フローベールを救え! 余計者のおせっかい
十九世紀リアリズム小説の大家であり、現代文学の祖とも呼ばれる偉大なる小説家ギュスターヴ・フローベールは財産の管理を任せていた姪の夫が破産してしまったせいで生活が立ちいかないような状況に陥っていた。この困窮状態のフローベールを救ったのは偉大なる詩人小説家ユゴーやゾラを始めとしたフランスの文人たちと彼が特に親しくしてしたロシアの作家ツルゲーネフであった。彼らはフローベールの生活を安定させるために公的な年金と出勤義務のない図書館の出向職員の職を与えたが、この待遇にこの芸術一筋でやってきた作家は大いに不満を感じたものの、しかしこれも生活のためと仕方なしに受け入れた。
とりあえず生活の心配がなくなったフローベールはこれで執筆に集中出来ると安心しクロワッセの自宅の書斎に篭って執筆中の長編の続きを書き進めていたが、やはり世間は耳ざといものである。このフローベールの一連の騒動はあの世間を騒がせた『ボヴァリー夫人』の作家フローベールが破産して今は図書館員にまで落ちぶれたとそれ自体は正しいが実態がかなり歪められて世間に広まってしまった。人々はこのフローベールの惨状に「あんなに売れっ子でイケイケだったのに落ちぶれ果てて」だの「破産して三食満足に食べられないんだから見栄張ってないで家売れ」だの好き勝手に言い合い、一部の熱しやすい連中は作家が在籍していると思われる図書館に突撃し、彼に出勤義務がない事を知ってなんで破産してる奴にそんな特権が与えられているんだと憤慨したりした。そのうちこのフローベールが最も軽蔑したであろうブルジョワ、つまり大衆どもは皆彼を「ボヴァリー夫人だけの一発屋のくせに!」と口々に言い出した。この暴言に対してちょっとは文学を知っている知的ぶった、これもフローベールが激しく嫌悪する知的大衆は「いやいや彼には『サランボー』があるじゃないか。一発屋じゃなくて1.5発屋だよ」と賢ぶって指摘した。しかしこれら意見の異なる大衆はただ一つの事に関しては意見を一致にしていた。
「とにかくもうフローベールの小説なんて今読むに値しないよ。コイツはもう終わった作家だ!」
どこまでも芸術家気質であったフローベールはこんなブルジョワ共の喚き散らす戯言の騒音に耳をふさいで執筆を続けていたが、しかし彼とて人間である。毎日毎日誰かしらからどっかしらで耳に入るこの不愉快な雑音にとうとう作家としての自信がぐらつき始めた。自分の進んできた道は間違っていたのか。あのクソブルジョワ共の言う通り確かに自分はデビュー作の『ボヴァリー夫人』で有名になり、時代の寵児となった。この本はわいせつ本として訴えられ裁判沙汰となったが、その裁判の陳述で半分うけ狙いで言った「エマ・ボヴァリーは私だ」という言葉は今でも語られるほどのインパクトを世間に与えた。その余韻か次作の『サランボー』も売れ社交界ではサランボーの格好が大流行までした。しかしその後がまずかった。短編集『三つの物語』こそマシだったが、自分の人生と文学の総決算の決意を込めて描いた『感情教育』はまるで売れず、批評も散々だった。その次に書いたのは長年構想を温めていた『聖アントワーヌの誘惑』だが、これは『サランボー』再びって感じで多少は売れたが、前作と同じように批評家にはゲーテの『ファウスト』の二番煎じだとかぼろくそだった。今自分が書いている小説は『ボヴァリー夫人』でも『サランボー』でもない誰もが書いたことのないような小説で無事書き終えて出版されたとしても批判どころか完全に無視されてしまうかもしれないものだ。ああ!とフローベールは決して頭を抱えた。完全無視だけはごめんだ。これはリアリズムも自分の小説を恐ろしく勘違いしたゾラのあの悍ましいだけのナチュラリズムでもない『何についても語られていない小説』なんだ。ああ、誰かに相談してみようか。でもあの可愛い弟子のモーパッサンにしてみても「先生最高っすよ!