始まったのは、その日なのか、それより前なのか――あるいはもっと先の未来から伸びてきた手が、その日に触れただけなのか。
もはや、区別はつかない。
.5
高校生活は、外側から眺めると、ほとんど変化のない繰り返しに見える。
制服を着て、授業を受け、昼を食べ、部活をして帰る。その表面だけを見れば、一日一日の差はあまりない。
しかし、実際には、その小さな差の中に、人生がひそかに傾く瞬間がいくつもある。
誰と帰るか、どの本を選ぶか、何に笑って、何に黙るか――そうした小さな選択の積み重ねが、のちに大きな違いを生む。
佳美は、修造と知り合ってから、そのようなことを以前よりはっきり感じるようになった。
昼休みの図書室は、いつにも増して静かだった。
窓の外で運動部の掛け声が遠く反響している。棚の隙間を渡る光の筋の中で、埃がゆっくり漂っていた。
佳美は、貸出カウンターの脇に立ち、修造が返却本を整理するのを見ていた。彼は、図書委員ではないが、なぜかこういう仕事が似合っていた。雑に扱われた本の角をまっすぐに直し、番号順に並べ、誰にも頼まれていないのに棚の乱れを整えていた。
佳美の生活には、そういう几帳面さは、あまりない種類のものだった。
「修造って、将来、何になるつもり?」
何気なく尋ねると、修造は本の背を指で揃えながら答えた。
「まだ決めていない」
「でも理系でしょ?」
「たぶん」
「たぶん、って。そこは、はっきりしていると思っていたよ」
修造は、少し考えた。
「物の仕組みを考えるのは嫌いじゃない。でも、それで人の役に立つかどうかは別だ」
「難しいこと言うね」
「簡単な話だ。新技術は、最初は便利に思えるが、後で、何か問題を引き起こすこともある」
佳美はその言い方に引っかかった。高校生の口から出るには、妙に疲れた言葉だった。
「何かあったの?」
「別に」
「またそれ!」
佳美は笑ったが、心のどこかに、小さな棘のようなものが残った。
修造には、同年代の男子にしては不釣り合いな重さがある。何故か、まだ背負ってもいないはずの未来の責任を、先取りしているような……。
* * * 一方で、佳美の周囲には別の種類の魅力がある生徒もいた。
文芸部の先輩である真崎は、その代表だった。長い指をしていて、言葉を話すときも、その指が空中で文の続きを書くみたいに動く。映画や芝居や詩の話が好きで、佳美の読む小説にもすぐ反応した。
「佳美って、もっと遠くへ行けそうな顔してるよ」
放課後の教室で、真崎はよくそんなことを言った。窓の外の校庭に夕方の光が傾き、机の上へ橙色の帯が伸びる時間だった。
「遠くって、どこですか?」
「どこでも。ここじゃないところ」
その言い方は魅力的で、同時に無責任だった。佳美は、それがよく分かっていた。分かっていて、少し心を動かされた。
彼は、修造のように足元を見ろとは言わない。真崎の言葉は、足を地面から離れさせる。浮くことの危うさも、浮けることの甘さも含んでいる。
だからこそ、佳美は時々、自分が二つの方角へ引かれているような気がした。
修造のそばにいると、自分の未来は狭いままではないが、地に足のついたものとして広がる。
真崎のそばにいると、未来はもっと曖昧で危うい光を帯びる。
どちらが正しいという話ではなく、どちらに触れた自分が好きか、という話なのかもしれなかった。
* * * ある帰り道、修造が唐突にそう言った。
「真崎先輩のこと、好きなのか?」
佳美は、驚いて彼を見た。
「何、それ?」
「聞いただけだ」
「修造、そういうこと聞くんだ?」
「聞いて悪いか」
「悪くはないけどさ、ちょー珍しい」
修造は、前を見たまま歩いた。街路樹の影が夕方の舗道へ長く伸びている。
「危ない感じがする」
「真崎先輩が?」
「立っている場所が、本人にも見えてない。そういう人間は、危ない」
佳美は、少しむっとした。
「厳しいね!」
「お前は、言葉で引っ張られやすい」
「それ、自分では分からないよ」
「分からないから言ってる」
言い方は不器用だったが、支配しようとする響きはなかった。
選ぶなと言うのではなく、選ぶときに何を足場にしているか見ろ、と言っているのだ。その不器用さが、佳美には、かえって信頼できた。
* * * ある日、授業中のノートの隅に、佳美は何気なく丸い図を描いた。
中心から外へ向かって何重にも巻き込む螺旋。平面なのに奥へ落ちていくみたいな線だ。自分でも、なぜそんな形を描いたのか分からない。
修造が、それを覗き込んだ。
「何それ?」
「分かんない。夢で見た気がするの」
「夢?」
「回ってる円盤みたいなもの。綺麗なんだけど、近づくと吸い込まれそうで、ちょっと怖い感じ」
