知られざる戦後日本の前衛美術② ~ 展覧会「九州派イン東京地方」≫「九州派にまつわる資料と九州派作家の作品」@Mikke Gallery
「田舎の絵描きが暴れたんです」。
戦後日本の前衛美術集団「九州派」。その主要メンバーの一人だった菊畑茂久馬(きくはたもくま)が発した上の言葉が、同グループを最もよく言い表しているようです。
5月10日、「九州派イン東京地方」展・第2期「九州派にまつわる資料と九州派作家の作品」のトークイベント(山口洋三×山本浩貴)に行き、話をうかがってきました。

山口氏・山本氏の写真掲載許可はギャラリーからいただいています。
1957年に福岡市で始まり、約10年間続いた九州派は、特定の目標を達成すべく結成され、組織されたグループではありません。もっとゆるいつながりで、人の出入りはあったし、リーダーもいませんでした。
ただ、詩を書きながら独学で絵を描いた桜井孝身(さくらいたかみ)が、活動を取り仕切っていた面があったそう。実質的なリーダーだったようです。
その桜井が1955年の二科展に入選した時、同展会場で見たオチ・オサムの作品に心を奪われたといいます。オチは初出品で入選、岡本太郎に認められた才の持ち主。二人は翌年福岡で出会い、九州派結成へと突き進んでいきました。

右:桜井孝身《足》(写真)1956年 第41回二科展出品
※白黒の画像は全て実物展示ではなく、写真展示
なお、先の二科展には、後に加わる齊藤秀三郎(第1期展出品作家)ら複数名が入選していたとか。
九州派は東京を意識しつつ、福岡を拠点にしていた、と前に書きました。が、もともと結成前から、それぞれ我流で絵を描いては東京で発表の機会を狙っていた、とうかがわれます。
そうは言っても、東京で作品を見せるには、輸送費がかかります。九州派に参加した人々は皆労働者(三井三池炭鉱にも関わったらしい)、裕福とは言い難い状況にありました。東京に作品を送り届けても、手元に戻す経済的余裕がなく、そのまま捨て置いてしまうこともままあったそう。
地方には、当時美術館はおろか画廊もありませんでした。発表の場がない中、画家になろうというメンタリティをどのようにして持つことができたのだろう?、と山本氏は、疑問を率直に口にしていました。
う~ん、確かに……。深くうなずいてしまいました。
しかしそんな状況に負けず、彼ら彼女らは福岡県庁舎の外壁を利用して路上で作品展を行うなど、果敢にチャレンジしています。
次の写真 ↓ がそれです。
九州派結成の契機になったとされる詩画展「ペルソナ展」(1956年)の会場風景です。当時の営みを今に伝えてくれます。

こうしたゲリラ的展示や野外展は、今でこそ珍しくなくなりました。けれども1956年当時においては、強烈な印象を放ったはず。まさに前衛!……と言いたいところですが、当のメンバーらは、前衛的だからそうしたわけでもなさそうです。
例えば山本氏が述べたように、この企画って戦略的に行われたのではないか?、とつい期待したくなります。でも、山口氏から返った答えは、「展示する場所がなかったから」。それを耳にして私が感じたのは、彼ら彼女らの切実さでした。
県庁舎の外壁利用に加えて、詩の展示方法にも切実さが垣間見えます。
なんと、「ペルソナ展」において詩はプラカード上に表され、絵の隣に並べられました。
(ちなみに、桜井が詩を書いた旨先述しましたが、九州派の活動は当初詩作が中心で、絵画は後から加わったといいます。)
プラカードは、「デモ」とか「抗議」のイメージを彷彿させます。最初ナイス・アイデア!と思いました。政治性をはらんで見せるため目論んだのでは?、とまたまた期待したからです。ところが実際は、「身近にあったから」。拍子抜けしました(笑)。でも、そんなところが彼ら彼女ららしい、と言えるかもしれませんね。なんとかして詩画展を形にしたかった、そんな想いがひしひしと伝わってきます。
私は、九州派の活動の根底には、前衛への志向と共に、地方に在住する美術家の切実さがあって、それに伴う創意工夫が斬新さを生んだ側面があるように感じます。

それに写真を見てわかったのですが、とにかく皆若かったんですね!エネルギーを爆発させ、がむしゃらに「もがいた」=「暴れた」だったのかもしれません。
メンバーそれぞれの作品も斬新です!


