私の英語学習50年(1) 出会い
浪人までしてなんとか大学にもぐりこんだのはいいが、いざ大学に入ってみると僕にはなにもすることがなかった。
専攻に選んだ学問は経済学だったが、その勉学には最初の1カ月でいとも簡単に挫折した。
大教室の片隅に所在なさげに座っている僕の耳にぼんやりと聞こえてくる先生方の講義は、少し調子外れの子守唄にしか聞こえなかったのである。
もちろん先生方が悪いのではない。悪いのは僕のほうだ。
なにしろ専攻を選ぶ基準が、通っていた予備校の模試で与えられた偏差値と、卒業後の大企業への就職のしやすさでしかなかったのだから。
こんな事態にいったいどう対処すればよいのかの模範解答は、僕の使っていた受験参考書には載っていなかった。
僕は途方にくれた。
学校へもほとんどいかず、中野の四畳半の下宿で膝を抱えてオカバヤシやタクローを聞きながら、悶々とした1年間を過ごしたその後の、2年生になった4月のことである。
ある親切な友人の紹介で、僕は日本にやってきた香港人学生グループの東京見物のガイド役を引き受けることになった。
別に国際交流というものに特に興味があったわけではない。こもっていた下宿から外に出るきっかけとなるのであれば、実はなんだってよかったのである。
4月のうららかな日の早朝、僕は集合場所に到着した。
日本人以外の人間と身近に接するのは小学生のときに近所を徘徊していたモルモン教のお兄さんたちに極彩色のパンフレットをもらって以来のことである。
グループは20人ぐらいで香港人と日本人がちょうど半分ずつぐらいだった。
僕はこのツアーの先輩から、僕がガイド役を担当する男子学生を紹介された。
名前はデイビッド・チャン、香港人である。
僕と同じ大学2年生で土木工学を専攻している、と、もらった日本語の資料には書いてあった。
最初に紹介をされたとき、にこやかに笑いかけて握手を求めてきた彼の表情や動きを僕はいまでも忘れることができない。
中国系だから彼の顔つきや体型は僕となにも変わりはしない。
けれども何かが決定的に違っている。
これが「ガイジン」なのかと、僕はそのとき思った。
その日の見学コースは国会議事堂から東京タワー、そして浅草見物という実にわかりやすいメニューだった。
国会議事堂の前につくと、僕ははじめてミスター・チャンのほうを向いて議事堂を指差してとりあえず暗記してきたフレーズを口にした――
「ジスイズ、ザ、ジャパニーズダイエット」。
すると、彼は僕に向かってなにかを話しかけてきた。
「■&’%○△U`}$~¥^☆&」
それは、おそらくは英語であった。
しかし、まったく、わからない。
その瞬間、すべての思考が停止し、とつぜん目の前が真っ白になった。
それから僕たちは東京タワーと浅草を見学した。
そのあいだにもデイビッドは、なにかを見るたびに僕に熱心に話しかけてきた。
「□■&’%○△*‘#Д|☹~¥^☆&?」
「~¥^☆0^6\][|P#Д|☹」
「#Д|☹#">K('&◎▼cxe"△*‘#=■◆U0l0&%」
そのすべてが僕にはまったくわからなかった。
本当に、本当に、ただ一言も理解できないのだ。
それから夕方までの数時間のあいだ、なにひとつ理解できない彼の言葉に対して、ひきつったような顔をしながら、僕はただうんうんと頷くだけだった。
「イエス」という語を声に出すことさえ、できなかったのである。
ところがデイビッドは、そんな僕の存在をそれでもとても喜んでくれたのだ。
そしてなにかが目につくと、ただ顔をひきつらせながら頷くだけの僕に向かって、あきらめずに一生懸命に話しかけてくるのだ。
夕方になって別れるとき、デイビッドは僕の手を握るとなにかをいった。
「>K('&cxe□■&’"△*‘#&◎▼cx@9'()#"!」
おそらく別れの挨拶なのだろう。
やはり、まったくわからない。
手を握られたまま、僕は最後にもう一度、デイビッドに向かって大きくうんうんと頷いた。
するとデイビッドは僕の手をもう一度強く握り締め、そしてにっこりと笑った。
それは「ガイジン」の笑顔ではなかった。
それは間違いなく「トモダチ」の笑顔だった。
そのとき僕は、これから英語を勉強するんだと思った。
(つづきは↓)
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