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マスターベーしょん??

西暦20XX年、人類の股間は法によって凍結された。

ある高名な脳科学者が発表した一本の論文『自己愛性射精における社会的ドーパミンの不可逆的枯渇、及び国家生産性低下の数理学的証明』。要するに「男が一人でシコると国家が衰退する、悪である」という、ドストエフスキーの『地下室の手記』もびっくりの独善的な論理が、最新の脳スキャンデータによって「科学的」に証明されてしまったのだ。

即座に『自己慰撫禁止法』が可決された。全自宅に設置された高感度モーションセンサーと「精子特有の揮発性有機化合物(VOC)」を検知するブレスチェッカーが、男たちの自由を奪う。
全国の刑務所が行き場を失った高テストステロン男たちでパンパンに膨れ上がった。文字通り、男たちの精巣と同じように。今にも破裂しそうな圧力釜のように。壁を殴る音、意味のない咆哮、むせ返るような男臭。歴史の皮肉、かつて戦争をなくすために男らしさの去勢を求めた平和主義者たちは、今や狂暴化した「シコ禁野郎」たちの暴動に怯えていた。これぞウィリアム・バロウズが描いた、インターゾーンの制御不能な生体権力の悪夢である。


このディストピアの底辺、新宿の片隅に、法の目を盗んだ「聖域」があった。

見かけは100円カットのQBハウス。だがハサミを握るサナエは、元高級ソープの伝説的風俗嬢だ。彼女は男の髪を切りながら、絶妙な指先と話術だけで、法律に触れない「精神的発散」を客に施す。この闇の店で流通するのは、彼女が発行する独自の暗号資産「サナエトークン」のみ。

このトークンを大量に保有し、店を実質的に支配しているのがケンジだった。無職歴10年の元ホスト。彼は「瞑想オルガズムを極めた男」としてSNSで怪しげな情報商材を売り捌いていた。

「金を持ってることと、あなたも自由な人生を歩みませんか?みたいなコンテンツしかないやつは、最終的に高額商品を売るしかないのです。だから私は、この『宇宙直結型・非接触射精瞑想(150万サナエトークン)』を売る」

ケンジの背後には、武闘派の反社集団「東北連合」がついていた。彼らは違法TENGAの密輸から、サナエトークンのマネーロンダリングへとシノギを切り替えていた。悪名高い園子温の映画のような、血と暴力と猥雑な熱気がそこにはあった。

そんな東北連合の金を横領し、パチンコにぶっ込んで気ままに暮らす男がいた。東北連合のユダこと、ゴロウだ。同じく無職。彼は改造したテスラ車に乗り、日本中を旅する「バンライフ」を気取っていたが、その実態は、昼寝とソープとパチンコを無限に繰り返すだけの、チャールズ・ブコウスキーの小説から飛び出してきたようなデカダン。退廃者だった。

ゴロウの唯一のこだわりは抹茶。彼は重度の抹茶中毒であり、抹茶マニアだ。そこに目をつけたのが、謎の職業「マッチャー」を名乗る男、トシだ。トシは「抹茶好きの男女をマッチングさせるお茶会」を主催し、大儲けしていた。だが、そのお茶会で出されるお茶の中身は、南米の幻覚植物から抽出された「合法アヤワスカ幻覚茶」だった。トシのお手製幻覚茶を飲んだ男女は、トマス・ピンチョンの小説さながらの極彩色の幻覚の中で、精神的に融合し、混ざり合っていく。

そこに彩りを添えるのが、死刑囚の植松サトシと獄中結婚した精神障害者の天才絵描き、ユキだった。彼女はアヤワスカ茶をすすりながら、男たちの溜まりに溜まったテストステロンが、巨大な白い龍となって空へ昇っていく狂気の絵をキャンバスにぶちまけていた。


ある日、サナエの店に政府の取締官が突入してきた。東北連合の密輸ルートが割れたのだ。
「全員動くな! サナエトークンの運用、及びアヤワスカを用いた集団的精神自家発電の容疑で逮捕する!」

包囲されるテスラ車、逃げ惑うホストとヤクザ。ケンジは叫んだ。「今だ、ゴロウ! トシ! ユキの絵をNFT化してトークンを全突っ込みしろ! 宇宙のエネルギーを解放するんだ!」

トシが大量のアヤワスカ抹茶をバケツごと取締官たちにぶちまけた。サイケデリックな霧が立ち込め、警察官もヤクザも、敵味方の区別なく幻覚の渦に巻き込まれていく。

激しい混乱の中、限界まで抑圧されていた数万人、いや数百万人の「シコ禁野郎たち」の無意識的精神世界が、アヤワスカの幻覚とサナエトークンの熱狂によって完全に繋がり、そして、ついに臨界点を突破した。

牢屋に閉じ込められたシコ禁野郎たちが全身を脱力させ、寝そべって目を瞑り、恍惚の表情を浮かべた。そして股間から、物理的な「白い霧」を噴出した。それが雲となって日本全土、いや世界を覆い尽くした。世界は真っ白な、粘り気のある沈黙に包まれた。


……。
気がつくと、あたりは静寂に包まれていた。
すべての文明の音が消えていた。

ゴロウは、真っ白な世界の中心で目を覚ました。
横を見ると、サナエも、ケンジも、マッチャーのトシも、東北連合の組長も、警察官もみんな放心したような顔で、全裸でひっくり返っている。彼らの表情には、怒りも、欲望も、不安も、何もなかった。ただ、完全なる、圧倒的な「賢者タイム」だけがそこにあった。

誰も戦おうとしない。法律を憎みもしない。金儲けのことも、サナエトークンの暴落も、どうでもよくなっていた。テストステロンが完全に枯渇し、全人類の闘争心が消滅したのだ。

その時、空からヘリが降りてきた。中から現れたのは、例の「自家発電は悪である」と証明した、あの脳科学者だった。彼は白衣を脱ぎ捨て、神々しい微笑みを浮かべて言った。

「素晴らしい。私の論文通りだ。私がなぜ、あの行為を法律で『悪』として禁止したか、まだわからないのか? 私は本当にそれが悪だと思ったから禁止したのではない。逆だ。禁止され、極限まで溜め込まれ、割礼のごとき抑圧を経て一斉に解放されたエネルギーだけが、この地球から『戦争』と『資本主義の奴隷労働』を消し去ることができる。私は世界を救うために、あえて悪法を作らせ、人類をこの『至高の平穏(グランド・賢者タイム)』へ導いたのだよ」

世界は救われた。平和が訪れた。闘争のない、美しい、中性的なユートピアが。
だが、男たちは虚無の目で空を見ていた。あまりにも長い禁欲と、あまりにも巨大な解放の衝撃で、彼らの脳内から「その行為」の記憶自体が完全に消去されていたのだ。

あんなに狂おしく求めていた、あの行為の名前が、どうしても思い出せない。

ゴロウは、ただ一人、キチガイのような眼でキャンバスに怪しげな平仮名と記号を書き殴っている画家・ユキの元へ歩み寄った。彼女の絵の隅には、頼りない文字でこう書かれていた。

ゴロウはそれを声に出して読んだ。

「マスターベーしょん??」

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