美味しいコーヒーの愉しみかた Acidity and Bitterness 第14話
朝になり、ナツさんはシャワーを浴びて出勤して行った。
美容師は比較的朝が遅い部類の職業だ。夜は早くないけれど。
我が家の場合は通勤時間もかからないし、9時半に下に降りていく。
若いスタッフたちの出勤時間は10時半だ。
ナツさんの着替えはちゃんと俺の部屋に置いてあって、母さんが洗濯もしてくれることになっていた。最初ナツさんはそれをえらく遠慮していたけど、そこまでさせてもらえなきゃ甘えられている意味がないと説得した。
恐らく人に甘えるのが苦手な人なんだと思う。
利津なら遠慮なく母さんに甘えて、自分ちかよとツッコミをいれたくなるような行動をしてくれるはずだ。
ナツさんには、この町で生活するならお互い甘え合って生きて行かないと余計に息が詰まるのだと教えたけれど。
「さて、俺もシャワーすっかなー」
部屋で伸びをしていると、携帯電話が鳴る。利津からのメッセージだった。
『祥太が仕事休みの日、午後行っていい? 例のメイクについてなんだけど』
ああ、そういえば利津にメイクのことを教えるんだった。
日葵さんに刺激されて髪型まで変えて、メイクまで覚えようとしている。
いい傾向だ。
『いいよ、火曜日うち来れば?』
利津とは会っていてもいなくても、なんとなく便りが無い時は元気なんだろうと思っていた。
髪を切った後に向こうから予定を入れられるのは初めてかもしれない。
*
火曜日は店が休みで、母さんはいつも予定を入れている。週1回しかない休みを有意義に使っているらしい。
専門学校時代に使ったメイク道具の一式は、ほぼ新品同様で押し入れの奥に眠っていた。それを出して来てリビングのテーブルに置いて利津を待つ。
一応、最近のメイクの傾向だとか流行りなんかは見てみたけど、色の使い方やラインの引き方以外はそんなに本質変わらないなという感想を持った。
家の呼び鈴が鳴り、玄関に向かう。
扉を開けると、利津が立っていた。
「よお、入れよ」
「お邪魔しまーす」
誰もいない家に利津を入れるのはもう何度目になるだろうか。
数日ぶりに会う利津は、カットを終えた頃から髪型に崩れもなく落ち着いていた。
リビングに通すと、冷たい麦茶を注いでテーブルに置いた。
「ありがと」
薄っすら汗をかいている利津に、やっぱりたった数分の距離でもこの季節は汗をかくんだなと思う。それより髪のUVケアはちゃんとしてるんだろうか。
利津は相変わらずデニムのストレートパンツにTシャツという、スタイルが相当よくなければ勝負ができない格好をしている。
まあつまり、お前はそうじゃないだろと言いたい。
定食屋の店頭に立っているから仕方ないのかもしれないけど、これじゃナツさんが女として意識しないのもよく分かる。
俺はそういうことを利津に教えなければならないわけだ。恐らく。
「わあ。これが専門学校時代に使ってたメイク道具?」
「授業とイベントで使った程度だよ。まあ、専門はファッションショーやるために奇抜な色も使うけど、普通のメイクじゃこんないろんな色使わないし」
専門学校時代に使ったメイクパレットには、色とりどりのフェイスパウダーが乗っている。原色から淡い色まで、絵具並みに揃っていた。
「で? どういうメイクを覚えたいんだ?」
確認するように尋ねると、「ええっと」と利津が固まった。
「一応アドバイスしとくと、利津の普段の格好からしてモードっぽいメイクは止めた方が良い」
「そんなの似合うと思ってない」
「あと、俺の個人的な好みはタヌキ顔だが、利津はそっち系でもない」
「……祥太の好みはどうでもいい」
キッチンから持って来た椅子に利津を座らせて、ダックカールと呼ばれる美容師がよく使うピンで利津の髪を上げ、顔をじっと見る。
肌の質は悪くないし、色ムラが無いのは若いからだろうか。
二重だけど瞼の上はちょっと重めで、鼻は特別高くない。