修造は、その落書きを見つめたあと、視線をそらした。
「変な夢だな」
「うん。でも忘れられないの」
佳美はその下に、何となく言葉を書き足した。
幸福って何だろう。
書いたあとで、自分でも恥ずかしくなった。いかにも考えすぎの高校生らしい。
でも、その問は、このごろずっと胸の奧にあった。
未来の自分が誰かと会わなかったことにしたいと望むくらい、人生は簡単に痛みを伴うものになってしまうのだ。
そうなら、幸福とは、痛みがないことなのだろうか。それとも、痛みがあっても選び続けられることなのだろうか。
その夜、佳美は、また夢を見た。高い建物の窓が、不規則に古びたり新しくなったりする街だった。空は夕焼けにも夜明けにも見えず、時間そのものが迷っているような色をしている。街を歩く人々は穏やかな顔をしている。怒っている人も、泣いている人もいない。誰も急がず、誰も振り返らない。その静けさは平和というより、感情を薄く溶かした液体に人が沈められている感じに近かった。
遠くで地面が静かに裂けた。裂け目の向こうに、緑色の細い手が見えた。
「地球も、同じになる」
誰かがそう言った。
振り向くと、年上の女がいた。中年のはずなのに、自分の目元を老いさせたような顔をしていた。女は、何か言おうとするが、声が出ない。泣きそうで、でも泣くことも忘れてしまった人の顔だった。
佳美は、目を覚まし、しばらく天井を見つめた。夢の細部はこぼれていくのに、「地球も同じになる」という言葉だけが、鉛のように重く残った。
.6
若い男が再び修造の前に現れたのは、夜の高架下だった。
頭上を電車が通るたび、コンクリートが低く震える。湿った風が吹き抜け、線路脇の雑草が暗がりの中で擦れ合った。街灯の白い光の下で、若者の輪郭は前回よりいっそう不安定に見えた。立っているのに、半分はこちら側の世界からほどけかけているような薄さがあった。
「長くは話せません」
若者は、そう言った。
「まず名前を言え」
修造が返すと、若者は、少し困ったように笑った。
「名前を言うと、父さんは余計に迷うと思う」
「父さんと呼ぶなら、説明責任くらい果たせ」
若者は、ポケットから薄い端末を取り出し、空中に立体映像を浮かべた。解像度は粗いが、家族写真だと分かる。少し疲れた佳美と、今より表情の固い修造だった。
二人のあいだに立つ少年の目元の形は佳美に似ていて、口元は修造によく似ている。
修造は、その映像から目を離せなかった。
偽造しようと思えばできる。しかし、それだけでは済まない細部の現実感があった。写真に写る三人の距離感、うまく笑えていない息子の顔、佳美の肩がわずかに前へ出ている癖――そうしたものが、安っぽい工作では再現しにくい種類の生々しさを持っていた。
「僕は、二人の息子です」
「証拠にならない」
「そうでしょうね。でも、家の勝手口の鍵、雨の日に引っかかるでしょう。母さんは昔から右手で髪を払う癖がある。父さんは左肩の古傷が冬になると痛む」
修造は、黙った。
若者は、続けた。
「目的は、二つです。母さんを救いたい。父さんにも生き残ってほしい。できれば地球も」
「急に大きな話になったな」
「大きいんです、本当に」
笑いもせずにそう言う顔が、妙に真剣で、修造は少しだけ視線を逸らした。
「オラエは統治薬です。正式名称は『OLAE』。情動安定化化合物……恐怖と怒りを和らげ、歴史的危機感を鈍らせる。だから、パニックは、減る。暴動も、減る。短期的には社会が安定して見えるでしょう。でも、それは、人間から抵抗する意志を奪うということです」
「異星人のための薬、なんだな?」
「異星人の侵略のための薬です。しかし、同時に、崩れかけた時空で生きる苦痛を和らげる薬でもある」
若者は、少し息をつき、壁にもたれた。
「彼らは、自分たちの星を壊しました。局所ティプラー円盤を超光速航行に使いすぎた。母星系の時空が持ちこたえられなくなったんです。まず、時間と因果が崩れた。その後、時空が“割れ”て、高エネルギー放射が惑星の大気を吹き飛ばした。死の星になったその惑星は、軌道がずれて、恒星に飲み込まれました」
修造は、資料で読んだ文章よりも、その言葉の具体性に息苦しさを覚えた。若者は、見たことのあるような顔で話していたからだ。
――実際に見たのか、親から聞いたのか、それとも未来の教育の中で刷り込まれてきたのかは分からない。しかし、ただの情報として処理していないことだけは分かった。
「だから地球へ来たのか?」
「安定した時空を持つ星だから。まだ布地が破れていないから」
「まだ、か」