ガンガンやっちゃって下さい!」と自分を励ますだけだろうし、仕方なしに付き合ってるゾラなんかにゃ相談なんかしたくない。他の誰それでもダメで、唯一相談できただろうボードレールはとっくに死んでしまっている。とすると自分が相談できるのはあの誠実なロシアの紳士しかいない。この男は外国人だからフランス文壇の利害には囚われないし案外率直な意見をくれるかもしれん。フローベールはこのように悩みに悩んだ末、ツルゲーネフ宛に手紙を送る事に決め、その手紙の中でこれはあなたにだけに明かすがと執筆中の作品の構想の内容と正直にこの作品の執筆を続けていいか迷っているので正直な意見を聞かせて欲しいと書いて送ったのである。
フローベールから手紙を受け取ったツルゲーネフは親友の手紙を誠実な紳士らしく一から読み、そこに赤裸々に書かれた友人の執筆への苦闘ぶりに心を痛めたが、その執筆中の長編の構想にはあまり関心しなかった。彼は正直に伝えようか伝えまいか迷ったが、やはり親友には誠実であらねばと正直に小説の主題が長編にふさわしくないのではないかと自分の意見を書いて送ったのである。彼は親切にも長編は諦めてコント集のような形で書いたらいいのではないかと勧めた。手紙を送ってしばらくしてフローベールから返事が来たが、そこにはごアドバイスありがとうとそっけない返事しか書かれていなかった。
「というわけなんですよ皆さん。これが私のアドバイスに対するフローベールの返答です。勿論、私如きがあの文豪にアドバイスするなぞ身の程知らずもいいとこですが、しかしせっかく相談を持ちかけてくれたのだから正直に言わねばと思いこのように提案したのです。あと流石にこれは彼のプライドを傷つけると思ってあえて書かなかったのですが、おそらく皆さんと同じように私も強く思っているんですよ。もう一度のボヴァリー夫人みたいなものを書けばよいのではないかと」
パリのフランス文壇を代表する文豪たちが勢揃いのパーティで、ツルゲーネフは自分だけに打ち明けられた相談であるが、しかし内容を読んでこれは捨ておけぬと判断してお歴々を前にこのようにフローベールから口外無用の自分宛に綴られた手紙の内容について話した。このツルゲーネフの意見に師匠が一番のモーパッサンは反発したがその他の殆ど全ての人間が彼に同意した。ゾラはフローベールはナチュラリズムを取り入れてボヴァリー夫人をアップデートしたナチュラルボヴァリーを書くべきだと力説したが、かつてこのゾラと師弟関係を絶ってデカダン派名乗っていたユイスマンスは逆にサランボーのような華麗かつリアリスティックなまでに緻密なサランボヴァリーを書くべきなのだと反論した。誰よりもフローベールを理解するモーパッサンは師の成そうとしている事は絶対に正しのだと皆に反論したが、しかし皆そのモーパッサンにほんとにそう思ってる?フローベールの小説読んで一番面白いのってボヴァリー夫人でしょなど皆から口々に言われて頷かざるを得なくなった。
「ふむ」と皆の討論の間全く発言しなかったたユゴーの声に皆一斉に口を閉じこの時代遅れすぎる老害……いや、その太古の昔ロマン派として詩だけでなく小説や戯曲どころか文芸を超えて政治の世界でも大活躍し、太古のロマン派精神と共和主義精神の結晶たる涙だけはとにかく絞った大ベストセラー『レミゼラブル』など太古の歴史的遺物の如きものを沢山書き上げたこの多大なる業績を持つこのフランスの詩聖たる全知全能の大詩人のその名声にあまりに似つかわしくないちっこい体躯を仰ぎみる真似をした。ユゴーは皆が自分を仰ぎ見ているのに目を細め杖をまるでモーゼの如く振り回して皆に言った。
「ワシも散々悪口を言われていろいろ思うところはあるが、あのボヴァリー夫人を書いた天才をこのまま捨ておけぬ。ワシについて参れ!いざクロワッサンに出陣じゃあ〜!」
