短編小説「ロングスワイプ ―霧雨の幻影(ミラージュ)― 」(後編)
ロングスワイプ ―霧雨の幻影(ミラージュ)― (前編)はこちら
幻影(ミラージュ)と呼ばれるこの空間は、普通の人からは全く見えない。
指定されたノードリングからでないと侵入することができない空間である。
よく言う仮想空間とは、全く異質なものである。
現実の建物や人、車、電車などは、幻影(ミラージュ)として存在している。
ミラージュは光のようにチラチラと揺蕩っていて、ゆっくりと動き、虹色の透明な空間のように見える。
ネオは、この空間では、“Nera(ネラ)”という名のコードメイカーだ。
緑のサラサラヘアが風に揺れて、エメラルドの瞳は強い意志を帯びている。
左にインカムと耳の尖ったヘッドセット、
全身は胸のコアが光輝き、緑のフォトンラインが印象的な黒の艶やかなボディスーツ。
厚底のブーツを履いている。——ネラのコスチュームだ。
持っていた大きなカバンや傘は、ミラージュでは反映されていない。
リュージは……まあ、リュージのままだ。
ネオがこの空間に初めて入った時は、ただのGPSアプリのゲームだと思っていた。
だが、実際に指定された場所に行ってノードリングをオープンした時、
初めて、このゲームが現実にリンクしていることを知ったのだ。
「最近よく噂されてる“陰祓いのNera(ネラ)”の登場だね。」
とリュージが苦笑いをしている。
「その通り名、嫌なんだけど……」
「リュージ、さっきのヤツ、どこにいるかわかる?」
ネラの言葉を聞いて、耳に手を当てるリュージ。
耳をピクピク動かしながら、男の気配を察している。
「わかるよ、北東の方向、2丁目あたりかな……?」
「シロちゃん、マップ出して!」
「了解しました。」
ネラの指示は、インカムから直接シロへ伝わっている。
すると脳内にマップが広がる。
「見つけた!リュージ、先に行って“通せんぼ”だよ!」
「OK!」
虹色の空間を、リュージがサンダルで軽やかに走り抜けていく。
風のように早いので、灰色の髪が流線形を描いてなびいていく。
その後ろからネオも駆け足で向かっていく。
現実の下赤塚の住宅街。
1軒の邸宅を、張り詰めた顔で見つめる佐久間秀幸の姿があった。
腹をくくった。もうやるしかない。
佐久間の手には、あのナイフが握られている。
もう俺はどうなったっていい。サッサと指令を果たして逃げるしか……。
佐久間が、邸宅の敷地に足を踏み込んだ瞬間——!
周囲の景色が一瞬で、光輝くオーロラのような虹色の空間に変わった。
「はっ?なんだ?どこだ、ここは!」
佐久間は驚いて、周囲を見渡す。
視界がゆらゆらと揺れる透明な建物に変わっている。
その中に、完全な実体である人間が、佐久間の目の前に立っていた。
「ここから先へは行かせないよ。」
と、爽やかな笑顔でリュージが言った。
「ヒィッ! 誰だ⁈」
佐久間は引き攣った顔で、後ずさりをして、邸宅の敷地から踵を返す。
その刹那、身動きが取れず、体の自由が利かなくなる。
「はい、陰踏んだ~っと!」
声の方へ視線だけずらす佐久間。
そこには、人差し指と親指でピストルの形を作って、
ネラがニヤッと笑っている。
その足元は、佐久間から伸びている長い陰を踏んでいた。
幻影(ミラージュ)では、佐久間の陰は、異様に黒く目立っている。
その陰は、陰影(シャドウ)と呼ばれていて、
佐久間に取り付いた怨念や災いを視覚的に表している。
“陰踏み”は、コードメイカーの封印術のようなもので、
相手の動きを拘束するのだ。
「シロちゃん、お願い!」
「了解しました。コードリンクを開始します。」
「ネラ、やりすぎちゃダメだよ。」
とリュージが釘を刺す。

シロのコードリンク開始によって、佐久間の周囲に無数の光の文字が浮かび上がる。
その文字の輪がゆっくりと回転し、ネラがその中へ足を踏み入れる。
コードメイカー、“陰祓いのネラ”となって——。
「や……、やめてくれ……!」
佐久間は動けない。
佐久間のインナーコード——DNAのように編まれた光文字には、自我が刻まれている。