「でも、地球人も、同じ道に足をかけています。時間改変が合法化され、商売になってしまった。過去を少し直せば幸福になれると、みんな思い始めた。東京東部はその実験場みたいなものです。小さな人生の修正が何度も重なって、応力が集中している」
「それは……まずいな。でも、その危険を考慮した上で、使っているのではないか?」
「いいえ。局所の改変であっても、物質は、同じ場所にあるのに、時間位相が、ずれます。朝起きると、記憶と部屋の配置が噛み合わない……そういう世界になり得ます」
高架の上を列車が通り、会話のあいだへ鉄の響きが流れ込んだ。
「駅の日のことを話せ」
修造が言うと、若者は目を伏せた。
「あの日、僕は母さんに記憶消去ガスを使いました」
「やはり、お前か」
「全部を消すほど強くはしていないです。直前の混乱をぼかして、近くにいた若い父さんに好意が向きやすくなる程度に、微量の誘導成分を混ぜた」
「最低だな」
「分かっています」
若者は、反論しなかった。その素直さが、修造にはかえって堪えた。
自己正当化で突っぱねるほうがまだ楽だったのに、この若者は自分の卑劣さを理解したうえで、それでも必要だったと言おうとしている。
「でもそうしないと、母さんを父さんに会わせられなかった。少なくとも、僕の知っている未来では」
「未来の佳美は、逆に引き離そうとしていた」
若者は、少し遠くを見るような目になった。
「母さんは、いつも全部を知っていたわけじゃないんです。父さんを失う未来も見た。僕を失う未来も見た。世界が崩れる未来も知った。その都度、一番痛いものから逃れようとして、過去に手を伸ばした。だから依頼の意図が、その時点ごとに少しずつ違う」
「最初に改変を始めたのは誰だ?」
「母さんじゃありません」
その答えは、修造の胸に冷たく落ちた。
「父さんの側です。父さん個人か、父さんのいた組織か、それは断定できない。でも最初の継ぎ目は、父さんたちが作った」
修造は、壁へ背中を預けた。コンクリートの冷たさが、妙に生々しかった。
「お前はそこまで分かっていて、なぜまだ存在していられる?」
「存在してないですよ、かなりもう」
若者は右手を見せた。指先の向こうが、街灯の白さに少し透けている。
「それでも来たのか」
「家族だからです」
その言い方のあっけなさが、かえって胸を打った。
理屈や歴史や文明の話をしていても、最後に人を動かすのはそういう単純な言葉なのだと、修造は認めざるをえなかった。
.7
佳美は、オラエを吸った直後の時間よりも、その薬効が薄れ始めたあとの時間を恐れていた。
吸っている間、世界は柔らかい膜を一枚かぶったように見える。胸の中でざらざらと擦れ合っていた不安や怒りや後悔が、その膜の内側で遠のく。遠のいたものは、たしかに痛くない。しかし痛くないからこそ、自分が何を失っているのかが曖昧になり、それが後から一気に戻ってくる。
その日、居間の棚に置かれた写真立てを見たとき、佳美は息を呑んだ。
家族写真のはずだった。修造と自分、そして真ん中に立つ少年。昨日までは確かにそうだった。
なのに、今日は、その少年の輪郭だけが曖昧だった。逆光でもピンぼけでもない。光を撮像素子に焼き付けること自体に失敗していたかのように、顔の造作が定まらない。
「やめて」
誰に向かって言ったのか、自分でも分からない。時間に向けたのか、自分自身に向けたのか、それとも過去を縫い直した無数の手に向けたのか……。
佳美は、寝室へ戻り、奥の引き出しから古い端末を取り出した。
修造には隠していたものだ。起動音さえ古びて聞こえる。暗号化されたファイル群の一つを開くと、そこには運命改変商会の利用履歴が残っていた。
自分は、一度だけだと思っていた。いや、二度だったかもしれない。しかし画面に並ぶ記録は、それより多い。しかも名義が自分だけではない。修造、識別不安定の若年男性、出所不明の第三アクセス。
人生の分岐点だと思っていた場所へ、いつの間にか何人もの手が触れていたことを知り、佳美は、吐き気に似ためまいを覚えた。
記憶が一本ではない。昔の自分が、別の人生の薄い残響を持っている。
修造と結ばれない人生――修造と結ばれても、子どもを失う人生――もっと大きな崩壊の中で、自分だけが生き残ってしまう人生――どれが本当にあったのか、今の佳美には分からない。
それでも、そのどれにも痛みだけは確かにあった。
佳美は、元々、誰かに人生を決められるのが嫌いだった。親の言う「普通」や「安定」や「女の子なんだから」という言葉に、小さいころから息苦しさを感じてきた。
……その反発があったから、未来を変えられると言われたとき、自分は飛びついたのかもしれない。自分で選び直せるという響きの中に、自由を見たのだ。
しかし、選び直した結果、何を壊したのだろう?
