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唯識の涅槃分類は捏造

成唯識論で説明している「涅槃」の分類は唯識論者による捏造です。

阿含経典基準の教義教学を高いレベルで理解していると、唯識論者の涅槃分類が完全に誤っていることが容易に理解できます。
また世の中の事の色々を知っている社会人ならば、ボクの説明を読むことで当時のインド僧院の「無様さ」を生々しく想像できるかもしれません。


難しい漢籍の経典と、対応する梵語やパーリー語の経典を ChatGPT というシステムに取り込んで、対比、解析させて、わかりやすい現代日本語に翻訳&要約させた結果をnoteに貼り付けてくれている人がいます。

このnoteは玄奘三蔵法師が翻訳した「成唯識論」のChatGPT による翻訳&要約を眺めていたら唯識論者の完全な誤りに気づいたので、誤りを指摘するために書きました。

これはChatGPT、noteの作者さん、漢訳した玄奘三蔵が誤っていると主張しているのではなくて、スタート地点であるインドの僧院の連中が誤っているという主張になります。

今回の参照先は第10巻になります。
興味がある方は是非!読んでみてください。


涅槃が4種類?

「涅槃」は状態の違いによる分類が可能です。
阿含経典解釈では、というか阿含宗では2種類であると学ぶのですが、唯識では涅槃には4種類あると言う。

阿含仏教基準の涅槃は2種類

我々阿含宗会員信徒が学ぶ「涅槃」の種類は2種類です。

有余依うよえ涅槃
無余依むよえ涅槃

有余依うよえ涅槃は依存する肉体が存在する状態のブッダのこと。
仏道修行の結果、生きているうちにブッダに到達した偉大な人物です。
生きたまま仏陀になるということは、その人生において凄まじい数の人々を救い導いた大聖者であり、その人の骨は仏舎利となる

無余依むよえ涅槃は肉体が無い状態のブッダのこと。
有余依涅槃に到達した偉大な聖者が肉体的な死を迎えたとき、霊体が肉体を離れて真の如来になり、無余依涅槃の状態になる。
あるいは四沙門果の聖者が霊体のまま修行を進めて、霊体の状態で仏陀に到達すれば、これも無余依涅槃である。

ともあれ、両方とも仏陀のことで、相違点は物理的な肉体の有無です。

唯識の4種類の分類

唯識の涅槃は4種類だという。
1. 本来自性清浄涅槃
2. 有余依涅槃
3. 無余依涅槃
4. 無住処涅槃

1の本来自性清浄涅槃は、このnoteでは取り上げません。
内容がポエムでボクには意味不明なのと、関連事項を書き始めると脱線しすぎるからです。
興味がある人はリンク先のnoteを参照ください。

唯識の有余依涅槃と無余依涅槃の説明には罠が組み込まれている。
その説明は「カルマや煩悩が無くなれば涅槃を得る」というもので、これだけ見れば誤りとは言えないが、説明はこれだけである。
「人間とは何か?」と質問した時に「目がある」と答えて終わるレベルであり、唯識論者は明確な意図を持って重要な内容を定義から消している。

無住処涅槃は唯識論者による捏造

4. 無住処涅槃(むじゅうしょねはん)
意味:

「生死」と「涅槃」のどちらにも執着せず、常に有情(生きとし生けるもの)を救済し続ける菩薩や仏の境地。
大悲(衆生救済の慈悲)と般若(智慧)によって支えられている涅槃。

特徴:
菩薩や仏は、生死にも涅槃にも執着せず、有情を救済するために生死の世界にとどまる。
完全に悟りを開いたにも関わらず、衆生を導くために行動し続ける。
最も理想的な涅槃の形態とされ、釈迦牟尼仏の境地もこの涅槃に当たる。

CharGPTによる唯識の翻訳と要約

このnoteでは引用をしなかったけれども、他者を救うという概念は、唯識の涅槃の①②③の定義では全く出てこない。
④無住処涅槃で唐突に他者救済の概念が明記されるのである。

要約版唯識の説明を言葉通りに理解すると、
②有余依涅槃と③無余依涅槃への到達は、カルマや煩悩の有無が基準であって、他者を救うことは涅槃に達する条件に含まない。
④無住処涅槃に到達して初めて、「常に有情(生きとし生けるもの)を救済し続ける菩薩や仏の境地」が発生する。

つまり、

  • 自分は②有余依涅槃に到達した聖者だけど、他者を救うなんて興味ないし

  • ②有余依涅槃に到達するために他者を救うなんて行為は不要だよ!

  • 他者を救うのは自分の死後に④無住処涅槃に到達してから考えるね!

  • それまでは③無余依涅槃だから他者を救う気持ちは無いよ!

