「中田敦彦帰国」に日本人がザワつく理由。本当に叩かれているのは"帰国"じゃない。
中田敦彦がシンガポールから日本へ戻るというニュースを見ていて、妙に引っかかったことがある。
「別に帰ってくるだけなのに、なんでこんなに批判されるんだ?」
もちろん全員ではない。
応援している人もいる。
でも一定数、「都合がいい」「結局日本がいいんじゃん」「税金が安い時だけ海外に行って、戻ってくるのか」という反応があった。
その反応を見ていて思った。
日本という国は、人種や国籍よりも、「共同体に残り続けたかどうか」をものすごく重視する社会なのではないか。
海外に住んだから嫌われるわけではない。
日本を離れたこと自体に怒っている人も、実はそこまで多くない。
問題は、「自分たちが苦しい時に、一緒に苦しまなかった」という感覚なのだ。
日本ではこの数十年、税金は上がり続け、社会保険料も増え、実質賃金は伸び悩んでいる。
生活は苦しい。
物価は上がる。
それでも毎日会社へ行き、満員電車に乗り、社会保険料を払い続けてきた人がいる。
その横で、「海外の方が合理的だから」と日本を離れた人を見ると、感情として複雑になる。
これは理屈ではない。
感情だ。
「自分たちは逃げられなかった。」
だから「逃げられた人」が戻ってくると、どうしても引っかかる。
生活保護受給者としてこの空気を見ると、この構造は驚くほど似ている。
生活保護が叩かれる理由も、「税金がもったいない」だけでは説明できない。
本質はもっと感情的だ。
毎日苦しい仕事へ行き、高い税金を払い、精神を削って生活している人から見ると、「働かずに生活している人」が存在すること自体が、自分の苦しみを否定されたように感じる。
だからスマホを持っているだけで叩かれる。
外食しただけで叩かれる。
少し笑っているだけで叩かれる。
本当に問題なのは生活保護費の金額ではない。
「なぜ自分だけ苦しまなければならないのか。」
その感情だ。
今回の中田敦彦への反応も、根っこはかなり近いように見える。
海外へ行く自由はある。
帰国する自由もある。
それは当然だ。
しかし共同体の側から見ると、「一番しんどい時期だけ外にいて、戻ってきた」と映ってしまう人もいる。
事実がどうかではない。
そう見えてしまうことが重要なのだ。
日本人は、成功そのものを嫌う民族ではない。
スポーツ選手が海外へ挑戦すれば応援する。
研究者が海外で活躍しても称賛する。
世界で結果を出せば誇らしいと感じる。
では何が違うのか。
「共同体への義理」を感じられるかどうかだ。
苦しい時も日本と関わり続けた。
税金を払い続けた。
日本市場で戦い続けた。
そういう物語がある人には比較的寛容だ。
逆に、合理性だけで共同体から距離を置いたように見える人には、途端に厳しくなる。
良い悪いではない。
これが日本社会の空気なのだと思う。
そして、その空気を生み出している最大の原因は、「みんなに余裕がないこと」ではないか。
もし給料が十分高かったら。
税負担が今より軽かったら。
老後への不安が少なかったら。
ここまで他人に怒るだろうか。
「海外に住んでいたんだ、いいね。」
「帰ってきたんだ、おかえり。」
本来なら、それで終わる話だったかもしれない。
しかし現実は違う。
自分の生活が苦しい。
将来も不安。
税金は重い。
社会保険料も高い。
だから怒りの矛先は、目立つ誰かへ向かう。
生活保護受給者。
外国人。
芸能人。
インフルエンサー。
そして今回は、中田敦彦だった。
つまり、このニュースは中田敦彦個人の話ではない。
日本社会の「余裕のなさ」が映し出された鏡なのだ。
もちろん、海外移住には本人なりの事情や合理的な判断があっただろうし、それだけで人物を評価することはできない。
一方で、日本に残って税金や社会保険料を負担し続けた人たちが複雑な感情を抱くことも、人間として不自然ではない。
だからこそ、この騒動で問われるべきなのは「中田敦彦は悪いのか」という単純な話ではない。
もっと大きな問題だ。
なぜ日本では、誰かの選択を見るたびに、「裏切られた」と感じる人がこれほど多いのか。
その答えは、おそらく一つ。
社会全体に、他人の自由を祝福できるだけの余裕が残っていないからだ。