陰憑きである佐久間秀幸には、その中に必ずネガティブな感情を生み出す“陰”が潜んでいる。
その陰の文字を上書きできる力を持つのは、“コードメイカーのネラただ一人” だ。
指文字が走れば、陰は光に変わる。
それは、下赤塚の幻影(ミラージュ)の中でだけ許されている、特別な権限なのである。
佐久間の日常は、あの日以来一変した。
ほころびの始めは、クレジットカードでゲームの課金を始めたことだった。
少ない生活費の中から、少しだけなら、あと少しなら……と使い続けた結果、家賃も電気代も交通費も食費さえ払えない状況になってしまった。
どうして、こんなことになってしまったのか……。
そんな時に、たまたまSNSで見かけた高額バイト案件に、魔が差して連絡をしてしまったのだ。
最初はただの運搬役だった。
そして、とうとう実行役の指示が来てしまった。もう、やるしかなかった。
ネラは光文字の渦をのぞき込み、口元をにやりとゆがめた。
「……みーつけた。」
陰憑きのコード(文字列)だ。
指先で黒い染みに触れる。
その瞬間に、ネラのエメラルドの瞳の中に無数のコード(文字)が流れ出す。
佐久間の頭の中には、鮮やかな緑の長い髪で、黒いボディスーツを着た“陰祓いのネラ”が現れる。
幾層にも反射するエメラルドの瞳が、佐久間の気持ちをかき乱す。
と同時に、ネラも苦悶の表情に変わる。
逃げたいのに、逃げられない。怖い。怖い——!!
佐久間の感情が、ネラの感情と同調していく。
「や、やめろ!」必死で抵抗する佐久間の声。
「私はネラ。あなた、なぜ? “自分はもうダメだ”なんて、決めつけてるの?
誰かに相談したの?」
ネラの声が佐久間の脳内に強烈に響いている。
「やめろ!どうせ俺はもうダメなんだ!ほっといてくれ!」
「ちょっと!」
「うっ、わあー!!」
佐久間の絶望の声が、ネラをコードリンクからはじきだした。
踏んでいた陰が外れる。
「ネラ!!」
リュージの叫び声が聞こえる。
「コードリンクを解除しました。」とシロの機械音。
佐久間が拒絶反応を示して、ネラを突き飛ばす。
「やめろ、やめろ、やめてくれ~!!」
ネラは、その勢いに押され、後ろにはじき飛ばされた。
「うっ!」
ミラージュの邸宅の壁にもろに背中からぶつかる。
虹色の幻影に見えても、透明ではないのだ。
その衝撃で、ネラの額から一条の血がひたたり落ちた。
「ッタタ……やりすぎた。」
佐久間はパニックになって、フラフラと立ち上がる。
壁に崩れ落ちるネラに向かってくる。
「危険です!インナーコードが解放されたままでは、陰に侵されます!」
とシロの声が聞こえている。
ネラは、「んなこと、わかってるって!」と血のついた唾を吐き出す。
じりじりと、今にもネラに襲いかかろうとしている佐久間。
その後ろに、突然、巨大な影が立ち上がる。
「あなた、龍の尻尾、踏んだわね?」
ネラが佐久間の瞳を見据えて、そう言い放つ。
「なんだと?」
「“怒らせちゃいけないもの”を怒らせちゃったのよ。後ろ、見てごらん?」
佐久間は、背中に凍るような息吹を感じて、恐る恐る後ろを振り返った。

そこには、自分の背丈の3倍以上もある、巨大な銀灰色のドラゴンが見下ろしていた。
鼻から冷たい息が、氷の風のように吹き降ろしている。
「ギャアー!!」佐久間の叫び声。
そして、腰を抜かして、しゃがみ込む。
そのまま、佐久間は白目になって、気絶してしまった。
「リュージ、ありがと!助かった。」とネラが声をかけた。
そのドラゴンは、優しい目でこう言った。
「ネオのためなら、僕は何でもするよ!」
「ちょっと、何言ってんの?!もう!」
“陰祓いのネラ”はリュージの言葉に、少し頬を赤らめてそっぽを向く。
素直に嬉しいけど……“何でもする”ってのは、ちょっと重いなあ……。
とネオは心の中で、そう呟いた。
「コードリンクを開始します。」と、再びシロの声。
「気絶した人にコードリンクするのは、ちょっと嫌なんだけど、仕方ないか。」
ネラはそう言って、再び、佐久間秀幸自身に寄り添うように、
インナーコードの文字列をひも解いていく。
あった!陰憑き!
