水面の月
思い出の場所、思い出の品物、思い出の香り。
誰にだって、そういうものが何かひとつはあると思う。私には、そういうものがたくさんある。
もうどんな風景だったかはっきりとは思い出せない、最初で最後の家族旅行で行った軽井沢。雨の日の夜、地図も見ずただ歩いて辿り着いた裏路地の景色。小さい頃、何度も何度も汚れるまで読んだ大好きな絵本。いつかのクリスマスに母がくれた、小さなスノードーム。高校生の頃、窓際の席に座りながら大きく息を吸い込んだ時の、冷たくさっぱりとした冬の空気の香り。毎年秋になると必ず香る、涼やかで、切なくて、息が詰まるようなあの美しい匂い。
そうして私は、現実以外の場所でもたくさんの思い出を作った。色々な物語の中で私が感じた全てが、私の内面世界を美しく彩ってくれる。
雪見だいふくとピノ。スタバのダークモカチップフラペチーノ。逆パカされたガラケー。4人で一緒に歩いた砂浜。貴方と散歩した夜道。高層マンションの一室に足を踏み入れた時のホワイトムスクの香り。地下にある喫茶店。紙の伝票と色褪せたエプロン。貴女が見つめていた、満開になった桜の木。
全部、私の肉体が体験したことではない。あくまでも、活字や映像の中で、あるいは脳内の世界の中で、体験したことだった。それら全てが、何年もかけてゆっくりと、そして鮮明に、私の体に染み込んでいる。
現実と虚構での、思い出のもの、色や匂い、時間や季節。そういう全部と私の肉体とを合わせて、ようやく一つだった。
今日の講義で、宗教学の教授が言っていた。
「フランクルはね、"繊細で感受性の豊かな人、内面世界が豊かな人の方が、極限状態を生き延びられるんだ" というようなことを言ったんですよ」
「今でもそうでしょう。小説を沢山読む人、文学の世界にいる人なんかは、案外打たれ強いというか、簡単にはへこたれなかったりする。なぜかって、彼らには、逃げ込むことのできる世界があるから」
私は、ふたつの世界に存在している。今こうして息をしているこの世界と、そこから逃げ込んできた私を受け止める、淡くゆらめく虚構の世界と。そうしてそれぞれの世界で、それぞれの思い出を抱えて、その思い出たちに生かされている。その二種類の思い出は、どちらがいい悪い、という類のものではない。さながら、夜空に浮かぶ月とその月を水面に映した像のように、対を成している。