オラエを初めて吸ったのは、単なる快楽のためではなかった。
時空障害の兆候が、身体の側に出始めたからだ。廊下を歩いていると、同じ場所を二度通った気がする。会話の途中で、相手の唇が別の言葉を言ったように見える。夜中に目覚めると、時計の秒針が一度だけ逆向きに動いたように見える。
――そういう細かな異常は、他人に話せば気のせいで片づけられる程度のものだ。しかし毎日続けば、人の正気は、確実に削れていく。
オラエは、その削れた部分へ、少しばかりの幸福を流し込んでくれる。穴は埋まらないのに、埋まった気にさせる。
画面をスクロールしていると、ある依頼文の断片で指が止まった。
対象人物との接触を回避したい。
理由:これ以上、愛したくない。
佳美は、目を閉じた。愛したくない、ではない。これ以上愛したくない。既に愛してしまっていて、それ以上進めば壊れると知っている人の言い方だった。
その相手が修造なのか、他の誰かなのか、今の彼女には断言できない。しかし、その記録を書いた自分は、弱さだけでなく、切迫した必死さを抱えていたのだと分かった。
別の欄には、理解しづらい専門語が並んでいた。
外来起源信号
因果楔注入
対象人物周辺の将来的脆弱点形成
佳美は、眉を寄せた。
意味は半分も分からなかった。しかし、その文面に冷たい悪意だけは感じられた。
自分たちの家族が、自分たちの未熟さや愛情の暴走だけで壊れかけたのではない。もっと遠い場所から、もっと無機質な目的で、脆さを育てる手が触れていた。
そのとき、廊下の先でわずかな物音がした。家事ロボットの駆動音とも、修造の足音とも違う。
佳美が扉を開けると、暗い廊下の向こうに、一瞬だけ若い男の後ろ姿が見えた。次の瞬間には消えていた。
「待って」
思わず呼びかけると、空気の中から声だけが返った。
「母さん」
その一語で、佳美は動けなくなった。見えない。しかし、見えないまま胸の底を確かに打つ声だった。懐かしいと言うには知らなすぎるのに、大事なものが名前の形をとって現れたような声だった。
「ごめん。全部は戻せない」
「あなた、誰?」
「まだ言えない。でも、母さんが悪いだけじゃない。それだけは覚えていて」
声は、そこで消えた。
佳美は廊下にしゃがみこみ、膝を抱えた。
苦しくても全部消そうとしてはいけないのかもしれない、とその時、初めて思った。
痛みをなくそうとし続けることが、未来そのものを混沌に落としてしまうなら、痛みは痛みのまま引き受けるしかないのかもしれない。
窓の外の空が、ほんの一瞬だけ揺れた。夕方の熱気で遠くが歪むのとは違う。空気の層ではなく、空そのものの奥行きがずれたみたいな揺れだった。
.8
修造が情報の断片をつなぎ合わせていくにつれ、駅の日の出来事は、複数の未来が同じ一点へ押し寄せた結果だと分かってきた。
最初の介入は未来の佳美だった。
彼女は、過去のある出会いを断ちたかった。誰を避けたかったのか、その時点の彼女自身にも多分、完全には分かっていなかった。ただ、これ以上愛したくない、と記録に残している以上、その出会いは、既に人生の深いところへ入り込んでいたはずだ。
二番目の介入は、息子だった。母と父を結びつけるため、記憶消去と好意誘導を使った。倫理的には、酷く歪んでいる。しかし、彼にとっては、そうしなければ家族が成立しない未来が見えていたのだろう。
三番目の介入は、もっと冷たかった。異星側工作員は、佳美個人の幸福にも不幸にも関心がない。重要なのは、将来的に大規模な時空接続を行う際の“脆弱点”を地球側に育てることだった。複数の改変が重なる人物、その周辺に生じる因果の歪み、繰り返し触れられた記憶の継ぎ目――そうした場所は、あとから大きな接続面を貼り合わせるとき、きわめて有利な足場になる。
人間から見れば、一度の出会い、一つの恋愛、一つの後悔。しかし時空工学の側から見れば、それらは応力の集まる節点になる。
* * * 息子は、修造に、異星人の事情も語った。
「彼らは、単純な征服者じゃない。母星を失った難民文明です」
「難民だから何をしてもいいわけじゃない」
「もちろんです。でも、そういう相手だから厄介なんです。欲望だけで来る侵略者は、満たされれば止まるかもしれない。生存のために来る相手は止まらない」
その言葉は正しかった。