マネキンのヘアと突起物の付いたビニールを洗濯バサミで組み合わせたオブジェ

大量のたばこの吸い殻を水槽に入れたオブジェ

当時田部は妊娠5ヶ月だったそう。
「人工胎盤ができたら、始めて女性は本質的に解放されるんだけど」
という田部の言葉に、フェミニズム的視点が汲み取れます。

包帯で全身を巻き、展覧会場にたたずんでいたらしい。

創作面では、菊畑とオチがリードしたとされます。
数少ない女性作家・田部光子の作品にも引き付けられます。
残された資料に当たると、彼女はとてもクレバーだったことがわかる、と山口・山本両氏は口を揃えていました。彼女のコンセプチュアルな作品は、明晰な知性を反映しているようです。
特に上に掲載した《人工胎盤》は実に興味深く、フェミニズムの視点を内包する先駆的作品と言えるでしょう。
いずれの作品も魅力的で、目を見張ってしまいますが、皮肉なことに、次第にグループとしての九州派より、メンバー各個人に美術関係者の目が向けられるようになっていったといいます。
また結成以来、二科展をはじめ、アンデパンダン展などの公募展や県展への出品を続けてきましたが、菊畑が二科展落選をきっかけに「反公募展」を表明するなど、方向性の違いが生じ、分裂を招いたとか。
他にも、メンバー間の前衛意識の差が議論となったり、あるいは労働組合運動での論争といった、美術とは別の、いわば生活の次元での分断が合わさるなどしたようです。
折しも「ネオ・ダダ」などが現れ、先鋭性においても、かつて先導する位置にいた九州派は追い越されていくことに……。
こうしていろいろな要因が複雑に絡み合って、九州派は、1959年に実質的な終焉を迎えたということです。

国立近代美術館の依頼で本作品を「現代美術の実験」(1961年)に出品するも、謝礼金の少なさに絶望。
翌年《出口なし》という作品名で読売アンデパンダン展に出品した後、オチは本格的な作品制作から遠ざかったそう。
やがて歴史から忘れられた九州派ですが、福岡市美術館で学芸員を務めた山口氏、前任の黒ダライ児(黒田雷児)氏らが着目、研究・再評価が行われ、徐々に展覧会が催されるようになっていったそうです。
ちなみに山口氏によると、九州派の作品を一番多く所蔵しているのは福岡市美術館。次は東京都現代美術館だそう!常設展で菊畑の《奴隷系》(再制作)が展示されたこともあったとか。
東京都現代美術館を訪れる際、目当てはたいてい企画展で、時間が許す範囲で常設展を観るというパターンですが、常設展会場にもっと積極的に行こうと改めて思いました!
最後に、少しですが、九州派以降の比較的新しい作品をざっとご紹介(これらは実物展示です)。
(上手く撮影できず、なんとか撮れたものだけです……汗)





九州派以降も交流していたんですね〜!
ギャラリーの方が嬉しそうに教えてくれました!
私は、このような歴史を掘り起こす取り組みに、敬意の念を抱きます。
力不足でほんの一端しか伝えられませんが、この記事を通じて、九州派という集団が存在したことを一人でも多くの方に知っていただけたら嬉しく思います。
会期終了まであと1日となりましたが、ご興味があれば、ぜひ展覧会に足を運んでみてください!
*「九州派イン東京地方」展
第2期「九州派にまつわる資料と九州派作家の作品」 ~5月15日(水)
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします!いただいたチップは、書籍代などに使わせていただき、より魅力のある記事を目指してまいります!