頬骨も張っていないから、顔に高低差がない。ハイライトは入れてノースシャドウが必須か。
いや、こいつそんなメイク自分でやれんのかな。
「ねえ、祥太にじっと見られてて思ったんだけど」
「?」
「あんたってホントに顔の造りに恵まれてんだね」
「惚れ惚れする?」
「別に」
知ってるけど。俺、自分の顔が整ってるのとか、よーく知ってんだけど。
利津は自分の顔のことをほとんど知らなそうだ。
「とりあえず、これからちょっとやってみる」
「はい」
あらかじめ買っておいたメイク落としのシートで顔をなぞる。指の腹で優しくメイクを落として行った俺に、利津は「メイク落としとかもできるんだ」と余計な感想を述べた。
「あーそうだな。化粧水と乳液は自分でやれ。そこの、母さんの使ってくれていいから」
「分かった」
利津は顔に化粧水と乳液を塗った。
その後、俺がコントロールカラーを入れる。利津の肌は黄色味が強いから紫色を入れてみた。
一気に肌に艶感が出たのを見て思う。やっぱりメイクはすごい。
ファンデーションでベースを整えると、ハイライトとシャドウとチークを軽く入れた。
「利津は、普段のメイクからチークはちゃんと入れた方がいいな」
「そっか、チーク省きがちだったけど、案外似合うんだ……」
「のっぺりしてっから、アクセントが要る」
アドバイスのつもりだったのに、利津のグーパンチが肩に入った。理不尽すぎる。
アイラインの自然な入れ方や、瞼の重さを軽く見せるために黄緑のシャドウの使い方だったりを教えると、その度に利津は声をあげて感心していた。
本当にメイク動画とか観てたんだよな?
こういう時、美容業界に居る身としては「折角メイクっていう技が利用できるんだから、使わない手はないだろ」という気持ちになる。
だから美容師の男って評判が悪いのかもしれない。それだけでもないだろうけど。
「すごーい。祥太ってメイクの才能もあったんだあ」
「ねえよ。その辺の女の人の方が才能あると思うぜ……日葵さんとか」
「日葵さんは素で美人でしょ」
まあ、良いけど……日葵さんのメイクスキルは相当高い。
利津は分かってないと思うけど、メイクをあまりしていないように見せるメイクが一番スキルを要するんだ。
あんなに素が美人に違いないと思わせるメイク、普通はできない。
きっとあの人はあの人なりの「すべき努力」ってやつの塊で出来ていて、腹の中にはプライドだったり自信だったりを抱えて生きている。
美容業界は、そういう人たちに技術を提供して成り立っている場所だ。
利津は、その世界の入口に片足を踏み入れようとしている。
「いい事教えてやろうか? 芸能人だってなあ、メイクしてなきゃ顔自体はのっぺりしてる人も多いんだよ」
「えー。うそおー」
「見せ方が上手くて……まあ、骨格が人並み外れてたりはするけど」
専門学生時代にファッションショーを何度もやった。
ヘアメイクを回す立場でモデルたちと向き合って来たけど、ノーメイクではっきりした顔をしている人など、ほぼ皆無だった。
でも、自分を魅せる技術がものすごく高くて、咄嗟にポーズを取ったり表情を作ったりして人が一枚絵のようになる。人間の生の美しさは、こういう演出力なんだなと感心した。
「ナツさんも理解してくれると思うけど、人間って案外『素』よりも『繕い方』が大事なんだと思う」
「私は、そういうのあんま好きじゃないなあ……」
利津は「素」のまま生きているようなところがあるから、理解はできないだろう。そんなところが利津のいい所だと思うのに、だから苦労しているんだとどうやったら傷付けずに教えてやれるのか。
利津はテーブルに置かれた鏡で自分の顔をずっと見ていた。
どこが普段と違うのか、覗き込むように確認している。
「例えばさ、欠点って誰にでもあるけど、それを直すのって無理だろ?」
「うーん。まあ、そうかも?」
「だったら、欠点に見えないようにすればいい。メイクはそういう使い方でいい」
俺がちゃんと丁寧に教えているのに、利津は分かったのか分からないかのような顔をする。