「ち、ちょっとユゴー老師!」とツルゲーネフが慌てて血気にはやるユゴーに声をかけた。一人盛り上がっていたユゴーは無礼にも自分に声をかけて来た背の高い外国人の紳士を睨みつけるとおフェンシングよろしく突きつけながら言った。
「この無礼者が!名も知らぬ余所者がワシに気安く声をかけるでない!この席に何故貴様のような余計者が混じっているのだ!叩き出せい!此奴は我らとは無関係のものだ!」
ツルゲーネフはこのユゴーはあまりの言い種に頭がポカンとなった。この太古のロマン派の死人、いや詩人である老人はまず挨拶で自己紹介をし、その後ツルゲーネフの語るフローベールの現状についての話を何度も相槌を打ち、ほかの作家との名前呼びの親しく歓談する姿をみても彼が何者か認識していなかったのである。この半分ボケに入った老人にどう対応すべきかしばらく考えたツルゲーネフはまず言いたくもないお世辞を言ってユゴーをあれやこれやと褒めちぎって老人の機嫌を直させると続いてフローベールがフランスに来たばかりで右も左もわからぬ自分をいろいろと助けてくれた恩人であり、その恩人が自分の故郷のロシア文学にも影響を与えたボヴァリー夫人以上の作品を書けていない事を悔しく思いますと熱を込めて語りそして恩人であるフローベールを迷妄から覚ますために先程洗いざらいフローベールの現状を話したのだとこの今話した事を覚えているかもわからない老人に話したのである。
「ふむ、そういう事であったか」とユゴーはツルゲーネフの言った事をわかっているのか納得したように何度も頷いた後ずっとツルゲーネフに突きつけていた杖を振り回して「では皆の衆出陣じゃあ!」と再び声をあげたが、ツルゲーネフは再びそのユゴーに「老師お待ちを」とこれまた再び老人に呼びかけたのであった。
「何じゃ其方もクロワッセに行くのじゃろう?何をぼやぼやしておる。さっさと行かねばあの死刑囚の如き状態のフローベールの最後の日が来てしまうぞ!」
ツルゲーネフは出来るだこの老人を怒らせぬよう言葉に気をつけながら言った。
「ユゴー老師、先ほど話した事はフローベールが私だけに打ち明けた事なのです。ですから我々全員で彼の元を訪ねたりしたら私が彼の事をユゴー老師たちに話した事に機嫌を損ねて口も聞いてくれなくなります。それに彼の性格ですと我々がダイレクトにボヴァリー夫人的なものを書くよう勧めれば却って意地になってあのしょうもないコント集を長編化する事にこだわるでしょう」
「さてここで皆さんに私から提案があります」とツルゲーネフは彼とユゴーのやりとりを周りで聞いていたゾラを始めとした作家たちにも呼びかけた。
「私はフローベールにそのような愚行をやめさせるには彼自身にその愚かさを気づかせる事が最も効果のある方法だと考えています。ですから我々はそれぞれ日にちを空けて適当な理由をつけてクロワッセを訪ね、私が今皆さんに教えた彼の執筆中のあのしょうもないコント集の事には決して喋らず、会話の節々にボヴァリー夫人の賛嘆や、ボヴァリー夫人のキャラやストーリーの事や、本が出た当時の思い出話など織り込んで彼の意識をボヴァリー夫人へと誘導してゆくのです。ああいうリアリスティックかつパセティックな小説って今ないよねとか、まぁそこは皆さんのお好きなように。彼も久しぶりに会った仲間から自分をブレイクさせた作品の事について触れられたら悪い気はしないでしょう。そして聡明な彼の事ですから、我々の話を聞いて自分がどれだけ道を誤ったかを自覚するはずです。皆さんどうでしょうか私のアイデアは。私はあの天才を迷妄から目を覚まさせるにはこれしかないと考えています」
このツルゲーネフの提案にフランスの文学者たちはは乗った。ゾラもユイスマンスモーパッサンもツルゲーネフはさすがツルゲーネフと感心し、ユゴーにいたってはロシア人にまともな知性がある事に驚愕していた。彼らはツルゲーネフと共にまず誰が最初にクロワッセに行くか相談を始めたのであった。
