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リービ英雄の『我的日本語』(2)

リービ英雄の『我的日本語』のなかで私が最も高く評価している部分を、以下にご紹介する。多和田葉子に関するコメントの部分である。

ここを読んだとき、私は「日本語で書くということ」の意味を、リービから教えてもらったと感じた。

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「いまも私は、自分が日本語で書いていることに対する、必然的な理由を見つけ出していないが、しかしそれでも日本語で書き続ける勇気と意志を、この文章からもらえたように思う。

一人の作家が、ひとつの言語で書くと、その言語の歴史を全部背負う。あるいは対峙している。それを常に意識せざるをえない。

自分が現代文学と同時に古代文学を読んで翻訳していたということで、ぼく自身は、一千三百年の日本の歴史の末期にいるという、謙虚のようで傲慢な、傲慢なようで謙虚な意識をいつも持っている。

だから、日本語で書くことに、ずっとこだわってきた。

場合によっては「リービ英雄は日本語に、やまとことばにこだわりすぎている」という指摘もあるだろう。英語的な日本語や中国語的な日本語でもいいのではないか、今は国際的な時代だから、もっと自由に書いていいのではないか。そういった批判は時々あるだろう。しかし、それは少し違う。

最終的に国籍も人種も民族もDNAもすべて虚構だと分かったところで、やはりひとつの言語にはひとつの言語の歴史があって、その固有性から逃げることはできない。また逃げる必要もない。その固有の歴史を受け入れて、それに参加するというのは、まさに今の時代だから見える姿勢ではないかと思う。

国籍や民族など全部超越したところで決してニュートラルな世界言語ではなく、限りなくある固有の言語それぞれの歴史がそこに存在しているということが分かってくる。

多和田葉子は「世界にアイロンをかけたような国際化には反対だ」と言う。

文化の違いというのは本来ごつごつしたもので、その違いをなくすのではない。スターバックスに座って『ノルウェイの森』を読んでいるような、世界ニュートラルな言語感覚ではなく、むしろ固有の歴史に飛び込んで、それを抱きしめて書く。

おそらくどこの国のどの言語よりも、近代百年のアドベンチャーにさらされてきた日本語の中でこそ、それが可能なのだろう。」

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