【時事考察】大鶴肥満のマンジャロという令和の日本昔ばなし! 自分がその助けを必要としていると自覚するのは意外と難しい
お笑いの歴史上、最重量のデブ芸人がママタルト・大鶴肥満であることに異論はないだろう。そんな大鶴肥満が週刊文春の取材でついにダイエットを決意したと語った記事は話題を呼んだ。その中でも特にマンジャロのくだりはインタビューのオチとして完璧過ぎた。
――ダイエットが成功し、健康面にもいい影響が出てくるといいですね。
肥満 そうですね。お医者さんからもだいぶ心配されているんで。
この前「ダイエットします」と言ったら、「マンジャロどうしますか?」と聞かれました。でも僕はSNSとかでいろいろ見ていて思うところがあったので「最近、マンジャロを使って無理に痩せようとする人が多いですけど、そういうのは本当に必要としている人に使ってください」と答えたんですよ。そしたら「あなたがその必要としてる人なんです」と言われました。
そこで「ああ、俺はそっち側なんだ」と自覚はしたんですけど、まだ薬に頼らなくてもいい段階だと自分では思っているので……最後の切り札として取っておこうと思っています。
本来は糖尿病の治療薬なんだけど、副作用で痩せることがわかり、肥満治療として活用されるようになったのがマンジャロ。ところが、それをセレブやキャバ嬢など健康指標としては痩せなくていい人たちが使うようになっているというのがいま社会問題になってきている。
このままだとマンジャロを治療薬として必要な人たちに回らなくなったり、痩せ過ぎや内臓負担による健康被害も危惧されている。だから、大鶴肥満は医者からマンジャロを勧められたとき、「必要な人たちが使うべき」と辞退したわけだけど、「あんたがその必要な人だよ」と言われたというのは落語のようで面白い。
加えて、ひとつの教訓も見出せる。支援や制度を利用する人への視線が厳しくなると、自分もその対象だと認めにくくなる。これはマンジャロに限らず、生活保護だったり、ハローワークだったり、奨学金だったり、様々な支援の領域で発生している。大鶴肥満が言うように「ああ、俺はそっち側なんだ」と自覚するのはかなり難しい。
そのことを笑い話として気づかせてくれる点において、『大鶴肥満とマンジャロ』は令和の日本昔ばなしと言っても過言ではない。
先日、ヤングケアラー問題を扱った中島信子の児童文学『八月のひかり』を読んだときも、助けを求めていい人が助けを求められない問題の根深さを強く感じた。
夫のDVから逃げ出したお母さんが二人の子どもを育てるため、必死に働いた結果として子どもたちが苦しめられる不条理を描きたいのはわかるけれど、作中、生活保護を受けないことが努力の象徴になっている点は気になった。いやいや。あなたは生活保護を受けるべき人だって。そうすれば、少なくとも経済的な問題のかなりの部分は改善するはずと、つい、ツッコミを入れざるを得なかった。
これ、日本で貧困問題を扱うときに直面しがちなジレンマだ。努力していなければ共感を呼ばないので、主人公は自ずと努力の人になる。ただ、それだと生活保護を受けた方がいいよとなってしまう。日本では利用できる行政サービス自体は少なくない。そのため、単純に「誰も助けてくれない社会」として貧困を描くことは難しい。
その結果、作品の側は「制度を利用してもなお解決できない事情」を強調しがちになる。どうしようもない人がどうしようもない理由で貧困に陥る話として描かれやすくなる。いわば、貧困が自由やアイデンティティの問題に回収されてしまう。まるで意志を貫くために貧困を甘んじて受け入れているかのような話が作られてしまう。
もちろん、そういう一面があることはあると思う。ただ、すべてがすべて、そうではないでしょ? とさすがに訝しむのが普通の感覚ではなかろうか。それこそ大鶴肥満のマンジャロみたいに、「本当に困っている人が頼るべきやつだから……」と自分のしんどさに蓋をして、助けを求められていないケースが見えなくなっているんだとしたら、それこそ、フィクションで取り上げるべき領域だ。
日本では自助がベースにあると言われる。助けられることは恥ずかしいことであるという発想がなんだかんだで各自にインストールされている。そんな中で「大丈夫ですか?」と聞いて回っても、みんな、「大丈夫です」と嘘でも答えるのが当たり前。してみれば、福祉はそのことを織り込んだ形で設計されなければいけない。
そして、その視点でこれまでの社会を振り返ってみると、かつてのおせっかいなおじさん・おばさんは、自覚なき当事者たちを助ける役割を果たしていたのかもしれない。すると、なんだか少しだけ懐かしくなってしまう。
おせっかい。
これ、悪口として使われる言葉だけど、本当はめちゃくちゃ日本のメンタリティに合っていたんじゃなかろうか? 「あの人はおせっかいだから」と文句を言いながら、プライドを傷つけず、なんだかんだで助けてもらう手段としてよくできていた気がする。
それが成り立たなくなってしまったのはなぜだろう。
感謝の可視化が求められるようになったからかもしれない。おせっかいな人への悪口が本人の目に触れやすくなったからかもしれない。あるいは単純に、おせっかいを焼けるだけの余裕が社会から失われたからかもしれない。
つくづく、おせっかいは奇跡的なバランスの上にあったのだと認識させられる。で、あるならば、現在おせっかいを引き受けてくれている人たちにわたしたちは感謝しなきゃいけない。
みたいなことを大鶴肥満のマンジャロから考えた。
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