宮沢賢治と新渡戸稲造
今年生誕130周年を迎えた宮沢賢治ですが、新渡戸稲造と接点がありました。そのことを紹介しましょう。
1909(明治42)年6月25日、盛岡中学校(現盛岡第一高校)で新渡戸稲造の講話が行われました。稲造は「黙思の習慣を養うよう生徒に訓話」したのですが、聴衆の中に入学したばかりの宮沢賢治がいました。
稲造は1862(文久2)年盛岡に生まれましたが、9歳で生まれ故郷を去りました。叔父の太田時敏を頼り上京したのです。共慣義塾(盛岡藩の子弟が多く通った学校)、札幌農学校(北海道大学の前身)などを経てアメリカに留学しました。帰国後は日本で最初の農学博士となりました。第一高等学校校長として目の前に現れた稲造に、賢治は畏敬の念を覚えたに違いありません。

東京にあこがれる気持ちが強かった賢治は9度にわたり上京し、延べ滞在日数は350日に及びました。東京への思いを記した「東京」ノートが書かれはじめるのは1909年のこと。東京に出て成功し、故郷に錦を飾った稲造の姿を見て、賢治は上京したいという思いを募らせたと思います。
『武士道』などの著作をはじめ稲造の功績は数多いのですが、ポーランドの眼科医ザメンホフが考案した人工国際語エスペラントの熱心な擁護者だったことはあまり知られていません。
稲造は1920(大正9)年5月、国際連盟事務次長に就任。1926年12月まで、スイスのジュネーブに滞在してその任に当たりました。
1921年8月、チェコのプラハで開催された第13回世界エスペラント大会に稲造は、国際連盟を代表して出席しています。
その後まとめられた報告書に稲造は、「言葉の力は偉大であり、国際連盟はエスペラント運動の前身に特別の興味をもってついて行くためのよい動機をもっている。その運動は、エスペラントが一般に広まるならば、世界の道徳的統一にとって、いくらか大きなものになれるであろう」と書きました。
国際連盟は稲造の報告に基づき、「エスペラントを学校で教える問題を国際知的協力委員会に回し、委員会に世界語問題のいろいろな面について意見を述べてもらう」ことを決定しました。
委員会は1923年末に開催されましたが、結果的に学校教育へのエスペラントの採用は実現しませんでした。
とはいえ、稲造の活動はエスペラントに対する関心の高まりを引き起こしました。
日本では、戦前を代表する雑誌『改造』が「エスペラント研究特集号」を出し(1922年8月号)、エスペラントを学ぶ人が増大したのです。
この号には秋田雨雀・黒板勝美・ラムステットなどがエスペラントに関する文章を寄稿したほか、小坂狷二のエスペラント講座も開始されています。
賢治がエスペラントに興味を持ちはじめるのは、この時期です。イーハトーブというエスペラントに関係の深い言葉をあみだした賢治ですが、間接的に稲造の影響を受けていたのです。
1926(昭和元)年12月、賢治は七度目の上京をし、丸ビルの旭光社でエスペラントを習いました。
また、フィンランド公使・ラムステットによる講演を聞き、「やっぱり著述はエスペラントによるのが一番だと云ひました」とラムステットがエスペラントでの著述を勧めたことを記しています(同年12月12日付、父政次郎宛の手紙)。
賢治はエスペラントの学習を続けましたが、エスペラントで著述するまでは至りませんでした。とはいうものの、たとえば「ポラーノの広場」という作品で盛岡をモリーオ、仙台をセンダードと表記するなどエスペラントの表現を積極的に作品の中に採り入れています。
稲造は国際連盟でエスペラント支持を打ち出したことがきっかけで、1927年に世界エスペラント協会の名誉会員となりました。1996年にプラハで75年ぶりに開催された第81回世界エスペラント大会では、稲造の功績を再評価しようーーと、「ニトベシンポジウム」が開催されました。
宮沢賢治と新渡戸稲造に関しては、私の著書『宮沢賢治 出会いの宇宙』(コールサック社)で詳しく紹介しています。よかったら、お読みください。
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また、私が宮沢賢治学会で企画した「宮沢賢治とエスペラント展」(2022年4月2日~6月7日の図録(定価500円、送料別途)でも賢治とエスペラントについて紹介しています。こちらも、よかったらお読みください。
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