天気図込みの自分
同僚に「梅雨明けしたらしいですね」と言われたとき、僕の頭に浮かんだのは青空でも暑さでもなかった。
梅雨前線は、今どこにあるんやろ。
それが最初だった。

それに、僕の中ではまだ梅雨は明けていなかった。
僕には、気象庁とは別の梅雨明け判定がある。
蝉の声だ。
その年、最初に蝉が鳴くのを聞いた日を、僕は梅雨明けの日にしている。その時点では、まだ聞いていなかった。
実際どうなっているのか、自分で確かめて納得したくなった。
あとで調べると、気象庁はもう「梅雨明けしたとみられる」と発表していた。
以前は「梅雨明けしたもよう」と言っていた記憶がある。少なくとも、僕の中ではそんな言葉で認識していた。
どちらにしても、面白い言い方だと思う。
宣言ではない。
「したとみられる」。
つまり、絶対的な境界線を見つけたわけではなく、これまでの天候とこの先の予報を見て、「このあたりで明けたと考えるのが妥当です」と言っている。
だったら、僕が自分の中で梅雨明けを発表しても、別にいいじゃないかと思っている。
もちろん、気象庁と僕の判断が同じ重みだと言いたいわけではない。
向こうには観測データも、天気図も、予報技術もある。
でも、公的な判断とは別に、自分の生活圏に夏がやって来たと感じる基準くらい、自分で持っていてもいいと思う。

僕にとって、それが初蝉の声だ。
しかも、僕の中でこれがまったく根拠のないものでもない。
僕の体感では、蝉が鳴き始めてから数日後に、気象庁の梅雨明けの発表が出ることが多い。
毎年記録を取っているわけではないし、統計でもない。
それでも、何度か同じ順番を経験してきた。
だから僕の中では、
初蝉。
その数日後に、気象庁の梅雨明け。
という並びが、なんとなく定着している。
今年はそれがたまたま逆だった。
気象庁が先に「梅雨明けしたとみられる」と発表し、僕が初蝉を聞いたのは二日後だった。
それでも、たった二日のズレだ。
今年は蝉が出遅れたな、くらいに思っている。
たぶん僕は、「梅雨が明けた」という結果だけを、そのまま受け取ることができない。
何をもって明けたと判断したのか。前線はどこへ行ったのか。その裏側まで、勝手に考え始めてしまう。
天気の話というのは、世間では当たり障りのない話の定番だと思う。
誰も、そんな話をしているときに細かい話をしたいわけじゃない。
今日の情報をその場に出して、適当に思いついたことを言って、それで終わる。
「暑いですね」
「そうですね」
それで十分成立する会話だ。
そのやり取りの間、僕の頭の中では天気図が浮かんでいる。
前線はどこにあるのか。
太平洋高気圧はどこまで張り出しているのか。
この先の予報はどうなっているのか。
それが勝手に立ち上がってくる。
だから、本音を言えば、もう少し詳しい話をしたい。
それでも会話としては、「暑いですね」のところで終わる。
頭の中で進んでいる話との落差に、少しモヤモヤする。
「台風が来る」
「梅雨が明けた」
「暑くなった」
という結果だけでは、僕の中で話が終わらない。
何がそれを動かしているのか。
どんな配置が、その現象を成立させているのか。
そこまで、勝手に頭が動く。
なぜ、こうなるのか。
この癖を辿る手がかりは、たぶんはっきりしている。
物心がつくかつかないかの頃から、うちのテレビにはずっとNHKが映っていた。
一日に何度かあるニュースの前には、必ず天気図と地域別の予報が詳しく流れる。
幼稚園の頃も、小学生の頃も、それはほとんど毎日のことだった。
自分から進んで見ていた記憶はない。
見せられていた、勝手に目に入っていた、という方が近い。

ここで、ひとつ引っかかっていることがある。
「もともと出来事の裏にある構造を見る性質があって、それがたまたま天気図という形式を取った」
そう考えたくなる瞬間が、自分にもあった。
その方が、なんというか、聞こえがいい。
生まれつきの資質が、環境と出会って開花した。
そういう話にできるからだ。
でも、それは順番がおかしい。
物心がつく前から、もう天気図は毎日流れていた。
だとしたら、「もともとの性質」が先にあったのかどうかなんて、確かめようがない。
僕が覚えている一番古い自分は、すでに天気図込みの自分だ。
天気図のない自分が先にいて、あとから何かに興味を持った、という感覚がない。
最初から、そこにあった。
好きになった記憶がない。
嫌いになった記憶もない。
気づいたら、それしか知らなかった。
選ぶ余地があった時点というものが、そもそも存在しなかったんだと思う。
証明はできない。
ただ、選んだ覚えだけが、どこにもない。
だから今でも、天気の話を振られると、頭の中では何段も先まで話が展開している。
気圧配置。
前線。
湿度。
初蝉。
季節の進み方。
次々に立ち上がってくる。
それでも、口から出る言葉は決まっている。
「ほんま暑いですね」
別に、苦痛というわけじゃない。
ただ、口が「ほんま暑いですね」と動いている間も、頭の中はまったく別の場所にいる。
そして、こんな挨拶みたいな軽いやり取りをしている間、相手の頭の中には、たぶん天気図なんて浮かんでいない。
同じ「暑いですね」を交わしながら、僕の頭の中でだけ前線や高気圧が動いている。

それを想像すると、少し可笑しい。
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