永井荷風は37歳で老人宣言! 若くありたいって発想はもはやダサくて、自ら老いていくのがむしろカッコいい。エイジングにアンチしている場合じゃねえ…… 【永井荷風はエゴイストでヒューマニスト②】
今月のメンバーシップ限定記事では「永井荷風はエゴイストでヒューマニスト」をテーマに議論を展開しています。
前回は軍国主義への反発から"エロジジイ"として生きる道を選んだ永井荷風について、その代表作にして日本文学史上の最高傑作『濹東綺譚』がいかに凄い小説だったかを見ていきました。
今回はそんな永井荷風が37歳で老人宣言をしたという衝撃の事実を掘り下げていきます。
ちなみに過去のメンバーシップ記事が溜まってきたので、各月の買い切りプランも始めてみることにしました。メンバーシップならすべての記事を読むことができるけれど、お試しとして、興味のある月だけでも是非是非。
例えば、フランツ・カフカを考察したりしています。よかったらぜひ!
☆日記魔だった永井荷風
前回、確認した通り、永井荷風は玉の井の写真を撮っていました。1936年にカメラを購入し、東京の街を歩いては撮影しまくっていたそうです。これは『断腸亭日乗』という長大な日記から確認でき、ローライ・スタンダードの最新機種だったこともわかっています。
この日記は1917年(大正6年)9月16日から死の前日の1959年(昭和34年)4月29日まで書き続けました。戦前から戦後にかけての日本を知る上で、民間人のリアルが残された重要な資料となっています。
漢文調で綴られ、その日の天候、家事、来客、出版の商談、外出、食事、交友、散策先の状況、巷の風景、風俗、世相、噂、物価、体制批判、読書、読後感などを記し、時に筆書きのスケッチ・地図も添えられています。関係を持った女性16名の思い出も赤裸々に記されているから驚きです。
なお、永井荷風は生涯で2度の結婚と離婚を経験し、36歳で独身となった1915年からはプロの女性としか関係を持たないとして、79歳で孤独死するまでその考えを貫きました。そして、一人で生きた記録が『断腸亭日乗』という日記に結実していくのです。
最初の結婚は1912年、商家の娘・斉藤ヨネが相手だった。これは荷風の父親・永井久一郎がまとめたもの。官僚から日本郵船へ西園寺公望や伊藤博文の口利きで天下りするような政財界の大物だった。荷風が海外留学できたのは父親のコネなので、33歳でも荷風はその意向に逆らうことができなかったのです。
ところが、翌年、1913年に父親が亡くなると荷風はすぐにヨネと離婚。34歳で以下のような文章を記しています。
独酌、独吟、独棲、何でも世は源水が独楽の如く独りで勝手にくるくる廻るにかぎり申候。(中略)寧ろ独身にて、子供につぎ込むべき学資養育費貯蓄致し置かば、老後の一身は養育院に行かずとも済み可申候。成長したる子供が老父の心を慰むるなぞ申事は昔の事にて候。今の世は親とても金あればこそ親たるべき尊敬も払はるるなれ、金なければ、子孫も家柄もやくには立ち不申候。どうせ年老ゆれば子供があつてもなくても心細さは一ツ故、先づ煩ひなき身こそ何よりの安心なるべく候。
さらに翌年、1914年に新橋の芸妓・八重次と結婚。二人は1910年から付き合っていたけれど、荷風の浮気癖が原因で結婚生活は一年足らずで破綻しました。八重次はその後、藤蔭静樹として日本舞踊家として大成。紫綬褒章などの勲章を受けています。荷風には未練があり、何度も復縁し、彼女が付き合う男を絶えず気にして日記にもつけていました。
ところで、荷風は海外留学から帰国後、1910年から森鴎外の推薦で慶應大学文学部で主任教授を務めました。ハイカラーにボヘミアンネクタイというオシャレな服装で教壇に立ち、講義も雑談も面白いと人気となります。さらに文芸誌「三田文学」を創刊したり、谷崎潤一郎などの若手を発掘したり、華やかに活躍しました。だからこそ、芸妓にモテたわけで、八重次とも深い関係になったのです。
しかし、二度目の離婚の翌年、1916年には『三田文学』の運営をめぐって大学と対立。大学としては坪内逍遥が創刊した文芸誌「早稲田文学」とバチバチに争い、野球の早慶戦みたく盛り上げたいと考えていたのですが、荷風はそれが嫌で大学教授職を辞めてしまいました。
☆37歳の老人宣言
離婚と離職であらゆるしがらみがなくなった荷風は1917年、日記『断腸亭日乗』を書き始めたのは象徴的です。とそんな風に言うと、独身貴族な自由を体現しているかのようだけれど、永井荷風研究の大家として知られる川本三郎はそうじゃない視点でこの日記を読み解き、1996年に刊行された『荷風と東京 『断腸亭日乗』私注』で新しい荷風像を示しました。これは現在につながる永井荷風の「憧れの老人」イメージを形作りました。