修造が理解したところによれば、異星人は自分たちの星を、局所ティプラー円盤を用いたFTLの濫用で壊した。空間の継ぎ目をあまりに多く作りすぎた結果、時空自体が持ちこたえられなくなった。物質結合が局所的に不安定化し、時間位相のずれが日常的に起こる惑星では、人は文明を保てない。そして、その結果として、十分な対策もできないまま、最終的に、母星自体が失われた。
だから彼らは、宇宙を漂い、まだ布地の破れていない星を探した。地球はその候補だった。
そして、オラエは、その侵略のための薬であると同時に、崩れた時空で生きる痛みを緩和する薬でもあった。幸福感増幅剤という呼び方は、ある意味では嘘ではない。感情の波をなだらかにし、恐怖や怒りを和らげる効果は確かにある。しかし、その代わりに人間の歴史認識や抵抗の意志を鈍らせるのだ。
未来に対する切迫感が薄れれば、人は侵略に対しても遅く反応する。
* * * 東京東部で起きている異常は、すでに隠しきれなくなりつつあった。
監視映像の中で、同じ人物が数秒差で二度通っていた。新築ビルの外壁の一角だけが、十年分の風化を見せた。地下鉄のホームの広告が、一瞬だけ過去の企業名を映した。
一般には設備不良やネットワーク事故として処理されているが、現場にいる者には分かる。これは設備の問題ではない。世界の縫い目が疲れているのだ。
修造は、高台から双眼鏡で夜の街を見下ろしていた。
綺麗だった。窓の明かりも、車の流れも、規則正しく都市の息づかいを示している。その整いきった光景の下で、時空の構造だけが静かに傷みつつあることが、かえって不気味だった。
「中心座標は駅です」
息子の声が横からした。
「母さんが倒れた、あの日の場所。あそこが一番、縫い直されすぎてる」
息子の輪郭は、更に薄くなっていた。長く話すたび、存在が削れていくように見える。
「あと一度、大きな貼り合わせが起きれば、破れます」
「起こさなければいい」
「そう簡単ならいい。でももう、みんな自分の理由を持ってる。母さんは、愛のために。僕は家族のために。国家は、安全保障のために。異星人は生存のために。理由のある行動は、止めにくいんです」
修造は、黙った。理由があることと正しさは違う。しかし理由のある誤りほど、人は手放せない。
「破れたら、すぐ異星人が来るのか?」
「はい。先遣隊が、FTLで火星近辺から来ています。しかし、ここに破断ができれば、より簡単に、直接侵略部隊を送ることができる」
「それは……まずいな」
息子は、頷いた。
「東京東部が戦場になります。この時代の通常兵器では、彼らに対抗するのは、難しい」
遠くの空が揺れた。雲ではなく、空そのものの奥行きがほんのわずかにずれたように見える。
「時間がないな」
息子は、頷いた。
「父さんが行くしかない。全部を救うのは無理でも、全部を固定しない選び方なら、まだ残ってるかもしれない」
「お前は?」
「僕は、たぶん、結果の側の人間だから」
それでも彼は笑った。
「でも家族の中で一番しぶといのは母さんです。そこ、見誤らないでください」
.9
装置の起動前に、修造は、家に一旦、戻った。
佳美は、窓辺に座っていた。夕方でもないのに、空の色がどこか二重に見える。青さの奥に、別の時間帯の薄い色がかすんでいるみたいだった。
「行くのね」
佳美は、振り向かずに言った。
「ああ」
「過去へ」
修造は、応えなかった。しかし、それで十分だったらしい。
「ねえ、修造」
「何だ?」
「全部、きれいにしようとしないで」
修造は、足を止めた。
「きれいに?」
「傷のない人生とか、失敗のない未来とか。そういうの、たぶん最初からないのよ」
佳美は、ようやくこちらを見た。目の下には隈があり、顔色もいいとは言えない。
それでも、その目の中にはオラエの膜の下から浮かび上がる生の意志があった。
「私は、きっと、それをやろうとして、いろんなものを壊した。でも、あの子を消さないで」
「あの子?」
「誰なのか、今は、はっきり思いだせない。なのに、いなくなるのは嫌なの」
修造は、ゆっくり息を吐いた。記憶は、崩れても、感情の輪郭だけが残ることがある。
人間の精神は、そういう仕組みになっているのかもしれない。
「分かった」
「本当に?」
「約束はできない。しかし、最初からいなかったことにはしたくない」
