谷戸の誤解その②~狭山丘陵の誤解~
狭山丘陵とは
狭山丘陵は東京と埼玉にまたがり6つの市町村に囲まれた大きな丘陵地帯です。
古くから里山として利用され、狭山湖と多摩湖が人造湖として建設された後は貴重な水源となり、その後開発などが続けられたものの自然豊かな多くの景観を残しており、環境省が「生物多様性保全上重要な里地里山」としてしている重要里地里山にも選ばれています。

航空写真で見るとこうなります。
丘陵全体の外周部に多くのひだひだが見えますね。
これ全部開析谷です。
そう、狭山丘陵は大量の谷戸地形が残された場所でもあるのです。
感じた違和感
そんなわけで私も十年ほど前に狭山丘陵の谷戸を見に行きました。
もっとも当時の私は谷戸を見始めたばかりの素人も素人で(それは今もそうなのですが)古地図から周囲の谷戸地名を数件探し出し見物しに行ったところ現地で配布されていた狭山丘陵の自然を紹介するパンフレットをいただき、そこに大量の谷戸地名が記載されている事に驚いて喜び勇んであちこち見て回った…のような場当たり的な調査だったのですが。
当時のパンフレットは残念ながらちょっと見つかりませんでしたが、似たような地図が公式HPで閲覧できます。↓

10年前にもらったものに近い
最新版では「入谷戸」表記が「入」になっているようだ

公式HPでダウンロード可能
こちらは最新版でも「入谷戸」の表記が見える
そのパンフレットを見た時、私は妙な違和感を覚えました。
当時私はまだ谷戸地名やその関連地名を見始めたばかりでそのあたりを上手く言語化できませんでしたが、今ならすぐにわかります。
違和感の元は「入谷戸」という名称です。
「入谷(いりや)」という地名は存在しますし、各地にそこそこ多く残っています。
一方で「入谷戸」「入谷津」という地名は比較的珍しく、あまり見かけません。
画像のような「宮野入谷戸」「神明入谷戸」「三本入谷戸」「エヶ入谷戸」のような「冠詞+入谷戸」のようなパターンはさらに少なく、皆無と言っていいレベルです。
それがこんなに大量に存在することに違和感を覚えたわけです。
違和感の正体
とはいえ地名は地域ごとの特徴というものがあります。
例えばカイト地名は貝戸、開戸、海道など多くのバリエーションがありますが同一地域内のカイト地名はだいたい同じ文字を使用するケースが多いです。
同様に狭山丘陵にも「入谷戸密集地帯」のような独特の特徴があるのでは…と思って現地の地名をあちこち見て回り、看板を調べ、地元の方にお話を伺いました。
結論としては「『宮野入谷戸』という地名は存在しない」でした。
現地の立看板にもそうした記載はなく、地元の方も昔からそのような言い回しはしたことも聞いたこともない、と断言していました。
(※2026/7/12追記:再調査を行ったところ、現地の看板などは刷新されており、一部「三本入谷戸」「宮野入谷戸」の表記が見られました。)

小字に『~谷戸』表記がないことがわかる
昔と違って今はすぐに小字を確認できるようになった
ではなぜパンフレットにはそのような地名が載っているのでしょう。
地元に方にさらに詳しくお話を伺うと次のような答えが返ってきました。
「お偉い学者先生がそうした方がいいって言ったらしくてねえ」
…そこから推測される流れはこうです。
パンフレットは宣伝のために作成されるもの。
なんの宣伝かと言えば当然狭山丘陵の魅力を伝えるためのものです。
狭山丘陵の魅力と言えば自然豊かで多くの里山を擁し美しい棚田などが堪能できること。
ですが現地に残っている里山の中には谷戸地名を冠していない場所も多く、また外から訪れる方の中には「里山≒谷戸」のようなイメージを持っている方も少なくありません。
せっかく美しい里山が揃っているのに谷戸地名がついていないだけで見落とされ立ち寄ってもらえないのはもったいない…ならわかりやすく地名に「~谷戸」を付けてみてはどうだろうか…
のようなプロセスを経てパンフレットに「~入谷戸」のような地名が記載されたのではないでしょうか(違っていたら申し訳ありません)。
よって
「宮野入」「神明入」「三本入」「エヶ入」などが『地名』。
その後に付与された「~谷戸」が『概念』。
つまり「宮野入谷戸」とは地名と概念を合成させた非実在地名ではないか、と考えられます。
離れた共通文化圏
とはいえ地名というのは変化するものです。
それこそ私自身谷戸地名は消えてゆくもの、と別項でお話しました。↓
それを考えれば「今は『宮野入』かもしれないが過去には『宮野入谷戸』だった時代もあるのでは…」のように考える事も可能です。
が、私はその可能性は低いと考えています。
過去に渡っても『宮野入』が『宮野入谷戸』だった時期はない、と思われる根拠があるからです。
ひとつは先程述べた通り「冠詞+入谷戸」という地名を関東全土でほぼ見かけないこと。
もう一つはあきる野市との関連性です。
こちら↑にて述べたようにあきる野市には「イリ≒ヤト」という文化圏があります。
ではここで私がこれまで見て回ったイリ地名とそれが指す地形をざっくりまとめて地図に落とし込んだものを見てみましょう。

