【雑感】 哲学の流れ、分類を再構築する
ちょっとまだ「きちんと」整理できていないので今回の記事は雑感的な備忘録としてメモしておくだけ。
キリスト教というのは「ギリシャ哲学」がユダヤ教と合体したものだ、という切り口は、昨年の武庫川哲学の最新成果みたいなものだが、その話をおなじエホバの証人宗教2世の方としていて、ちょっとおもしろい指摘を頂いた。
その方いわく、
■(イデア論のような)「理想」の高さ、押し付けはプロテスタント圏に顕著なのではないか?
■ ドイツ観念論が関係しているかも
ということだった。
なるほど、それはめちゃくちゃ一理あるので、自分の脳内を整理しておきたくなったのだ。
ドイツと言えばルターである。ルターといえばプロテスタントである。
たしかに、おっしゃるとおり
「ユダヤ教」→ 「+ギリシャ哲学」=「キリスト教」
だとしてもそこから
「キリスト教」→ 「グノーシス主義」 → ✕
「キリスト教」→「カトリック」→「プロテスタント」
という進化と分岐が起きている。
ルターというのは16世紀の人で、宗教改革のけん引役だが、実はカトリックを「改革」しただけでなく、ギリシャ哲学時代のキリスト教へ「復古(ルネサンス)」しようとしたらしいとも言われている。
つまり「聖書へ帰れ」というのは、キモい言い方をすれば、「グノーシス時代へ戻ろう」というニュアンスを含むのかもしれない(苦笑)
1〜2世紀時代のキリスト教、ギリシャ哲学の原点へ戻ろうという運動でもあるからである。
さて、プロテスタント以降、「精緻なる神のみわざ」を解き明かそうぜ、みたいな雰囲気はより科学との親和性を強くしていった。
17世紀ドイツの哲学者「ライプニッツ」の発想には、「予定調和説」というのがあり、神が最良かつ最も調和のとれた世界を創る「最善世界説」とリンクした。
つまりは、「全知全能の神のイデア」の焼き直しでもある。
その後、ドイツ哲学(ドイツ観念論)はカントによって爆裂することになるのだが、カントは「人間の心の仕組みを通して、世界を認識する」ということを提唱した。
もう少しだけ詳しく言えば、カントというのは「人間の知識は対象に従うと考えられていたが、その逆で、対象が人間の認識に従うのだ」と言い出したのである。これを本人は「コペルニクス的転回」とネーミングした。
さて、このカントの考え方は、実はどこかで聞いたような話でもある。
それはフランス哲学の「デカルト」が唱えた
”われ思う、ゆえに我在り”
と非常に似ている。カントと比較すればデカルトのほうが少し早く登場しているのだが、このどちらもが、実は
「それまでの主体であった神、ではなく、人間や自分自身の側を主体に据えた」
という意味で、大きな変化を示すものだと言えるだろう。
この「人間側」主体の考え方を進めてゆくのが「ドイツ観念論」である。
カントからヘーゲルまでのドイツ哲学は、このように
「理性や観念(精神・自我)を世界の根本原理とみなし、それを徹底的に追求する」思想
になっているのだ。
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さて、こんな話をだらだら続けていると、これまでの西洋哲学概論の枠組みとほとんど一緒になってしまうので、それではいけない。
ここからは、「ムコガワ哲学」流に、このあたりの西洋哲学の流れをぶった切って組み替え直してみよう。
それは
■ ローマ帝国以来、ずーっと「カトリック神学」として哲学は存在し得た。
という前史から始まる。そこから、ざっくり言えば
■ カトリックを奉じて、そこから進歩したフランス哲学
■ プロテスタントを奉じて、そこから進歩したドイツ哲学(ドイツ観念論)
に分かれるのである。
もちろん、どちらも神が主体から「人間が主体」へと切り替わってゆくのだが、ルソーに代表されるように、フランス哲学は「より自然的で、より牧歌的で、より人間的」である(笑)
ドイツ哲学がシステマチックな論理体系をまとっているとすれば、フランス哲学は「人間讃歌」的なロマンチックさをまとっている、とも言えるかもしれない。
それでもフランス哲学は「実証的科学性」とつねに一緒にあったから、情緒的で終わってしまうことはなかった。それを言えばドイツ哲学のほうが、よっぽど「机上の空論」めいた部分がある。
このあたりはパスカルの「哲学者性・数学者性・物理学者性」を思えば、ピンときやすいかもしれない。
まあ、このあたりの詳細な傾向の違いは、ムコガワは哲学徒ではないため、理解が浅いのでこれからより学んでみたい部分でもある。
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さて、この記事のポイントは、フランス哲学の傾向やドイツ哲学の傾向に優劣をつけたいわけでなく
■ それぞれカトリック的、プロテスタント的だよ
という点に着目するのであった。つまり、神と人間の理想状態(イデア的完全社会)と実際の人間を対比したとき、カトリック的にそれを見るのか、プロテスタント的にそれを見るのかで差異はあるものの
”どちらも聖書史観から抜け出そうとして、釈迦の手のひらから抜け出せないように、それでも聖書史観に囚われながらの発展であった”
という部分を抑えておくのである。
この聖書史観に立脚した哲学論というのは、おそらく日本人にとっては、非常に理解しづらいポイントであると予想される。
そもそも聖書史観をよくわかっていないからである(爆)
はてさて、話を進めよう。そこから先の話だ。
ドイツ・フランスと来れば、着目していない国がもうひとつある。イギリスである。
じゃあ、イギリス哲学がどうなっているかというと、これがまた面白い。
■ イギリス哲学は、ロックが「人間は白紙で、経験によって得てゆく」
とか言い出す
のである。一般的にイギリス哲学は「実践的意識」にベースがあるとされる。そのため、功利主義や目的論に近づいてゆく。
ははあ、なるほど。それで辻褄が合ってきた。
ユーレカ!