佐久間の中についた陰——。
それは「もうダメだ、俺には明日はない」だった。
ネラはその文字列(インナーコード)を指文字で、
「俺にも明日はある、きっと何とかなる」に書き換えた。
ネラがインナーコードを書き換えると、光の文字の中にあった黒い滲みの部分は、消しかすが飛んでいくみたいに、きれいに消え去っていった。
「インナーコードの書き換えが終了しました。5 LSポイントを取得しました。」
と、シロが機械音声で伝える。
「ロングスワイプを終了しますか?」と続く。
「ふう、やっと終わったね。」とネオが声をかける。
ドラゴンの姿のリュージが「お疲れさま」と高い位置から答える。
ホッとして上を見上げると、柔らかな表情のリュージと、虹色の空が重なっていく。
銀灰色のドラゴン——。下赤塚八幡の龍。
それが、リュージの本来の姿だ。
それから、ネオはシロに向かって、「ロングスワイプ終了。」と伝えた。
現実に戻ると、呆然と立ち尽くしている佐久間の前に、ネオとリュージが立っていた。
佐久間は憑き物が落ちたように、崩れ落ちた。
佐久間にとってネオとリュージは、ずっと待っていた“誰かの助け”だったのだ。
佐久間は、ネオに記事を書くことを承諾し、二人に付き添われて出頭したのだった。
ネオの自宅。細長い古いビルの最上階。
1LDKのマンション。
容積率の都合で、壁の一部が斜めになっている。
そこはリュージがよく頭をぶつけるリビングの斜めの壁だ。
「やっと書き終わった~~!送信っと!」
と、ネオはEnterキーを威勢よく押した。
夕方、霧雨が上がり、薄暗い宵闇に、ポツポツとビルの灯がともっていく。

「今回は最速だったね。」とリュージ。
「まあね、タイプするのは早い方だからね。
それに、佐久間さんの事、ちゃんと記事にしたかったし。」とネオ。
「そういうとこ、ネオは真面目だよね。」
「なんかディスってる?」
「え~、違うって、褒めてんだよ!」
「今日のWebセミナー、いい会社(ところ)だったのに、残念だったなぁ……。」
「ねえ、それよりさ、晩ごはん何食べる?」
「かつ丼〜!」とネオが即答する。
「はいはい、ネオの好きなやつだね。」
リュージは嬉しそうに笑いながら、台所へ向かう。
その背中を眺めながら、ネオはクスッと笑って、新しい記事の作成を始めるのだった。
街の灯が点灯し、今日もまた普通の日常が流れていく。
その中で、現実のすぐ裏側では、幻影(ミラージュ)が輝いている……。
あとがき
土地神の龍伝説とGPSアプリゲーム、そして人の感情のリンクを、
エンタメ的に書いてみました(^^)
この話は、以前エッセイで紹介したS先輩との、約束のつもりで書いたものです。
“龍を連れた少女の話”は、私が書くと“龍を飼っている女”の話になってしまいましたけど。
この物語には、謎多きワードがたくさん登場します。
そのご説明については、話数を進めていくうちに明らかになっていくと思っております。
ご縁があれば、またのご機会にお会いしましょう。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
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いただいたお気持ちは、今後の創作の種として、大切に育てていきます。 いつか一緒に、大きな花を咲かせられたら嬉しいです。
でも、無理は禁物。自分のペースで、ふわりとどうぞ。