「断腸亭日乗」を読んでいてまず驚くことは、荷風が自分を「老人」と見ていることである。前述したように、「断腸亭日乗」起筆のとき荷風は三十七歳。いくら平均寿命がいまより短かかった時代とはいえ、決して老け込む年齢ではない。にもかかわらず、荷風は自分のことを隠居した老人のように見ている。たとえば、日記が書き始められた大正六年九月二十日には、「されど予は一たび先考の旧邸をわが終焉の処にせむと思定めてよりは、また他に移居する心なく、来青閣に隠れ住みて先考遺愛の書画を友として、余生を送らむことを冀ふのみ。」とある。「先考」、つまり、父親が建てた、「来青閣」と呼ばれた大久保余丁町の家で、静かに「余生」を送りたいといっている。三十七歳の人間が「余生」という言葉を使う。いくら現代より寿命が短かい時代とはいえ普通ではない。ちなみに父親久一郎が大正二年に脳溢血で死去したときの年齢は数えで六十二歳である。それと比べても、まだ二十年も先がある。「余生」というのは早い。
実際、荷風は若い頃から身体が弱く、15歳で結核になり入院したこともありました。ちなみにこのとき看護婦・お蓮に初恋し、蓮を意味する「荷」の字から「荷風」というペンネームを着想しています。初期の荷風作品は女性主人公が多く、自らを女性に見立てるつもりで荷風と名乗ったのではないか? という近代文学研究者・持田叙子は考察しています。
成人してからも腸の具合が悪く、病院に通い、医者から長生きできそうにないと冗談まじりに言われていました。そこから日記も『断腸亭日乗』と名付けたわけなのですが、川本三郎はそれだけで37歳が「余生」という言葉を使うのはおかしいと指摘します。
だが、荷風が「余生」と書き、「病衰の老人」と書いたのはそれだけが理由だったのだろうか。現実に病弱だったからという理由だけで荷風は自分を「老人」と呼んだのだろうか。どうもそれだけには思えない。荷風は好んで自らを「老人」に擬したのではないか。「老人」に見立てたのではないか。
荷風のなかには時代の生ま生ましい現実と直接関わりを持ちたくないという消極的な反俗精神があった。さらに俗世から離れた草庵で静かな生活をしたいという文人趣味、隠棲趣味があった。「若さ」よりもむしろ「老い」のなかに、美しさを見たいという老人趣味があった。
そうした傾向が重なり合って荷風は自らを好んで「老人」に見立てていったのではないか。病弱であったことは事実としても、それを普通以上に意識することで、だから現実とはなるべく関わりたくないのだという、逃避の口実にしたのではないか。
この時期、荷風は日記だけでなく、エッセイとして発表した『矢立てのちび筆』(1916)の中でも37歳で老人宣言を行なっています。それは世の中のメインストリームから離れる決意表明にもなっていました。
我は今、わが体質とわが境遇とわが感情とに最も親密なるべき芸術を求めんとしつつあり。現代日本の政治並びに社会一般の事象を度外視したる世界に遊ばん事を欲せり。社会の表面に活動せざる無業の人、または公人としての義務を終へて隠退せる老人等の生活に興味を移さんとす。墻壁(しょうへき)によりて車馬往来の街路と隔離したる庭園の花鳥を見て憂苦の情を忘れんとす。人生は常に二面を有すること天に日月あり時に昼夜あるが如し。活動と進歩の外に静安と休息もまた人生の一面ならずや。われは主張の芸術を捨てて趣味の芸術に赴かんとす。われは現時文壇の趨勢を顧慮せず、国の東西を問はず時の古今を論ぜず唯最もわれに近きものを求めてここに安ぜんと欲するものなり。伊太利亜未来派の詩人マリネッチが著述は両三年前われも既にその声名を伝聞きて一読したる事ありき。然れどもその説く所の人生驀進の意気余りに豪壮に過ぐるを以てわれは忽ちこれを捨てて顧みざりき。われは戦場に功名の死をなす勇者の覚悟よりも、家に残りて孤児を養育する老母と淋しき暖炉の火を焚く老爺の心をば、更に哀れと思へばなり。世を罵りて憤死するものよりも、心ならず世に従ひ行くものの胸中に一層の同情なくんばあらず。
つまり、荷風は自分を老人に見立てることですべては「老人の戯言」だから許してね、と保険をかけるようになったのです。しかも、ただの老人ではなく、結婚もしていなければ、子どももいない、芸者遊びが大好きなエロジジイというポジションを意識的に取りにいきました。
☆エロジジイ戦法
この自己卑下や自虐で批判を回避しようとするエロジジイ戦法について、持田叙子は『荷風へ、ようこそ』の中で分析。荷風のエッセイ『桑中喜語』(1924) を例に、関東大震災における自警団による韓国人襲撃を批判する際、本題を病弱ネタと下ネタでサンドイッチする荷風のテクニックを紹介しています。同時に、これが女性読者を減らした要因とコメントしていることは慧眼です。
ここから先は

この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?