ツルゲーネフからまぁ他人の意見はこんなもんかという予想の範囲内の回答が書かれた返信を貰ったフローベールだったが、彼はそれでも念願の長編を放棄する事なく毎日毎日呻吟して言葉を捻り出しながら少しずつ原稿を進めていた。その彼の元になんと何十年も会っていなかったユゴーが現れたのである。フローベールは最初彼の姿が見えずどこかにお隠れですかと尋ねたのだが、ここじゃと返って来たので屈んでみたらそこにユゴーがいたのである。すっかりお年を召してとフローベールは思ったが、しかし若い頃もこうして彼の姿を探したのだから別に年をとったから小さくなったわけではない。フローベールはこの大詩人の突然の来訪に驚いて何故に来られたのかと尋ねた。するとユゴーはモーゼの如く杖を振り回して二人が出会った頃の話から初めて『ボヴァリー夫人』を読んだその感動を大袈裟に語り始めるではないか。「おお!あの鮮烈さ!頁を捲るごとの熱い血の迸りよ!一見冷たい刃物の如き怜悧な筆致の奥に秘められたロマンの炎よ!」とユゴーはフローベールに向かって完全に演説調で捲し立て気が済むとなんだかわからない状態のフローベールを放っちらかしてさって行ったのであった。
その次、一週間ほど間が空いて今度はゾラが現れた。ゾラは「ややお久しぶりです。構想中の小説の取材のためにこの辺りに来たのですが、ふとあなたの事を思い浮かべましてどうされておられるのかと思いまして」とゾラは多大な影響を受けた先輩作家に畏まって実はその構想中の小説とはと言って「ボヴァリー夫人に我がナチュラリズムの要素を加えたものになっていまして」と話を始めたのである。「思えばボヴァリー夫人がなかったら我がナチュラリズムもなかった。私はこの小説であなたのボヴァリー夫人への愛を示したいのです」とゾラはフローベールにボヴァリー夫人への熱烈な愛を語ったのだが、そのゾラの話を聞いたフローベールはこの間来たユゴーもボヴァリー夫人の事を思い出しもしかしてボヴァリー夫人って再評価されているのかと考えた。しかしあの小説はもう自分にとって古臭いものでしかない。ゾラはそれからもボヴァリー夫人についての初読してその新しさに圧倒された事やあれこそフランス文学の最高傑作だ。あのクソユゴーを決定的に笑い者の対象にしたのはあの小説と。実は大嫌いなユゴーをディスりながらボヴァリー夫人を持ち上げたが、フローベールは彼にとってどうでもいいゾラの話を半分以上聞き流した。
ユイスマンスがクロワッセに現れたのはゾラが来てから二週間ほど経った頃である。ピンポンが鳴ってドアを開けたフローベールは目の前に黒装束の男を見てゾッとしてドアを閉めようとしたが、しかし相手がツバの広い帽子を脱いで自分はユイスマンスだと名乗ったのでじっと顔を見て当人である事を確かめると彼を家の中に招き入れたのであった。「今夜この近くで黒魔術の降霊会が行われる予定でしてね。それまで間があるのでこうしてお訪ねしました」とユイスマンスは語りそれから降霊会にはサランボーの霊を呼びたいと続けてフローベールが彼女を主人公にした同タイトルの小説を褒めちぎったのだった。「あの小説がスコットやアホのユゴーなんぞの歴史小説と違うのはあなたの目が現在と過去の距離を超えて真っ直ぐに古代のサランボーを見ているからです。あなたがその途方もない目を獲得したのは間違いなくボヴァリー夫人。あなたは現代のボヴァリーも古代のサランボーも同じ視点で見ておられる。そこにはゴングール程度の凡庸な作家でさえ書く事ができるリアリズムなどというより明らかに我々デカダン派がが目指さんとする魔術的な目がある。私はたびたびあなたがその魔術的な目を手に入れたボヴァリー夫人を読み返すのですが、最近そのあなたの傑作にデカダン派の理想を見たのです。あなたの小説はあの脳なしのゾラの薄っぺらなナチュラリズムとはまるで違う超越的とも言える真なるリアルがある。ああ、いつか私はボヴァリー夫人とサランボーを合わせたような小説が書きたい!それこそが我がデカダン派の夢なのだ!」とユイスマンスは長々と語ったが、そのどうでもいい長広舌を途中からすっかり聞いていなかったフローベールは話がようやく終わったのをみてこう言った。「そろそろその黒魔術の降霊会の時間じゃないかね。早くそちらに向かってはいかがか?」