佳美は、その言葉を聞き、小さく笑った。
「それで十分よ」
* * * 遡行装置のある地下施設は、病院と工場の中間みたいな建物の中にあった。
周辺の空気はすでにわずかに重かった。
遡行装置の起動前から時間の流れが均一でなくなっているのだ。
壁の時計を見ると、秒針が二度続けて進んだあと、ほんの一瞬だけためらう。床の下から低い唸りが響く。音なのか、耳の側で時間が擦れているのか判別しにくい。
地下に降りて、セキュリティーゲートを潜って、部屋に入る。
中央に据えられた装置は、単に巨大な金属の円盤というには、複雑すぎる形状をしていた。表面には同心円状の細い溝と微細な突起がびっしり刻まれ、周囲をリング状の制御機構が何層も取り巻いていた。
これが、局所ティプラー円盤だ。
回るのは物理的な円盤ではなく、高密度の時空構造自体の回転場だ。いわゆる、時空の引きずり現象を、人工的に、特殊なトポロジーをもって発生させる装置だった。
その場が発生すると、空間同士の距離ではなく、時空の接続関係が局所的に書き換わる。
修造は起動手順を見なくても覚えていた。忘れたかった知識ほど、こういうときに指先まで戻ってくる。
「本当に行くんですか?」
監視室の技師が、顔をこわばらせて言った。
「公式には、封鎖と集中点の圧着のほうが安全です。集中点ごと潰せば、少なくとも広域崩壊は避けられる可能性が高い」
「可能性が高いだけだ」
修造は短く答えた。集中点を力で潰せば、駅周辺数百メートルの因果がまとめて破断する危険もある。人がどうなるかは予測できない。運が良ければ、何事もなかったように整列し直される。悪ければ、存在の欠損が広く残る。
* * * 修造は装置中心部へ立った。安全索をつける意味はほとんどない。しかし、人間は意味の薄い手順によって平静を保つことがある。
「座標固定」
技師の声。
「対象時刻同期、開始」
リングに青白い光が走り、装置表面の細溝のあいだに淡い霧のようなものが立ちのぼった。それは蒸気ではない。焦点の合う距離が何重にも重なり、奥行きの概念そのものが揺れはじめた結果だった。
最初に訪れるのは圧迫感ではなかった。自分の身体が、今いる時刻から少しずつ剥がれていく感覚だ。皮膚は、ここにあるのに、心臓の鼓動だけが少し先へ行ったり遅れたりする。単なる気持ち悪さとも違い、めまいとも違う。自分という輪郭が、時間に擦れているのが、はっきり分かる。
「遡行開始」
世界の輪郭が折れた。
次の瞬間、修造は駅構内の柱の影に立っていた。
休日の午後、パンの匂い、小さな書店――遠くから電車のブレーキ音が聞こえる。
すべてが知っているものとして胸へ入ってくるのに、同時に、初めて見る景色みたいに見えた。
視界の向こうに、高校生の佳美がいた。
――まだ未来の疲れを何も背負っておらず、世界に対して、怖れよりも好奇心を先に持てる年齢の顔だった。
だが感傷に浸る時間はなかった。
別方向から背広の男が近づいてきた。
ホームの柱の影には、若い息子の姿がある。
そして人混みの中に、歩幅の揃いすぎた異星側の工作員が紛れていた。
同じ午後へ、複数の未来が押し寄せてきていた。
.10
修造は柱の影から全体を見渡し、最初に理解したのは、自分たちがどれほど身勝手だったかということだった。
未来の佳美は苦痛を減らしたくてここへ手を伸ばした。
息子は、家族を守りたくて手を伸ばした。
修造自身も、今まさにそうしようとしている。
異星人は、生き残るために地球の未来へ手をかけている。
――理由はそれぞれ違うが、どれも当人にとっては切実だ。
だからこそ、この場所はひどく壊れやすいのだ。
そして、誰も純粋な悪意だけで動いていないから、かえって止めにくい。
背広の男が、書店のSF棚の前で佳美へ声をかけた。
「オラエに気を付けて下さい。とても重要なことです」
その一言が、見えない針みたいに午後の空気を貫いた。分からない言葉は、人の心に長く残る。理解できないからこそ、くり返し思い出され、人生の端に棘のように引っかかり続ける。
佳美が、ホームへ移動する。息子が後を追う。
異星工作員は、さらにその外側から接近し、袖口の中で小型の注入器を準備していた。
因果楔――対象人物周辺に微細な時空ノイズを植え込み、将来的な脆弱点を形成する装置だろう。ここで、それを打たれれば、この駅の縫い目は決定的になる。
