頻出谷戸地名その②~宮ヶ谷戸と寺ヶ谷戸~


谷戸地名の資料性

自転車で各地の谷戸を巡っていると地元の方から色々な話を聞きます。
「この村は千三百年前からあって…」的な話はもちろん大変貴重なのですが古文書として残っている事は少数で完全に信用できるとは断言できない部分もあります。
まあ仮に古い文書(もんじょ)があったとしてもそこらの調査は専門の研究者の方に任せるとして、こちらはこちらの観点で谷戸を見て回るだけです。
ただ地名単体でもそれなりに時代考証が可能な場合があります。
各地に残された頻出地名からそのあたりを少し紐解いてみましょう。
今回のテーマは「宮ヶ谷戸」そして「寺ヶ谷戸」です。

宮ヶ谷戸と寺ヶ谷戸

宮ヶ谷戸と書いていますが実際にはもっとたくさんの表記があります。
宮谷・宮谷戸・宮ケ谷戸・宮ヶ谷戸などですね。
後半の二つは「ケ」の字の大きさが異なります。
これがそのまま「谷戸」が「谷津」に変わるパターンがあって、また「谷」の一文字で「ヤ」「ヤト」「ヤツ」と読むパターンがあります。
結構バリエーション豊富ですね。
でこの「宮」が「寺」に変わったものが寺ヶ谷戸です。
寺ヶ谷戸は字の如く谷戸の内部にお寺があって、宮ヶ谷戸の場合はお宮…つまり神社がある事がほとんどです(たまに移築されていることがあります)。
寺があればお寺が、お宮があればお宮がそれぞれ地元で大事にされており、格別どちらの方が上、ということはなさそうです。
その上でこれまで私が各地で回って来た宮ヶ谷戸、寺ヶ谷戸の数を見てみました。

宮ヶ谷戸:32か所
寺ヶ谷戸:17か所

このように宮ヶ谷戸の方が倍近く多いんですね。
実際には該当する谷戸地名は各地にもっと多くあるはずで、あくまで私が回った範囲のみの数ですが、私が恣意的に回る場所を偏らせていない以上この比率はある程度信用できると思われます。
ではこの数の差は一体何を意味しているのでしょう。

寺ヶ谷戸の時代性

宮ヶ谷戸と寺ヶ谷戸の最大の相違はその成立年代にあります。
宮ヶ谷戸は日本の神を祀る御屋(みや)から来ているとされ、建造物としての神社はともかく、神を祀る施設自体は古代からあったと思われます。
一方で寺ヶ谷戸はお寺がないと寺ヶ谷戸を名乗れません。
そしてお寺は仏教が伝来しないと日本に存在しません。
そう、宮ヶ谷戸と寺ヶ谷戸はその成立年代に明確な違いあるのです。
乱暴な定義で宮ヶ谷戸と寺ヶ谷戸が同程度の比率で発生すると仮定した場合、

1.宮ヶ谷戸の方が数が多いことから、宮ヶ谷戸は6世紀半ば(仏教伝来時期)より古くから生まれていた。
2.上記1からそれ以外の谷戸地名も6世紀半ば以前から発生していたものが多いと推測される。

ことがわかります。
谷戸地名の最も古い資料根拠が8世紀に編纂された常陸国風土記ですから、推定とはいえそれより古い年代が提示されたのはなかなかの収穫ですね。
そして次の事も言えると思います。

3.寺ヶ谷戸地名がそれなりの数存在している以上、6世紀半ば以降も谷戸開発はある程度持続的に行われていた。

地域ごとの格差

さて次は私が見て回った宮ヶ谷戸、寺ヶ谷戸の地域別の数を見てみましょう。

●宮ヶ谷戸 千葉5か所 埼玉7か所 群馬4か所 神奈川9か所 東京7か所
●寺ヶ谷戸 千葉6か所 埼玉2か所 群馬1か所 神奈川7か所 東京1か所

一部の結果がかなり特徴的ですね。
まずほとんどの地域で宮ヶ谷戸の方が寺ヶ谷戸より圧倒的に多いのですが、神奈川と千葉のみ寺ヶ谷戸の比率が非常に高いです。
千葉県に至っては関東で唯一寺ヶ谷戸の方が宮ヶ谷戸より多くなっています。
これは一体何を意味しているのでしょうか。
千葉と神奈川の検出数が多いことについては単純に神奈川の谷戸地名が非常に多いこと、千葉の場合関東小字地図を利用して以降の調査が混じっており調査精度が格段に上がっている事…つまり単純に調査した数が多かったからだと説明がつくのですが、寺ヶ谷戸の比率の高さについてはそれでは説明がつきません。
神奈川であればまだ鎌倉があるので寺が非常に多く、その影響で寺の名を冠した谷戸地名も増えたのでは…と推測できるのですが、千葉の方はどうなのでしょうか。

