2026年6月21日(日曜日)
この日は、僕にとって一つの区切りでもある。
その日に向かって、生命力のようなものがどんどん蓄積されていく。

体の奥に光が溜まっていくような感じがする。
気分も、思考も、外へ向かう力も、少しずつ上向いていく。
すべてが、その日に向かって整っていく。
毎年、そうなる。
でも、その日を過ぎると、僕の中にあったそういう感覚は一気に萎える。
昨日まで伸びていたものが、急に止まる。
明るい方へ向かっていた気分が、ふっと向きを変える。
何かを失ったわけではないのに、もう失い始めたような感じがする。
これも、毎年必ず起こる。
しかも、その日はたいてい梅雨の中にある。
空が晴れていれば、まだいい。
けれど雨が降っていたり、低い雲が空を覆っていたりすると、その感覚はさらに重くなる。
湿った空気の中で、気分だけが先に折り返してしまう。

2026年6月21日、日曜日。
その日は、夏至だ。
夏至は、一年でいちばん昼が長い日だ。
そう聞くと、明るくて、前向きで、どこか祝祭のような日にも思える。
実際、夏至に向かっていく時間は好きだ。
春分を過ぎたあたりから、夕方が少しずつ伸びていく。
仕事が終わっても、まだ空が明るい。
一日が終わったはずなのに、まだ少し残っている。
その余白が、妙にうれしい。
時間が増えたわけではない。
一日が二十四時間であることは変わらない。
でも、日が長いというだけで、一日が少し広がったように感じる。
外に出てもいい。
少し寄り道してもいい。
何かを始めても、まだ間に合う気がする。
夏至に向かう高揚感は、たぶん夏そのものへの期待だけではない。
増えていく感じが好きなのだと思う。
日が長くなる。
夕方が伸びる。
夜が遠ざかる。
体の中に光のようなものが溜まっていく。
その増加の感覚が、僕の気分を少しずつ持ち上げていく。
でも、夏至は同時に残酷でもある。
一年でいちばん昼が長いということは、そこから先はもう長くならないということでもある。
最大値に達した瞬間、減少が始まる。
夏至の翌日から、昼は少しずつ短くなっていく。
もちろん、すぐには分からない。
空を見ても、何かが急に変わるわけではない。
カレンダーを見なければ、気づかずに過ごすこともできる。
でも、構造としてはもう変わっている。
光は、増える側から減る側へ向きを変える。
そのことを知ってしまうと、少し気分が落ちる。
友達の中にも、似たようなことを言っている人がいる。
夏至を過ぎると、少し寂しくなる。
昼が短くなり始めると思うと、妙に喪失感がある。
そういう感覚を持つ人は、自分だけではないらしい。
調べてみても、夏至のあとに気分が落ちる人は少なくないようだった。
たしかに、分かる気がする。
夏至は、光がいちばん満ちる日だ。
でも同時に、その日を境に、光は少しずつ減っていく。
ピークの日であり、喪失が始まる日でもある。
その二つが同時に来るから、気分が少しおかしくなるのだと思う。
ただ、ここで少しややこしいのは、僕は夏が嫌いなわけではない。
むしろ、季節の中で一番好きなのは夏だ。
だから夏至に喪失感があっても、一晩寝ればだいたい忘れてしまう。
次の日には、普通に夏を楽しんでいる。

暑い空気。
長い夕方。
汗をかく感じ。
夜になってもどこか残っている昼の熱。
緑は濃くなる。
咲く花も、夏を象徴するようなものに変わっていく。
昆虫も、我が物顔で飛び交うようになる。
そういうものは、やっぱり好きだ。
夏至を過ぎると、光は減り始める。
でも、気温はここから上がっていく。
夏らしさは、むしろここから濃くなっていく。
だから夏至には、
喪失感と高揚感が同時にある。
光は減り始める。
でも、夏は濃くなっていく。
そのズレが、少し不思議な気分を生む。
本当は、夏至がいつなのかを知らない方がいいのかもしれない。
気づいたら過ぎていた。
そのくらいの方が、夏をそのまま楽しめる気もする。
変に日付を知って、その日を身構えるより、知らないまま夏至の周辺を少しモヤモヤしながら過ごす方が、僕の中では健全なのかもしれない。
喪失感の正体を知ることが、必ずしも気分を楽にするとは限らない。
知らなければ、ただの梅雨のどんよりした日で済んだものが、知ってしまうことで、「光が減り始める日」になる。
夏至は待ち遠しい。
でも、来てほしくない。
たぶん毎年、その矛盾の中で夏を迎えている。
夏至と同じような感覚は、冬至にもある。
ただし、意味は逆になる。
夏至には喪失感がある。
この日を境に、昼は少しずつ短くなっていく。
夜は長くなっていく。
光の量だけで見れば、ピークを過ぎていく日だ。
でも、体感としての夏はここから濃くなる。
だから夏至は、喪失だけでは終わらない。