赤枠がイリ地名≒「開析谷+棚田」のような地形で用いられることが多い地域
黄枠がイリ地名≒「何かの入口」の意味で用いられることが多い地域
青枠がイリ地名自体がほぼ存在しない地域
赤枠の左側があきる野市、右の赤枠が狭山丘陵。
黄枠はそれぞれ北が青梅市、南が八王子市ですね。
黄枠の地域ではイリ地名がヤトを指すケースもありますがそうでないことが多い地域。一方で赤枠はイリ地名が開析谷+棚田(もしくは地形的にかつてそうであったろう場所)を示しており、つまりほぼ谷戸と同義である地域です。
赤枠の両者はかなりの距離がありますが、私はこれが同一の「イリ≒ヤト文化圏」である…少なくとも片方が一方の地名の成立に影響を与えた関係である、と考えています。
谷戸地名空白地帯
あきる野市と狭山丘陵の間にある青枠の部分はイリ地名がほぼ存在せず、結果両者にはかなりの距離の開きがあります。
これほど離れ分断されているのなら無関係なのでは…と思うかもしれませんが、私はそうではないと考えています。
両者の中間地帯である青枠部分にはそもそも谷戸が栄えていた時代には生活圏がなく、そのまま素通りされて赤枠部分同士の交流や開拓が行われていたのではないか、と睨んでいるためです。
青枠の部分は現在で言うと羽村市・福生市あたりですが、この地域は多摩川北に広がる比較的平坦な台地部です。イリ地名は地勢や高さの異なる場所を繋ぐ入口的な場所に付く事の多いため、平坦地であるこのあたりではほとんど見かけません。
高度差が少ないという事は山岳や丘陵などもない、ということで、この地域の台地部にはイリ地名だけでなくヤト地名やクボ地名も見かけません。
これら『集落性のある地名』がないということは古代に於ける(農耕的な意味での)生活適地ではなかった、ということになります。
平坦地が広がるこの地域は一見すると宅地や耕作地に向いた立地に見えますが、それは現代人の感覚です。
台地の上という事は用水路で導水するか井戸を掘らない限り生活に必須である水が手に入らない、ということだからです。
実際このあたりでは縄文時代の遺跡が出土していますがいずれも多摩川沿い。その後の弥生時代の間は生活跡などが発見されず、古墳時代になってやっと羽村の根搦前(ねがらみまえ)遺跡が出てきますがこれも多摩川沿いです。
この地域の多摩川は河岸段丘により台地部とはかなりの高低差があり、また川沿いに開析谷がさほど見られません。
狩猟採集が基本の縄文時代であれば生活の基盤を台地の上に据え、生活用水が必要なら崖下に降り河岸段丘の段丘崖から湧き出す水(「ハケ下の湧水」と呼ばれるもの)や多摩川の水を利用すれば済む話ですが、農耕が主体の弥生時代には台地の上まで水を運ぶのは大変非効率です。かといって段丘の下では洪水の危険があるため生活基盤にできません。川から離れた内陸ならなおのことです。
羽村で井戸と言えばまいまいず井戸が有名ですが、これは成立が平安~鎌倉頃と言われているのでだいぶ後の時代、そしてこれも比較的多摩川の近くですね。
つまり古代期に於いて多摩川から離れた内陸部の広い台地に生活基盤は形成し得ないのです。
では古い時代の生活適地は、というと上で述べた集落性のある地名を探すのが手っ取り早いです。
古いと言っても谷戸の生活適性は棚田と湧水を利用した水田耕作にあるわけで、狩猟採集が主体だった時代よりもうちょっと後、農耕文化が根付いたあたり以降の話ですが、ともあれそうした地名はこのこの地域にはほぼ見かけません。
これは縄文期の遺跡は見つかっても弥生時代の遺跡が見つかっていない羽村市・福生市近辺の事情とも一致しますね。
独立丘の谷戸の連鎖先
これらを踏まえた上で本項の一番上の狭山丘陵の画像を見てみましょう。
丘陵の周囲を開析谷に覆われたとても綺麗な丘陵ですが、他の丘陵地帯と繋がっていないことがわかります。
いわゆる『独立丘』とか『孤立丘』と呼ばれる地形ですね。
そして狭山丘陵には多くの開析谷があります。
相模湖・多摩湖に沈んだ丘陵の内側にも多くの谷戸地名・入地名が確認されています。