千葉の古代寺院

実は古代期に於いて千葉は寺院が非常に多かったと考えられます。

上記資料に7-9世紀頃の古刹が載っていますが、それを見ると

神奈川:9か所
栃木:9か所
埼玉:16か所
群馬:16か所
茨城:19か所
千葉:34か所

となっています。千葉だけ圧倒的に多いですね。
実は古代に於いて千葉の豪族は大和朝廷と関係が深く、また重要拠点として利用されていた歴史があります。

昔はどうなっていたか/約6千年前 | 霞ヶ浦河川事務所 | 国土交通省 関東地方整備局

昔はどうなっていたか/約1千年前 | 霞ヶ浦河川事務所 | 国土交通省 関東地方整備局

上記を見ればわかると思いますが当時関東の低地の殆どは海の底もしくは低湿地であり、特に神奈川から東京方面に北上する事は非常に困難でした。
古代に於いて関東以北に向かうには青梅方面を伝って山道を利用するか、もしくは船を用いて海岸沿いに北に向かうルートが利用されていたのです。
ただ当時の船は平底船であり、波の高い場所では転覆の恐れがあって使えません。
そこで東京湾(江戸湾)でも波が起きにくい凪いだエリア…つまり神奈川の横須賀から千葉の富津岬ラインより北のルートを利用して船で千葉に渡り、そこから千葉の陸地を北上、あるいは船で海岸沿い北上していたと考えられています。
当たり前ですが陸路より海路の方が船が使える分多くの輸送ができます。
つまり朝廷が東征に向かう際には必ず千葉を経由する必要があり、重要視されていた、というわけですね。
その影響か千葉には優れた鉄器や土器、古墳群などが多く残されており、古代期に於いて多くの寺院が建てられ、それが小さな谷戸(谷津)にまで及び、寺ヶ谷戸という谷戸地名が多く生まれた、と考えられます。

平野構造の違い

千葉県だけ寺ヶ谷戸の数が宮ヶ谷戸より多い、というのはそれだけ古代期に多く寺院が建てられたから、というのが一応の証左ではあります。
ただそれだけだと少しだけ説明が足りない気がします。
仮に千葉は古代期に於いて寺院建造が非常に多く、宮ヶ谷戸より寺ヶ谷戸が発生する比率の方が高かった、と仮定してもその上で寺ヶ谷戸の数の方が多いとすると以下のような可能性が出てくるからです。

4.千葉県に於いては、他地域よりも長く谷戸(谷津)開発が継続されていた。

以前こちら↓の「谷戸の衰退」の項で述べた通り谷戸は近世以降にその価値を減じ衰退してゆきます。
谷戸とは一体何なのか|Myah Nyah
それは新たな谷戸開発が減ってゆきやがて行われなくなったであろうことを示しています。
ですが千葉県の寺ヶ谷戸の数と比率はそれを否定しかねません。
どういった事情があったのでしょう。
上の霞ケ浦の約6千年前の地形図を見てください。
千葉県がやけに細いと思いませんか。
そう、千葉の海岸沿いの平野は古い時代には海の底だったのです。
もっと古く遡ると一時陸地面積が増えることもありますが、それより前は房総丘陵以外の千葉北部もだいだい海の底になります。
これは関東や東海の平野部の構造とはだいぶ異なります。
例えば大河川がある地域では古代に於いて幾度となく氾濫が繰り返され流路が変わり、周囲の地形を削りながら上流から運ばれた泥や砂の堆積されてゆきます。
こうして大河川の下流には左右には広大な平野が広がるようになります。
これを「氾濫平野」と呼びます。
特に関東などは鬼怒川、利根川、荒川など複数の河川がこの氾濫平野を形成し広大な関東平野の元となっています。
一方で千葉の平野部にはこうした構造がなく、つまり大河川がありません。
大河川がないということは治水技術の発達によって河川の近くに進出し、広範な耕地と豊かな水源が手に入れられないと言う事です。

千葉の谷津田の重要性

こちらを見てください。

今昔マップより
千葉県茂原付近の古地図
平野部に谷戸地名が大量にあることがわかる

こちらは千葉県九十九里浜の南部、茂原付近の海岸沿いの古地図です。
谷戸地名が大量にあることが見て取れます。
このあたりは以前時間切れで全ての谷戸地名を見て回れなかったため断言はできませんが、千葉の地形構造と等高図などからほぼほぼ谷地型(低湿地)と考えていいでしょう。
以前谷戸コラム↓にて「地名の意図」について述べた事がありますが、
谷戸の誤解その①~災害・住宅サイトの誤解~|Myah Nyah
古い地名と言うのは必要で重要だから付けられます。
谷地型の谷戸と言う事は湧水源のある湿地帯ですから水田なり畑地なりの耕地として有用であり、これだけ多くの谷戸地名が残されていると言う事はそれだけそうした湧水源が珍重されていたと言う事の証左になります。
ですが逆に言えばこの地域に於いてこうした谷戸地名が残されていない場所では、有効な水源が確保できていない、ということでもあります。
広い平野があるのに耕作ができない状態が長く続いていた、ということでしょうね。
となると独自の湧水源を持つ房総丘陵の開析谷に形成された棚田…現地の呼び方をすれば「谷津田」ですね、それらは他地域に比べ長い間貴重な耕地として利用され続けた事になります。
長い間谷戸(谷津)が開拓され続け、古代期に於いて他地域よりも寺が多く建てられて、結果寺ヶ谷戸が増えた。
そう考えると色々と納得できるところもあるのではないでしょうか。

終わりに

今回の結論としては以下になります。
1.宮ヶ谷戸の方が数が多いことから、宮ヶ谷戸は6世紀半ば(仏教伝来時期)より古くから生まれていた。
2.上記1からそれ以外の谷戸地名も6世紀半ば以前から発生していたものが多いと推測される。
3.寺ヶ谷戸地名がそれなりの数存在している以上、6世紀半ば以降も谷戸開発は継続的に行われていた。
4.千葉県に於いては、他地域よりも長く谷戸(谷津)開発が継続されていた。
なお千葉県の谷津田開発についてはもう一段階深掘りできるのですが、それはこちらにて。↓

谷戸の収斂進化~谷津沼と堰谷~|Myah Nyah

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