ユイスマンスの訪問の一週間後弟子のモーパッサンがクロワッセを訪ねたが、彼は久しぶりに会う師匠の性格を誰よりも知っていたのでいきなりボヴァリー夫人の事は出さずにしばらく互いの近況のことなんか話して師匠をリラックスさせてからボヴァリー夫人の思い出話を挟もうと考えていた。しかしドアが開いて明らかに不機嫌な顔でフローベールが出て来て君もボヴァリー夫人の話をしに来たのかと問われて黙り込んでしまった。モーパッサンはフローベールとの会談中ボヴァリー夫人の事は一言も口にできずただただ思い出話に付き合うしかなかった。やっぱり自分には師匠を罠に嵌めるような事は出来ないとモーパッサンはこの計画に加わった事を反省した。
最後の訪問者でありフランスの作家たちにこのフローベールにこのボヴァリー夫人アップデートバージョンを書かせよう計画を持ち上げた親友ツルゲーネフがクロワッセを尋ねたのはモーパッサンが訪ねてから三週間後、慎重な彼は皆より日にちを空けて親友を訪問したのであった。彼はフローベールが以前から興味を持っているという自分の後輩であり『戦争と平和』を書いたトルストイについて話しその彼が最近『アンナ・カレーニナ』というフローベールの『ボヴァリー夫人』の影響を直接的に受けた途方もない長編を書いた事を話すつもりでいた。自分の影響下にある作家が自分を超えんとする大作を発表したと聞かされれば意固地なフローベールとて発奮し俺もと彼らしい緻密なリアリズム大作を描くに違いないと考えたのだ。ツルゲーネフからピンポンを鳴らされたフローベールは久しぶりに来たこのロシア出身の友人を快く迎えた。彼は笑顔で友人にそういえばと最近やたら作家たちが来るんだがなんでなんだろうと疑問を漏らした。するとツルゲーネフはみんなあなたを淋しい病気にさせないようにしようと思っているんだとこたえた。そういえばとフローベールは相談の手紙に答えてくれた事に感謝の言葉を言って「あれはあなただから打ち明けたのだ」とはにかんだ顔で語ったのだが、紳士たるツルゲーネフはそのはにかんだ顔をみてこの男は私が彼の新しい小説の構想をみんなにバラした事に気づいていないと思って安心した。フローベールとツルゲーネフはまず互いの近況を話し、そして過去の思い出話や昨今の分断事情についてい 忌憚のない意見を言い合ったない。フローベールはそういえばとツルゲーネフにロシアの文壇事情を尋ねたのだが、ツルゲーネフはよし来たと前のめりになってトルストイの事を話し始めたのである。「君が興味を持っているトルストイが『戦争と平和』に続く新作を書いてね。アンナ・カレーニナ』って言うんだが、これが君のボ……」
「やっぱりお前か!」とフローベールは突然テーブルから立ち上がった。ツルゲーネフはこの親友の突然の激昂ぶりに頭が真っ白になり目をガン開きにして「なぜ……」とだけ呟いたのだが、そのツルゲーネフに向かってフローベールは思いっきり怒鳴りつけた。
「なぜじゃねえだろ!なんで人の相談をみんなにバラすか!」
「だって君が心配だったから……」
「心配だったからじゃねえよ!余計者が余計な事すんじゃねえよ!」
この諍いの後フローベールはモーパッサン以外の作家とほぼ交流を絶ち執筆中の長編に全精力を注ぐ事になった。この小説はフローベールの突然の死によって未完となったが、彼の願い通り今では現代文学を予告する傑作と評され、『ボヴァリー夫人』を超える彼の最高傑作とさえ言われている。その小説とは『ブヴァールとペキュッシェ』である。