一方で、冬至はもっと厄介だ。
僕は冬が嫌いだ。
どうせなら、冬なんて消えてなくなってしまえばいいとすら思っている。
冬至を過ぎると、暦の上では日は少しずつ長くなっていく。
光は戻り始める。
本来なら、希望の日のようにも見える。
でも、体感としてはまったく希望ではない。
むしろ、寒さはここから本格的になる。
外に出るのも嫌になる。
風の強い日は、体の中にあるものを全部持っていかれるような感じがする。
痛みに似た、尖った寒さ。
その絶望は、立春を過ぎる頃まで続く。
だから冬至は、光の上では回復の始まりなのに、体感では絶望の入口になる。
夏至とは逆の意味で、冬至もまた切り替えのポイントなのだと思う。
光は戻る。
でも、寒さは深まる。
そのズレが、冬至をさらに厄介な日にしている。
夏至は、光の喪失と夏の高まりが同時に来る。
冬至は、光の回復と寒さの絶望が同時に来る。
どちらも、単純ではない。
カレンダーの上では、きれいに説明できる。
でも、体感はそんなにきれいに動かない。

春分を過ぎると、少し変わる。
緑が芽吹くように、自分の中にも何かが芽吹いていく。
空気の中に、これから外へ向かっていける感じが混じり始める。
寒さが完全に消えるわけではない。
でも、冬の底に沈んでいたものが、少しずつ持ち上がってくる。
春分には、そういう感覚がある。
逆に秋分を過ぎると、気分はまた沈み始める。
夏至の喪失感とは違う。
夏至は、まだ夏が残っている。
むしろ、夏はこれから濃くなる。
でも秋分は違う。
昼と夜が並び、そこから夜の方が長くなっていく。
夏の名残はあっても、もう戻る感じがしない。
空気が乾いて、日が落ちるのが早くなる。
夕方が短くなり、夜が前に出てくる。
夏至の喪失感が「ピークを過ぎる寂しさ」だとしたら、秋分の喪失感は「もう戻らない感じ」に近い。

夏が遠ざかっていくことを、体がはっきり分かってしまう。
そう考えると、僕は思っている以上に、季節の節目に反応しているのかもしれない。
夏至。
秋分。
冬至。
春分。
どの日も、その日に劇的な変化が起こるわけではない。
夏至を過ぎた翌日に、急に日が短くなったと感じるわけではない。
冬至を過ぎた翌日に、急に明るくなったと感じるわけでもない。
春分の日に、突然すべてが芽吹くわけでもない。
秋分の日に、突然夏が終わるわけでもない。
でも、体と頭は意外と反応している。
カレンダーを見ているというより、季節の向きが変わる気配を、どこかで拾っている。
光が増える方へ向かっているのか。
減る方へ向かっているのか。
寒さが深まる方へ向かっているのか。
緩む方へ向かっているのか。
夏が近づいているのか。
遠ざかっているのか。
そういうものを、頭で考えるより先に、体が勝手に感じている気がする。
2026年6月21日、日曜日。
その日は、ただの一日ではない。
少なくとも僕の中では、光がいちばん満ちて、そこから少しずつ減り始める日だ。
夏が始まる日でもある。
夏が失われ始める日でもある。
その矛盾した節目に、僕の体と頭は毎年反応している。
夏至が来るのは待ち遠しい。
それは最後まで変わらない。
たぶん、この感覚はこれからも毎年繰り返す。
そして一晩寝れば、僕はまた夏を好きになる。
それくらいの曖昧さで、季節の節目と付き合っていくのが、僕にはちょうどいいのかもしれない。
いつもこんな感覚をもっているけれど、今年はどんな感覚でこの日を迎えるのだろう。特に今年はこうやって記事にも残してしまったから、去年よりは少し鮮明に、その日を感じることになりそうだ。
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