刻々と姿を変えるイキモノのような北海道・野付半島(女二人で野付半島 最終回)
野付半島は、砂でできている砂嘴、長細い砂の半島です。
これまで野付半島の野生動物や鳥を中心の記事でしたが、最終回は、刻々と変わりゆく野付半島の姿とミステリアスな歴史について。
𓅯 鳥たちの楽園、枯れ木の林「ナラワラ」
野付半島は、海流によって運ばれた砂が長年に渡って堆積して形成された砂嘴(さし)でできた国内最大の半島です。
野付半島は、地盤沈下により毎年1.5cmほど沈んでいるそうです。
とすれば、100年経つと1メートル50センチも地盤沈下・・・わずか100年後には、私たちが走った道は、もう水の下に沈んでいるかもしれません。
そして地盤沈下で、海水の侵食が起こり、林の木々が立ち枯れています。
野付半島の中ほどまで車を進め、白く立ち枯れたナラワラが道の右側に見え始めた時には、
「あれが有名なナラワラなのか」
と思いました。
「ナラワラ」とは、海水の侵食と潮風で、ミズナラ・ダケカンバ・ナナカマド・エゾイタヤなどの広葉樹が立ち枯れた場所。
風が強いところなので樹木は上には伸びず横に生長するなど独特の樹形となっています。
初日の夕暮れ、道路から水を隔てて、緑色の林を見ました。
手前にある枯れた林のようなのが、ナラワラです。

翌日、もっとナラワラに近づいてみました。ナラワラの中は入ることができないので、道路に車を停めて、対岸から写真を撮りました。
まだ青々と瑞々しい生きた林と、木の姿を保ったまま白骨のように枯れたナラワラの対比が、興味深かったです。
まだみずみずしい木々で形成されている、生きた林。
しかし、数十年後には、あの林も地盤沈下と海水で枯れて、ナラワラになってしまうのだといいます。

よく見ると、枯れて木の骨組みだけ残っているナラワラの一本一本のてっぺんに、鳥がとまっていました。
さらに目を凝らすと、てっぺんだけでなく下の枝にも鳥が一羽ずつとまっていました。
アオサギ、白いダイサギ。いったいどのくらいの数の鳥たちがあそこにいるのでしょう。
人間は立ち入り禁止、猟もできない場所なので、野鳥の天国となっているのでしょう。

𓅯 消滅する運命のトドワラ
野付半島といえば、トドワラの風景が最も有名かもしれません。
トドワラとは「トドマツの原っぱ」という意味。
かつてここにはトドマツやエゾマツなどの濃い常緑樹原生林が広がっていたのですが、元は広葉樹林だった「ナラワラ」と同様に、地盤沈下によって海水が浸食し、立ち枯れしてしまったものです。
「トドワラ」は、ネイチャーセンター裏から湿地帯の中に続いている、細い道の先にあります。
ネイチャーセンターの裏の遊歩道を、写真を撮りながら、ゆっくり三〇分ほどかけて歩きました。
トドワラに向かう途中の遊歩道には、夏だとクロユリやセンダイハギ、エゾカンゾウなどの色とりどりの花が咲くそうです。
でも、九月に入った今は、わずかなハマナス以外は花の姿はほとんど目につかず、たくさんのススキが日光に銀色に光って揺れていました。

遊歩道を進んでいくと湿原になり、地面から少し上に設置された木道が現れます。
ところどころにアッケシソウが繁茂しているのが見えました。まだ赤さが足りませんが、ところどころ真っ赤になっている箇所もあります。
十月に入ると、あたり一面赤い絨毯が敷かれたようになるでしょう。

トドワラとされる場所に到達した時、驚きました。
ここが、トドワラ?

昭和の頃の写真で、トドワラを見たことがあります。その私の脳裏の「トドワラ」と、あまりに違いました。
トドワラの枯れ木は 一、ニ、三、四本と指で指して数えられるほどしか立っておらず、息を呑みました。
こんなに少ないなんて。
枯れ木の数自体が風化によって少なくなっていて、後の木々は崩折れて幹や枝になり、あちこちの地面に転がっています。
もはや、トドワラは消滅寸前のように見えました。
これは、人間による環境問題ではなく、自然の摂理なのですが、トドワラの立木が無くなってしまうのも、そう遠い日ではないでしょう。

𓅯 別海町郷土資料館へ
私たちが立ち入り許可証を持って車で入って行った先の先は、もはや道すら途絶え、打ち上げられたアマモと貝殻と草しか無いこの世の果てのような場所でした。

