谷戸とは一体何なのか
ばらばらな答え
「ヤト」と聞いてすぐにピンと来る人はあまり多くないと思います。「渋谷とか日比谷とか『谷』って字を使って『ヤ』と読む地名のことですよ」と説明するとあー、とみんな納得してくれますが、じゃあそのヤトってなに? となるとぱっと説明できる人はだいぶ少ないのではないでしょうか。
私は谷戸に関するフィールドワークをしている関係上、地元の方にお話を伺う機会も多いのですが、東京や神奈川を調査中にこちらの目的を話すと、谷戸に対して興味深い反応が返ってくることがあります。
特に印象に残っているのがこちら。
「谷戸ってあれでしょ? 谷あいの沼地のことでしょ?」
「あーはいはい谷戸ね、あの山の引っ込んだところでしょ?」
「川のどん詰まりのことだよね?」
…言ってることが見事なまでにバラバラですよね。
ですがこれ、ある特定の条件の地形ですべて奇麗に説明がつくんです。
それが「開析谷を利用した棚田」です。
開析谷と棚田
山や丘陵のふもとにある急斜面、崖線、河岸段丘と言った高低差のある切り立った壁面あるいは斜面があるとします。
こうした場所を古語で「ハケ」や「ママ」と呼び、特に東京に多くこれらの地名が残されていますが、これらの壁面から水が湧き出すことがあります。
多くの場合地下水脈ですが、ハケ上(断崖の上の方)に樹林などがある場合、木の根が土中に貯めた水が染み出すことなどもあるようです。
これがハケ下(断崖の下の方)に湧いた場合そのまま飲料水などとして利用されますが、ハケ上の方に湧いた場合水の流れによって崖面が徐々に削られてゆきます。
そうした土壌の場合、削れた先もまた湧水源なわけで、崖面は奥へ奥へと掘削され続けます。これを谷頭浸食(こくとうしんしょく)と言います。
その結果として切り立った崖面に以下のような特徴を備えた地形が形成されます。
・上から見るとU字型(長いものでは地質により蛇のようにのたくった形状になることも)
・三方が斜面によって遮られ、一方向に大きく開けている
・最奥に湧水源がある(途中の壁面に複数の湧水源を持つことも)
・底面がゆるやかな斜面となっており谷底部が鋭角でなく平坦
・未開拓状態では谷底に水が溜まり沼地や湿地となっている

開拓されるとこうなる

未開拓状態だとこんな感じ
「山の引っ込んだところ」のニュアンスがおわかりいただけるだろうか
これが現地の方が言っていた「谷あいの沼地」「山の引っ込んだところ」ですね。
この谷底の平坦さは氷河期と間氷期の海水準面変動によって谷戸の内側に海水が入り込み、砂や泥が堆積したものだ…のような話もあります。
実際神奈川などではそうした谷戸も多いようです。
ただ全てではありません。
谷戸地名は榛名山や赤城山の中腹、さらに福島県の山中など明らかに海進が届いていないところにも多く見られるからです。
ともあれ谷底に溜まった水を外に掻き出すと後には大量の泥が残ります。この泥をすくって谷底の斜面に沿ってちょっと盛って、さらにその上の斜面にも盛って…場所によっては小さな石垣でそれを固定して…を繰り返してゆくと、簡単に階段状の地形が作れます。
これで棚田ができました。
谷頭部や壁面から湧き出した水は一つにまとめられ用水路として棚田に導水、その後谷戸の外側の川に合流します。言ってみれば上流端までが非常に短い人造の河川ができあがるわけです。
これが「川のどん詰まり」です。
谷戸の発展
なぜわざわざそんな狭いところに田んぼを作るのか疑問に思うかもしれません。
ですがそれは現代の感覚です。
水田を維持するには水管理が欠かせません。稲の育成段階によって適切な水量が異なるからです。
今は機械があるからどうにかなりますが、人力で平野に広がる水田の水を抜いたり足したりするのはかなり大変です。
一方で棚田の場合水は常にかけ流しです。重力によって水が棚田の上から下に流れているからですね。
なので流れる水を止める/止めない、というごく簡単な操作だけで簡単に水管理が可能になります。例えば各棚田に取水口を設けてそこの開け閉めするだけでもいいわけですから。
また単純に稲の育ちも良かったと思われます。これは地下水由来の棚田の水は土中から溶け出したミネラル分を豊富に含んでいるためで、いわば天然の肥料入りだったわけですね。
湧水が豊富な場所であれば谷戸の左右の崖(谷壁部)を登った先は森林であることが多かったはずで、そこから家を建てる建材も簡単に手に入ったでしょう。
また古代の場合他にもっと切実な問題があります。
洪水の懸念です。