と叫んでみるわけだ(笑)
の記事において、ヨーロッパ哲学が「理想」を語り、アメリカ哲学が「現実」を語ることについて力説したが、現代のアメリカ哲学が
プラグマティズム
に立脚していることをことを勘案すれば、答えはおのずと一つの道筋を示すことになるだろう。
それは、聖書史観の乗り越え方である。
アメリカの場合
■ 哲学体系としては「イギリス哲学の経験論」を持ち込んでいる。だって、元の国がイギリスだもの。
■ そして新天地を開拓したのは「英国国教会への改革を要求したピューリタン」である。
ということがすべてのベースなのだ。
つまり、「イギリス哲学」と「ドイツ哲学(プロテスタンティズム)」の合体で生じたのがアメリカという国なのである。
こうしたことを踏まえれば
■ アメリカがドチャクソ功利主義である
■ アメリカがドチャクソ資本主義である
■ アメリカがドチャクソ自国ファーストである
ということが「歴史的流れの結末」として見えてくるのだ。
なので、アメリカでは「理想主義的古典復興」など起こり得ないことがわかる。カトリック的にもならないからフランス哲学には傾かない。
ルソーのように「自然に帰りましょう」なんてことは、絶対言うわけがないのだ(笑)
その意味では、アメリカは
ドチャクソにカント哲学
でもある。
「人間の知識は対象に従うと考えられていたが、その逆で、対象が人間の認識に従うのだ」
というカントの考えを世界情勢に置き換えたとき
「アメリカは世界という存在に従うと考えられていたが、その逆で、世界がアメリカの認識に従うのだ」
と言ってるのである(爆)
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こうしてムコガワが、あまりにも非道な哲学概論をぶちかますのは、もちろん理由がある。
それが善か悪かはさておき、世界がそのように動いているということを理解し、こっちもそれを乗り越えないといけないからである。
そして、もっと言えば、日本はこうした西洋哲学にあまりに遅れを取っているから、それよりも切れ味の鋭い未来を切り開かねば、我が国の立国は非常にあやうい、と思っているのだ。
そして、言っちゃあ悪いが、このように整理すると、歴史の流れの上では、
「一番進んでいるのは、イギリス→アメリカ流の実利・実体験主義」
ということになるだろう。
なぜなら、それらが最も「聖書史観」から離れているからである。
聖書史観から離れれれば離れるほど、宇宙の自然状態に近いということになるのは、ムコガワ哲学・ムコガワ学派の理解者であれば、もはや言わずもがなの理屈であることは、ご承知のとおりである。
(おしまい)
<補足>
ちなみに、現代哲学思想の「最強にして最低」である完成形とされたマルクスは「ドイツ哲学」の系譜に属する。ドイツ人だもの。
マルクス主義が「完全なる理想社会としての共産社会」を夢想するとき、それがシステマチックで、「ダメダメな個人」とか「怠惰な個人」をまったく想定せず、歯車のようにきっちり噛み合う社会を目指している点で、なるほどドイツ哲学だわ、と納得せざるをえない。
ついでに言えば、その途中に「革命」を挟んでいるのは、ルターがカトリックに堂々と反旗を翻したという「宗教革命のプロセス」をも含んでいるとも言えるだろう。
資本主義を破壊しようとする暴力革命としての共産主義は、「巨大利権と化したカトリックをぶっこわーす!プロテスタント」の構図を平行移動させたものなのかもしれない。
それに対していかにもフランス的な「自由・平等・博愛」が「カトリックの神の下におけるふわっとした自由平等と隣人愛」をイメージすると、すごくしっくりくるのがわかるだろう。
これは視点を変えると「神の目線」なのだ。
そのように分類してゆくと、西洋哲学が、どのように「一致し」て、どのように「矛盾」を抱えてきたのかも、比較的きちんと整理できるだろう。
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