修造は、先に動いた。人の流れを横切り、工作員の進路へ割り込む。
「すみません」
わざと肩をぶつける。工作員は、一瞬だけ不自然な角度で体勢を戻し、すぐに人間らしい表情を整えた。
「何か?」
「歩き方が不自由そうだ」
「そう見えますか」
「見える」
修造は、小声で言った。
「お前たちの星では、それが普通だったのか?」
工作員の目の奥に、わずかな冷たい光が宿った。偽装皮膚の下の緑が、ごく薄く透けた。
「退いていただけますか」
「退けない」
袖が動いた。修造はその手首をつかみ、柱の陰へ引きずり込んだ。注入器が床へ落ち、小さく高い音を立てる。その瞬間、空気が低く鳴った。
因果楔が少し作用したのだろう、ホーム上の電光掲示板が点滅し、次の瞬間、表示フォントが一瞬だけ別年代のものへ変わった。床のタイルの一部が急速に古び、すぐに元へ戻った。
周囲の人々は異常を理解しきれないまま、ただ落ち着かなさそうに肩をすくめた。
修造は、工作員の手首を締め上げた。
「生き残るためなら、何でもするつもりか?」
工作員は、苦しげに息を吐きながら、なおもどこか冷たい声で応えた。
「あなた方も同じでしょう。少しの幸福のために、少しの後悔を消すために、過去を縫い直す。違うのは、規模だけです」
その言葉は図星だった。だから余計に腹が立った。
ホームの向こうでは、息子が佳美の肩へ手を伸ばそうとしていた。修造は叫んだ。
「待て!」
息子が振り向く。驚きが走る。父がここへ来る可能性を計算していたとしても、実際に目にするのとは違うのだろう。
「父さん」
「スプレーは、使うな」
「でも、それじゃ」
「母さんを道具みたいに扱うな!」
息子は、唇を噛んだ。佳美は少し離れたところで、わけが分からないまま二人を見比べている。
まだ何も知らない一人の少女として、そこに立っていたのだ。
背広の男は、気まずそうに身を引いた。下請けの業務範囲を超えた修羅場に巻き込まれた顔だった。
そのとき、ホームの空気が激しく軋んだ。
電車到着のアナウンスが三重に重なり、別の年代の女の声が混じる。
床の端に、黒い亀裂のようなものが走った――割れ目というより、奥行きの概念が剥がれ落ちた部分だった。
あそこへ落ちれば、単に転落するのではない。因果の外側へこぼれ落ちるだろう。
「ちっ」
異星工作員が、舌打ちのような音を出して、腕輪型の起動子のボタンを押した。
「何をした?」
「あなた方がいう、局所ティプラー円盤を遠隔起動した。この場所は破れる!」
修造がその腕輪を奪い取ろうとした瞬間、佳美が動いた。
彼女は、状況も何も理解していないはずだった。
しかし、人間は、理解より先に動くことがある。彼女は、床へ落ちていた注入器の破片を拾い、工作員の腕へ突き立てた。
偽装皮膚が裂け、緑がかった体液が飛んだ。工作員がよろめく。その隙に、息子が起動子を蹴り飛ばした。
起動子は、床を滑り、修造の足元まで来た。
完全停止させれば、息子の存在はさらに危うくなるだろう。しかし、作動させれば、この駅が破れる。
修造は、迷わず踏み砕いた。
金属の潰れる音と同時に、空間の軋みが逆流した。
「おおお……!」
電光掲示板の文字が白く飛び、ホームの空気が一点へ絞られた。
裂け目が広がる代わりに、自ら縫い閉じるように縮んでいった。
完全には消えない。しかし破断は免れた。
息子が壁にもたれ、苦しそうに笑った。
「父さん……それ、僕は、たぶん」
「分かってる」
修造が言うと、息子は首を振った。
「いいんです。最初から、誰か一人の願いだけ通す未来じゃだめだった」
佳美は、呆然とその若者を見ていた。なぜだか涙が出そうなのに、自分でその理由が分からない顔だった。
「あなた、誰?」
若者は、少し困ったように笑った。
「たぶん、あなたが大事にしたかったものの一つです」
彼の輪郭がゆっくり薄くなる。
修造は、駆け寄りたかった。抱きしめて引き留めたかった。しかしそれをすれば、また誰か一人の願いで未来を固定することになる気がした。
息子は、最後に佳美を見た。
「母さん。苦しくても、全部消そうとしないで」
その言葉を残して、彼は光の中へ溶けた。
ちょうどそのとき、電車がホームへ滑り込んできた。