と言っているのだ。

死後に他者を救う気持ちになる場合があると他者救済の体裁を保っているが、生きているうちは何もする気がないのだから、
唯識は立派な小乗仏教である。

さらに言えば、本来ならば涅槃に到達したならブッダなのだから遺骨は人々を救う霊力を持つ仏舎利となるはずである。
でも②有余依涅槃に達したと称する人物が死んで③無余依涅槃にステータスが遷移しても、③無余依涅槃は他者を救済し続ける菩薩や仏の境地を持っていないから、涅槃に到達しているけど遺骨は仏舎利としての他者を救済する霊力を持たない、という言い訳まで準備してある。

これを考えた唯識の連中は救いようがないクズだ。

当時のインド僧院は腐敗した官僚組織だったのか?

これは想像だけれども、当時のインド僧院は腐敗した官僚組織の典型例のような状態だったのではないか?

腐敗した組織で出世した俗物の僧侶が、
自分は涅槃に到達したと主張したい。

そこで有余依涅槃に到達する条件を煩悩の有無だけに限定する。
どうせ客観的な測定方法は無いのだから、自分は煩悩が消滅したと言い続ければ良いだけの話である。
※但し本尊の霊力や人のオーラが見える霊眼所有者はごまかせない

「涅槃に達したということはブッダになったのだから人々を救えますね?」
「御遺骨はお釈迦様同様に仏舎利になりますね?」
と問われるから、他者を救済する能力については丸ごと有余依涅槃と無余依涅槃から取り外して、新設した無住処涅槃に付け替えてしまう。
そして無住処涅槃には、死後に機会があれば到達するかもしれない、と、ごまかす。
※阿含経典基準の涅槃の定義を知らない人は容易に騙せる

さらに涅槃の定義に難しい単語をたくさん追加して、ぐちゃぐちゃに混ぜてテキトーに小難しく説明しておけば、学のない連中は、よくわからないけど、何かとてもありがたい気持ちになって、感謝感涙するようになるだろう。
※意味不明のまま般若心経を聞いてありがたいと感じていませんか?

これは、重要事項を骨抜きにして、複雑怪奇な内容にして論点外しを行い、自己保身と所属組織の最大利益を目指す論法であって、2025年3月時点の日本で例えるならば自民党税調、財務省、厚生労働省のやり口と同じと言えば雰囲気を理解できるだろう。
唯識の連中は宗教の教義教学という場で、これをやったのだ。

涅槃=ブッダになること

改めて、仏教の原理原則を確認しましょう。

涅槃に入るとはブッダになる事である。
悪因悪業カルマを完全消滅させることでブッダになるのだが、
そのためには、莫大な量の徳を積む必要がある。
それは自分ひとりのカルマだけではなく、家族のカルマも断滅する必要があるし、自分が居住する地域や国家国土のカルマも断滅する努力をする必要がある。

今回は具体的手段についての詳細説明を省くけれども、
ポイントとしては、生者死者を問わず他者を救い、家族や地域国家のカルマをも断滅をするという活動を「生きているうちから」修行として頑張るというところである。

見込みがある人なら必ず神仏からのアプローチがある

人が涅槃に至るということは、神仏側からも注目すべき新たな人材の登場である。

だから神仏側の視点から見て見込みのありそうな人物のところには、涅槃に至る前から、必ず神仏側からのアプローチがある。
神仏側の査定を通れば、阿含宗で「霊性開顕」という現象が発生して、修行者は神仏の存在を何らかの方法で知覚できるようになる。
人によっては、何らかの霊力、ちょっとした超能力を与えられて、それを活用して人々を救う方法を考えて実践することを神仏側から求められる。

神仏の存在を知覚できる能力を与えられた人間からすれば、他者救済に興味関心が無い俗物が涅槃に到達することは絶対にありえないとわかっているので、唯識の連中による涅槃の定義は捏造であり、連中の中には誰一人として霊能力を有するものがいなかったことが、丸わかりなのである。

繰り返しになるが
有余依涅槃に入るということは、生きながらブッダになるということである。
有余依涅槃のブッダは「生き神様」そのものであって、他者を救う強烈な霊力を持ち、生きているうちから多くの人を教え導き救いまくり、死後その遺骨は仏舎利となり信仰の対象となる。
これがお釈迦さまが説いたオリジナルの仏教、阿含経典における有余依涅槃である。

唯識論者は上記の条件をひとつも満たさないのに有余依涅槃を僭称するために理論を捏造したのだ、ということを、しつこいほどに繰り返し主張したい。

最後に
お釈迦様はブッダになる前に他者を救う修行をしていないから
自分も他者を救うこと考える必要はない
唯識の説明は正しい
と思いながら読んでくれた人に説明しましょう。

前世までの積み重ねがあり、今世でブッダになる使命を持って生まれたお釈迦様と
人生上のトラブルが現在進行系で発生している「あなた」が
同じ水準、同じ修行法でブッダになれると本気で思っていますか?
もしそれが本当に可能だとするならば、今から大谷翔平と同じ練習をすれば、あなたも大谷翔平と同レベルのプロ野球選手になれると思いますよ。
ブッダになるより容易なはずです。

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