狭山丘陵内部
湖に沈んだ丘陵内部にも多くの谷戸地名が見える
また入地名も多く確認できる
谷戸が開拓されるとその『集落性』で発展してゆきますが、やがて三方を壁に囲まれたその『境界性』により養える人口が限界に達し、増えた人口が周囲の開析谷に散ってゆき次々と谷戸が増えてゆく…
以前こうした谷戸の『連鎖性』により次々と谷戸地名が増えてゆく、という話をしました。↓
ただ狭山丘陵は独立丘です。開拓する開析谷には限りがあります。もし丘陵の内側まで開拓可能な開析谷が全て開拓され切ってしまったらどうなるのでしょうか。
増え過ぎた人々は、狭山丘陵を出て遠方の開拓地を求め旅立つより他ありません。
『境界性』のある谷戸は飽和した人口を維持しきれないからです。
ならその開拓地はどうやって見つければいいのでしょう。
私は古代人が狭山丘陵の上に登り、周囲の丘陵地帯を探してそちらに向かった、と考えています。
これには理由があります。
以前谷戸には『川谷戸』と『丘谷戸』があると話しました。↓
狭山丘陵は武蔵野台地の上にあるので近辺に大きな河川がなく、したがって河岸段丘などに形成される『川谷戸』が近くにありません。彼らにとって生活拠点である谷戸は台地と丘陵の間に形成される『丘谷戸』のみなのです。
彼ら自身も狭山丘陵に於いてこの丘谷戸を利用して暮らしているわけで、となるとその成功体験から「どこかの丘のふもとに行けば開拓可能な場所(開析谷)があるはず」と考えるのが自然ではないでしょうか。
その結果狭山丘陵の西側、多摩川の向こうにそびえる丘陵地帯、すなわち草花丘陵(青梅市とあきる野市の間の丘陵)や秋川丘陵(あきる野市と八王子市の間の丘陵)あたりに目星をつけて狭山丘陵で抱えきれなくなった人たちが旅立っていき、羽村市・福生市あたりの当時の生活するのが困難だった地域を踏破して多摩川を越えそれらの地域に辿り着き、その過程であきる野市近辺でも開拓が行われ、元々イリ地名の谷戸に住んでいた人たちが新しい住処にイリ地名を付けた…
想像に過ぎませんが、そのように考えるのはさほどおかしいことではないように思えます。
それにたとえ上記の推測が全て的外れだったとしても、両者のイリ地名には開析谷+棚田もしくはその跡が確認されているのは現地確認の結果まず間違いありません。
つまり狭山丘陵に於いても『イリ≒ヤト』という図式が成り立つと考えて良さそうです。
実際狭山丘陵の地元の方に伺ってもそのような認識でした。
となると宮野入や神明入という地名はそもそも「入」が谷戸のニュアンスを持っていることになります。
となれば過去に渡って「~谷戸」という地名が付くはずがありません。なにせ最初から立派な谷戸地名なわけですから。
またその説で考えると「宮野入谷戸」などはニュアンス的に「宮野谷戸谷戸」になってしまうわけで、おそらく当時の私はそのあたりに違和感を感じていたのでしょうね。
非実在地名が地図に載る
とまあここまで話しておいてなんですが、この件について私はあまり深く気にしていませんでした。
そもそもこの地名を見て違和感を覚える人が私以外何人いるのか、という話ですし、正確な地名でなくて困るのも私くらいしかないのでは…なんて考えていたからです。
とはいえ少し気になることもあります。
こちらをご覧ください。

非実在地名が地図に載っている
GoogleMapに「宮野入谷戸」の表記があります。「神明入谷戸」も見えますね。
地図に載ってるんだからちゃんとした地名なのでは?ここの解説が的外れなのでは?と思われる方もいるかもしれませんが、違います。
GoogleMapは個人でピンを立て地名などを追記することができます。
「地図にない場所の追加」という機能ですね。
GoogleMapに於いては地図の利用者はまた情報の発信者にもなれる、ということです。
狭山丘陵はウォーキングによしトレッキングによしサイクリングによしの良スポットです。現地を歩いたり走ったりされた方が気に入って再利用することもままあるでしょう。
だから自分が気に入ったスポットを他の人にも紹介したい、地図にピンを立てて観光名所として追加しておこう、という方が出てもおかしくはありません。
この地名もおそらくそうして追加されたものでしょう。
そしてその時パンフレットに記載された「地名+概念」の非実在地名を本物の地名と認識してそのまま書き込んでしまったとしても、責められることではないと思います。
ただ…そうした事情を知らない方がGoogleMapを利用した時、そして画像のような検索結果た出た時、果たして何人の方がこれに違和感を抱き、疑問を抱けるでしょうか。
何も疑問を抱かずに、これを正しい地名だと誤解したまま覚えてしまう事はないでしょうか。
終わりに
パンフレットのイリ地名に概念としての「~谷戸」と付けたのは地元振興を考えた上での善意でしょう。
GoogleMapにスポットを追加された方も狭山丘陵を気に入った上での善意に違いありません。
その結果善意と善意によって、存在しない地名が今も世界に発信されています。
地名と言うのはそれ自体で貴重な文化であり歴史的資料でもあります。
なるべくなら本来の地名を尊重し、この地域のイリ地名がヤト地名を意味しているとどこかに明記するか、或いは宮野入(谷戸)のような表記にするか、などとした方が個人的にはすっきりする気がします。
まあ私が気にしすぎなだけかもしれませんが。
