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予定が消えたわけじゃない。ただ、余白がしぼんだ


何かを失ったわけではないのに萎えるとき、何に期待していたのかを見落としているのかもしれない。



GW連休で、僕の会社も休みになる。

毎年けっこうな日数があるから、今年もそうなんだろうなと勝手に思っていた。

だから仕事をしながら、何をしようとか、前からやってみたかったことを少し考えていた。

とはいえ、具体的に予定を立てていたわけではない。

旅行に行くと決めていたわけでもない。
誰かと約束していたわけでもない。
この日にこれをすると、細かく決めていたわけでもない。

ただ、時間があると思っていた。

何かできるかもしれない。
何もしなくてもいいかもしれない。
そのときの気分で決めればいい。

そんな感じで、まだ形になっていない時間を、なんとなく持っているつもりでいた。

連休が始まる一週間くらい前に、念のため期間を確認した。

思っていたのと全然違っていた。

連休は連休だった。
たぶん、他の人よりは長めなのかもしれない。

でも、いつもの自分の感覚とは違った。

はっきり言えば、短い。

友達は僕より休みが短いことが多くて、いつもは自分の方が長い連休をもらっている。
でも今回に関しては、友達の方が長かった。

それも含めて、かなり萎えた。

最初は、自分でも「ショックだった」と思っていた。

けれど、ちゃんとそのときの自分を振り返ってみると、ショックというより「萎えた」の方が近い。

悲しかったわけではない。

怒っていたわけでもない。

誰かを責めたいわけでもない。

予定が潰れて困っていたわけでもない。

ただ、思っていたのと違った。
使える時間が減った。
どうしよう。

そこで止まっていた。

不思議なのは、実際には何か具体的な予定を失ったわけではないということだった。

旅行をキャンセルしたわけではない。
友達との約束がなくなったわけでもない。
絶対にやると決めていたことができなくなったわけでもない。

それなのに、萎えた。

では、何が萎えたのか。

たぶん、予定ではなかった。

予定はなかった。
けれど、余白はあった。

長い休みがあると思っていたとき、自分の中にはまだ何も決まっていない空間が広がっていた。

そこには、具体的な中身はなかった。

でも、何かを入れられる感じはあった。

やりたいことを入れてもいい。
何もしない時間を入れてもいい。
思いついたことを試してもいい。
途中で気が変わってもいい。

そういう、まだ決まっていない自由さがあった。

僕は、その余白を楽しみにしていた。

予定を楽しみにしていたのではなく、予定を入れることも、入れないこともできる時間を楽しみにしていた。

まだ起きていない未来なのに、頭の中ではもう少し使い始めている。

だから、連休が思っていたより短いとわかったとき、何か予定が壊れたわけではないのに、気持ちがしぼんだ。

悲しいというほどではない。
怒るようなことでもない。
でも、さっきまで少し膨らんでいたものが、急に小さくなった。

これが「萎えた」の中身だったのかもしれない。

人は、具体的な予定だけを楽しみにしているわけではないのだと思う。

何も決めていない時間にも、気持ちは向かっている。

むしろ、何も決めていないからこそ、その時間は広く感じる。

何をしてもいい。
何もしなくてもいい。
あとで決めればいい。

その未確定の感じが、自分の中で少しずつ膨らんでいく。

だから、それが狭くなると萎える。

自分の内側で起きたことは見えにくい。
逆に、外側に向かう感情はわかりやすいことがある。

GW中に雨が降って、レジャー予定だった人たちが困っていると思うと、内心「ざまぁ」と思うことがある。

それは、自分でもわかりやすい。

外に出て楽しむことが正解みたいな空気。
レジャーこそ充実した休日みたいな雰囲気。
それが天気ひとつで崩れる。

その感じが、少し面白い。

でも、自分のGWが短いことへの「萎えた」は、すぐにはわからなかった。

相手が外にいるわけではない。
誰かに負けたわけでもない。
何か具体的に壊れたわけでもない。

萎えたのは、その余白がしぼんだからだった。



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