大河川の下流部の左右に広がる平野を氾濫平野と呼びますが、これはその河川が過去に幾度も氾濫を繰り返し地面を削り土砂を堆積させた結果生じたものです。
現代では地図を見れば川の位置がはっきりとしていますが、これは治水技術が発達し堤防がしっかりと築かれているためで、古代においては大雨によって川が氾濫しその流路自体を変えてしまう事も珍しくありませんでした。
仮に川の近くに村や田んぼを作っても、翌日には川が遠くへ行ってしまうかもしれません。それだころか川が村を丸ごと飲み込んでしまうかもしれません。そんな危険場所に住みたくはないですよね。
その点谷戸であれば他より高い位置にある分被害に遭いにくいですし、増水してきてもすぐ横の斜面から高台に退避できます。高台には森が広がっているはずで、家が流されても復帰は容易いでしょう。
またいつ流路が変わってしまうかもわからない河川に比べ、湧水は常に安定した量が確保できるため水不足の恐れもありません。
こうした理由からこれらの地形は珍重され、「ヤト」という呼び名と共に大いに発展し、特に関東地方において大量に作られ、地名として残ることとなったわけです。
埼玉の熊谷、鳩ケ谷、千葉の谷津、神奈川の保土ヶ谷などがそうですし、東京都二十三区にも世田谷や渋谷といった地名が見られることからも、関東に多くの谷戸があったことがわかると思います。
谷戸の衰退
ただ近世以降になって来ると事情が変わってきます。
まず利根川東遷や荒川西遷などからもわかる治水技術の発展。これにより大河川の洪水被害が減り、河川の近くに利用可能な広大な沃野が出現しました。
さらに干鰯(ほしか)などの有機肥料の発達。これによって作物の生産量が大きく向上します。
これらの技術革新によって当時の日本においていわば大規模農業・大量生産が行われるようになると、谷戸の立場は大きく減退する事になります。
なぜなら谷戸は三方を壁に遮られているために拡張性がありません。
一方向だけは開けていますが谷戸の湧水は定量であり増やすことができません。そのため谷戸の外に無制限に水田を広げるだけの水量を確保できないのです(これについては例外がありますが、いずれ書きます)。
また谷戸は洪水などで土が変わることがないため地味が悪い場所もあり、上述の通り三方を高い壁に遮られているため日照時間が短く、それらが稲の育成や味に影響した事も考えられます。
こうしたデメリットは谷戸でのみ稲を作っているのであれば問題にならなかったでしょう。
比べる周囲の米も谷戸産だったわけですし、そもそも外に持ち出すほどに大量には生産できなかったでしょうから。
ですがよりおいしい米が、より大量に出回って来ると話は変わります。谷戸は農地としてのアドバンテージを失って徐々にその価値を下げてゆき、近代以降、特に戦後からは宅地造成などでどんどん潰されて、今ではヤトと聞いても誰もピンとこないほどにその意味も意義も忘れ去られてしまった、というわけです。
新たな疑問
…と、ここまでだったら何かいい感じにまとめられたんですが、実際にはそう単純な問題ではありませんでした。
今述べたのは「開析谷をベースにした谷戸および集落」の話です(便宜上これを私の記事では『谷戸型』の谷戸と呼びます)。
ヤト地名には「ヤト」「ヤツ」「ヤ」「ヤチ」などがありますが、このうち「ヤチ(谷地)」地名は主に東北や北陸に多く見られます。
そしてこの谷地は平坦地の低湿地を指す地名なのです(こちらを便宜上『谷地型』の谷戸と呼びます)。
谷戸地名なのに開析谷の棚田ではないんですね。
これは何も東北北陸だけの話ではありません。
関東各地にもこの『谷地型』の谷戸地名が各所にあるのです。
通常同系の地名は他地方に行っても同じような地形を指すことが多いです。
「落合」であれば川の合流地点ですし、「打越」であれば山越えをする場所です。
地域が変わって「同じ地形を別の呼び方をするようになる」事はあっても、「同じ地名が異なる地形を指すようになる」事は滅多にありません。
これは一体どういうことなのでしょう。
仮に指し示す地形が関東から東北で変わっていったのだとしたらそれはどの地点からなのでしょうか。
それぞれの地形の北限と南限はどこなのでしょう。
その中間点があるとしたらどこ?
そうした事は(少なくとも疑問に思った当時は)本にもネットにも出ていませんでした。
誰も調べていなかったからですね。
地図や資料で調べたところで現地の細かな起伏までは直接見ないとわかりません。
なら直に確認するしかないか…ということで今に至っているわけです。