しかし、江戸時代、野付半島はロシアとの重要な交易基地で、国後島への渡航の基地でもありました。
現在、徒歩でしか行けない何もない野付半島の先端部に、江戸幕府管轄の役所も置かれて、数十戸の家があったと野付半島ネイチャーセンターで知りました。
半島の先端部が漁業基地、そして北方交易の中継地だったとは。
先端部の遺跡は「野付通行屋・番屋跡遺跡」と名付けられています。
野付通行屋の役人だった加賀伝蔵が遺した膨大な記録が見られると知って、別海町の「別海町郷土資料館」に行きたくなりました。
別海町は、野付半島の隣町ですが、車で20分ほどの町。野付半島とは全く違う、酪農地帯でびっくりしました。
寛政11(1799)年、蝦夷地を直轄した幕府は、陸路・海路の整備を急務とし、野付半島には国後島へ渡るための中継点として、野付通行屋を設置しました。
加賀伝蔵は、安政年間頃(1854~1859)支配人を勤めて、たくさんの文章と絵で、膨大な「加賀家文書」を書き残しました。
「北海道」の名付け親でもある、有名な旅行家・松浦武四郎にも匹敵する記録魔であることが、精緻なスケッチや大量の日記から伺えました。
通行屋には、支配人(番人)がいて、妻同伴で仕事をし、ほかにアイヌが8人ほど詰めていたと書かれています。

加賀文蔵はたいそうなやり手の支配人でした。
国後島へ渡海する武士たち、箱館奉行の蝦夷地巡回の一行、蝦夷地を探検していた松浦武四郎、流行っていた種痘のために江戸から来た医師、ロシアとの交易商人たちの世話など数々の業務をこなし、アイヌの人々と畑を拓いていたことなども、文書からわかります。
残された調度品からは、裕福な生活を送っていたことも伺えました。交易などから利益を得ることは、当時の蝦夷地では黙認されていたようです。
𓅯 幻の町、キラク
人けの全くない、荒涼としたこの半島の先端は、かつては、ロシアを行き来する人々や出稼ぎ漁師たちが行き交う、にぎわしい場所でした。
野付通行屋の外海はニシン漁場で、春になると根室場所の各番屋から人々が集まりました。漁番屋や蔵などを建て、50~60軒前後の建物が立ち並んでいたようです。
そんな場所につきものなのは、酒場と遊興の場。地元の伝承によれば、半島先端部には遊郭遊郭がある「キラク」という町が存在したという言い伝えがあります。
昭和39(1964)年に北海道大学探検部が行った調査報告書には、
「地元の人々にキラク町と呼ばれている場所がある。キラクの由来は気が楽になるところと言う意味で、この附近の人々のための歓楽の場があったことに由来するらしい」と記載されています。
人々の言い伝えによって「キラク」と呼ばれている場所は、平成15(2003)年~17(2005)年、別海町教育委員会により発掘調査が行われました。
平成の調査で一万点以上もの陶磁器や古銭などが発掘されてここに陳列されていたのですが、まだ未発掘の部分も多いらしいです。

たくさんの遺物から、「野付通行屋跡」の存在は明らかになりました。
ですが、「キラク」の名前は、どの文書を見ても出てきません。
幻の街キラク。華やかに着飾った女たちが蠢く一角も、かつてここにはあったのでしょうか。
「キラク」に魅せられる人は、意外にたくさんいるらしい。
演歌歌手の新沼健二も「まぼろしのキラク」という歌を歌っています。
調べたら出てきたのでyoutubeで聞いてしまいました。
「キラクという言葉は、文献史料には残っていません。野付通行屋や番屋群、それらに関わる人々の営みがあったことが伝説を作り上げたのでしょう」
というのが、別海町郷土資料館の見解です。
現在のところ、「キラク」は地元の人々によって語り継がれている「幻の街」なのです。
野付番屋跡遺跡は、海の下に没していることが多いのですが、海が引いたときには江戸時代の墓石、食器や鉄鍋などがまだ残っているのを見ることができるらしいです。
「徒歩での立ち入りは禁止されていませんが、場所がわかりにくいため、専門ガイドの引率なしの訪問は困難です」(別海町観光協会)。
私たちが連泊した「のつけのつけね」のオーナーは、別海町資料館の主催のガイドツアーに参加して、全身をヌカカ対策の虫防護服で覆って参加したと語ってくれました。
機会があればいつかぜひ野付番屋跡遺跡に行ってみたいものです。
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さまざまな忘れがたい出来事が起きて、「何も無い野付半島で、ぼーっと時間を過ごしたい」という当初のイメージとは、全く違う旅になりました。
独特の風景や多くの野鳥などが観察されることから、道東の観光名所となっている野付半島。
森林整備事業などがないことから、普段訪れることが少ない場所であり、職員の方たちもあまりよくわかっていないと言うミステリアスな場所でもありました。
そして地形を変えていく砂嘴である野付半島自体も、刻々と姿を変えています。
野付半島がラムサール条約に登録されて20周年。この自然がたくさんの偶然によって、そのまま手付かずで残っていることは驚くべきことです。

今度は冬に、野付半島に行ってみたいと思います。野生の生き物たちはどんなふうに酷寒の風と雪の中で生きているのでしょう。

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