短編小説「ロングスワイプ ―霧雨の幻影(ミラージュ)― 」(前編)
「ロングスワイプとは、画面の外から大きくスワイプすること——。
または、あなたの現実に存在する幻影(ミラージュ)。」
土曜日の昼下がり。霧雨。下赤塚の住宅街。
行き交う傘の中で、悲壮な表情で立ちすくむ佐久間秀幸の姿があった。
今夜は逃げられない仕事がある——。
同日、同刻。下赤塚の裏路地。CAFE POST店内。
ネオはいつもの角の席に座り、PCをタイプしている。
ディスプレイ越しに、カウンターのマスターをこっそり眺めるのが、ネオの密かな楽しみだった。
別に「ストーカーではないんだから」と、自分に言い聞かせている。
だが、週に3日も通えば、立派なストーカーと言われてもおかしくない頻度である。
香月寧音(かづきねお)21歳。
大学はあまり通っていないが、一応、大学3年生。
生活費の足しに、Webライターで食いつないでいる。
今日も、11時のオープンからずっと、執筆しているというわけだ。
コンコンとマスターが、カウンターをノックして、外を指さし、ネオに合図を送った。
「寧音ちゃん、彼、迎えに来てるよ。」
「あ!忘れてた!」
窓の外に背の高い、ロングヘアの男がぼーっと立っている。
……“彼”じゃないんだけど。
訂正したい気持ちを、ぐっと我慢して、
「今日もおいしかったです。あの……また来ますね。」と、ぎこちない笑顔で、ネオはそう言った。
慌ててPCをたたみ、そそくさと財布を出して会計を済ませる。
「うん、また来てね。」
30代くらいの、周囲の人が振り返るほどイケメンなマスターは、その笑顔もとびきりだ。
他の客から、感嘆の囁き声がもれるほどである。
帰り際に、看板猫のネネと目が合った。
カウンターの隅の、フカフカのクッションの上が彼女のポジション。
ネオの恥じらう様子に、スンとすました流し目を送っている。
この猫は、いつ来てもネオには全く懐かない。
カランとドアベルを鳴らして、ネオがカフェから出てきた。
「ネオ!」
軒先に立っていたリュージが、パッと明るい顔になって、寄ってくる。
「迎えに来たよ。」
リュージは、赤い傘をネオに渡して、嬉しそうに笑っている。
腰まで届く灰色の髪。
白いリネンシャツにアースカラーのワイドパンツ、素足にサンダル——。
その装いは霧雨の住宅街で、かえって目立っていた。
ネオは、見た目は普通の年相応の女の子なのだが、
「目立たない、笑わない、綺麗じゃない」の三拍子が揃っている、と本人は思っていた。
今日は、黒パーカーに、フレアのロングデニムで少し地味目な上に、
おまけにこの霧雨だ。
ネオは、クルクルと広がる天パが大嫌いなのだ。
当然、能天気なリュージの態度に、少しイラついてしまう。
リュージの笑顔が、“少年のように爽やか”というのが、ネオにはさらに気にくわなかった。
なので、横目でリュージをチラッと見て、無言で傘を受け取った。
そのまま、彼の5歩先を、自宅に向かって速足で歩き出す。
午後2時からのWebセミナーに間に合わないから、とにかく急ぐネオ。
その後ろを、リュージがついていく。
「あ、ちょっと、ネオ!」
ドン!
赤い傘が、フワッと空にはねた。
突然、急ぎ足で走り去る男と、ネオは激しくぶつかった。
一瞬、その男の顔が、ネオの目に留まる。
リュージは驚いて、赤い傘を拾いあげる。
男は驚愕の表情でネオを振り返り、バランスを崩しながら、叫び声を上げて駆け出していった。
「何?アレ……」
と同時に、ネオのポケットのスマホが、ブルブルと警告を鳴らす。
「大丈夫?ネオ。」
と、リュージが傘を持って追いついてきた。
「行った方がいいんじゃない?」
スマホの反応を気にしているネオに、リュージがそう声をかける。
「これから、Webセミナーがあるのに……雨だし、髪広がるし、ほっときゃいいじゃん!」
と言ったものの、男が去って行った方向から、視線をそらさないネオ。
「でも、……気になってるよね?」と、リュージがもう一度、念を押す。
「……もう、しかたないなあ。……行くか!」
そう言って、ネオはポケットから、スマートフォンを出した。
ロック画面のはずなのに、スマホのちょうど真上に、LSの光の文字が浮かんでいる。
その文字を囲むように光のチェーンが点滅している。“陰憑き”(かげつき)の反応だ。

LS(Long Swipe(ロングスワイプ)の略)
ロングスワイプは、幻影(ミラージュ)にアクセスするサインである。
ネオはスマホの画面には触れずに、LSの光文字に向かって、ロングスワイプをする。
「ロングスワイプ起動!」
その言葉に反応するように、
「ロングスワイプを起動します。」と、スマホから機械的な声が聞こえてきた。
佐久間は、焦っていた。
何度もスマホから、催促がくる。
今夜ここでやらねば、もう後がない。
そうは思っていても、震えが止まらない。
彼のパーカーの腹のポケットには、サバイバルナイフが入っている。
目的のために購入したものの、恐怖で足がすくんでしまう。
——初めての強盗だ。
下見に来ただけだった。
今なら、まだ辞めることができるはず……。だが……。
さっき、人とぶつかってしまった。顔も見られた。
どうして、こんなことになったんだ!
もう、ダメだ。もう逃げられない。やるしかない。
佐久間は、フラフラとよろめきながら、指示された邸宅へと歩き出した。

「シロちゃん、ノードリングの場所を教えてくれる?」
ネオは、スマホの画面に、地図アプリが表示されるのを待ってそう言った。
「了解しました。」と機械的な声がつづく。
「一番近くにあるのは、赤塚八幡神社の階段の中ほどにあります。」
「シロちゃん、ありがと!」
ネオはそう言ってから、マップを確認する。
その地図アプリの目的の場所には、NRという光の文字が浮かんでいる。
スマホの真上に——。
「ネオ、こっちだよ!」とリュージが先に走り出す。
「わかった!」ネオもリュージの後を追いかけていく。
霧雨は、白く煙るように濃くなっていた。
駅前の渋滞も、すれ違う人々も、二人の様子には全く無関心だ。
ただ、いつもと変わらない週末の風景が繰り返されている。
ネオとリュージは、赤塚八幡神社の階段下に到着した。
霧雨の土曜日の午後ということもあり、誰の気配もない。
傘をたたんで走ってきたので、髪の毛からしっとりと水がしたたっている。
ネオの天パも毛先がクルンと巻いていた。
「シロちゃん着いたよ。」とネオがスマホに声をかける。
「了解しました。ノードリングをオープンします。」とスマホが答える。
その声が響いた直後、古墳の上に立つ神社の階段の中腹に、光のチェーンの輪が現れた。
ノードリングだ。
光のゲートは、コインのようにくるくると回って止まった。
「行くよ、リュージ!」
「OK!」
ネオとリュージは、そのゲートの中に飛び込んでいく。
そして、二人が中に入ると、ゲートはプツンと糸が切れたように消滅して、
ただの静寂な空間へと戻っていった。

ロングスワイプ ―霧雨の幻影(ミラージュ)― (後編)に続く
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