日常の巨大な音が、異常の残響を押し流していく。人々は軽いめまいに襲われたみたいな顔で互いを見合い、すぐに何事もなかったふりへ戻っていく。世界は、いつも、そうやって自分を守るのだ。
佳美の膝が折れた。修造は、反射的に彼女を支えた。
重かったが、工作員として意識のない人間を運ぶことを思えば、十分、軽かった。
佳美は、薄く目を開き、自分を支えている男の顔を見上げた。知らない人のはずなのに、ひどく懐かしいものを見るみたいな目をした。
「……なんだか、知ってる気がする」
修造は、応えなかった。いや、応えられなかった。
彼女の額にかかった髪をそっと払う。それだけが、この時点で許される最小限の接触のように思えた。
「それでは」
修造は、佳美に一例して、自分の起動子のボタンを押した。これにより、修造という接続点が解けて、未来に戻るのだ。
高校生の佳美の眼には、目の前から、ぱっと自分が消失したように見えるだろう。
.11
改変後の未来は、何もかもが劇的に変わったわけではなかった。
世界は大きな物語の結末みたいに、すべての帳尻を合わせてはくれない。回避できた破局もあれば、先送りになっただけの危機もある。
東京東部の局所時空崩壊は、ひとまず避けられた。
報道では、電力系統の障害や通信不良や、一部インフラの同期不全として処理されている。OLAEの大規模流通も地下に潜り、少なくとも一気に社会へ広がる波は抑えられた。異星側の浸透工作もいくつか摘発され、地球側の対策は遅まきながら始まっている。
だが、それで終わったわけではない。
異星人の母星が再生したわけではないし、人類が局所ティプラー円盤を完全に捨てたわけでもない。便利な技術は、たいてい一度手にしたら手放せない。
人は、痛みを減らせる手段を知ってしまうと、それがどれほど先で大きな代償を生むか分かっていても、すぐには手放せない。
佳美は、回復の途中にいた。オラエからの離脱は、劇的な浄化のようには進まないのだ。常習性や副反応がないというのは、嘘だったのだ。
身体は、だるく、気分は落ち込み、現実の輪郭が急に重くのしかかる。幸福の膜を失ったあとに残るのは、薄められない感情そのものだった。
つらい日はつらいと言い、修造にあたり、泣き、疲れて眠る。
そういう不格好な現実のほうへ、彼女は少しずつ戻ってきていた。
ある夕方、佳美は本棚を整理していて、古い文庫本の間に紙片が挟まっているのを見つけた。
いつのものか分からない。どこかで見た気もする字で、短くこう書かれている。
幸福を与えるな。未来を奪うから。
佳美は、暫くその文字を見つめ、それから小さく笑った。
「偉そうだわ」
口に出すと、少しだけ気持ちが軽くなった。
未来を奪われないようにするには、幸福を拒否すればいいわけではない。誰かの用意した完成品を、そのまま受け取らなければいいだけなのだ。
痛みも迷いも込みで、自分で選び続けることだ。効率は悪いし、苦しいし、失敗もする。しかし、たぶん、それが人間の時間なのだろう。
台所から、修造が顔を出した。
「何だ」
「いいえ。昔、変な人に変なこと言われたの思い出した、だけよ」
「最近、変な人が多いからな」
「あなたもね」
修造は、少しだけ目を細めた。
「ひでえな」
窓の外では、夜へ向かう空がゆっくり色を変えている。完全に壊れていない空だった。少なくとも今は、昨日と今日がつながっていると信じられる色をしていた。
佳美は、紙片を文庫本へ戻し、棚に差し込んだ。
どこかの未来で、自分たちの息子だったかもしれない誰かのことを、彼女は完全には思い出せない。
それでも、ときどき胸の奥が理由もなく痛むことがある。その痛みを、今は消したくなかった。消してしまえば、大事だった何かまで一緒に薄くなってしまう気がしたからだ。
部屋の隅に落ちる本棚の影が、ほんのわずかに揺れた。
時空の縫い目は、完全には消えていないのだろう。
それでも家はまだ立っているし、二人はまだここにいる。未来は、未完成のまま残っている。
その不完全さを引き受けることが、多分、生きるということなのだ。
(了)
あとがき:
こちらは、完全に時間改変型のSFですね。元ネタについては、明日の日記でご披露します!
それでは、また!
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