おい、そんなに難しいことは言ってないぞ。
「それってさ、自分のため? 誰かのため?」
「自分のためだろ」
「自分が欠点で落ち込まないようにするってこと?」
「落ち込むかどうかは、人によると思うけど」
利津が何に悩んでいるのか、すごく気になる。なんでそんなことを聞いたのか。
「私さ、どこが決定的な欠点なのか分かってないの。でも、美人じゃないしなあと思うし、もっと良くなるならどうなんだろって」
「ほー。なるほど。じゃあ、美人の定義って何だと思う?」
「目が大きくて、顔が小さくて、睫毛が長くて唇の形が綺麗で鼻が高い?」
「なるほど。じゃあ、そうなれば利津は美人になれるわけだ?」
利津が怪訝な顔をこっちに向けている。俺の言いたいことがよく分からないらしい。
「目を大きくしたいなら、アイテープとカラコンを入れればいい。顔を小さく見せるシェーディングもある。睫毛はつけまつげがあるし、唇の形はコンシーラーで消してからペンシルで書けばなんとでもなる。鼻もハイライトとシャドウの加減でそれっぽく見せられるよ」
「それをやれって?」
「それが利津のいう美人で、それになりたいならな」
「私じゃなくなれって言われてるみたい」
「なるほど、そこに引っかかるわけだな」
多分、こういう時に美容業界の人間の意見はあんまり参考にならない。
俺も周りも「綺麗になりたいとか、こうなりたいという希望を叶えたい」という気持ちで仕事をしている。
「なんか、整形しろって言われてるみたい」
「俺は美容業界の人間だからな。整形だって否定しないけど」
実際のところ、そうなんだ。綺麗になるために何を手段に選ぶかだと思っている。メイクとヘアは、身近で効果があってリスクのない手段だと思っているから。
「そんなもんなんだね」
「なにが」
「祥太にとっての『顔』って」
利津の言いたいことがわからない訳じゃないけど、ニュアンスはちょっと違うなと思った。結局のところは、本人が自信をもって生きられればいい。利津が今のままで良いというならそれを否定するつもりもない。
だけど、今のままじゃ日葵さんと自分を比べて辛くなるなら、やれることをやってみたらと思うだけだ。
「じゃあ逆に聞くけど、利津はどうなりたいんだよ?」
「どうって……」
「俺にメイクを聞きに来るぐらいには、変わりたいってことだろ?」
ダックカールで止めていた場所を手櫛でほぐしながら、俺は利津に尋ねる。利津の髪のコンディションは良かった。ケアをしっかりしているみたいだ。
「変わりたいけど、自分以外の誰かになりたいとかではない」
「ほお」
「自分がもっと良く見せられるなら、見せたい」
「じゃあこの程度で良いだろ」
利津の横顔を覗き込み、正面からじっと顔を見る。メイクを施す前よりもずっと美人度は上がった。
「……祥太はどう思う?」
「どうって……」
「その、かわいいとか、かわいくないとかさ……」
ああ、そういうことか。俺が褒めなかったから自信がないのか。
「そんなの、メイクした方がかわいいだろ」
「はいはい、祥太ってそういう男だよね」
そこで利津は怪訝な顔をする。
「祥太はさあ、女の子に気軽に『かわいい』を言うやつだったじゃん」
「……そうだったっけ?」
「小学校の頃には女子たちが騒いでたよ。あたしだって祥太にかわいいって言われたもんとか張り合ってた」
女子怖え……。記憶にないけど、髪型とか服装とか、良いなと思ったら普通に褒めていた気がする。そういうので張り合ったりするんだな。
「でも、私には言わなかったよね」
「そうだったっけ?」
「私、それでマウント取られたりしたんだよ。商店街で幼馴染っていうポジションに嫉妬してくる子が、私と祥太を男同士の友達と変わらないって」
「利津が男友達みたいに振舞って来たんじゃなかったっけ……?」
俺は利津を男として扱ったことはない。でも、利津の距離感は何となく女子特有のものと違っていた。だから楽だったというのもあるけど、それに今さらクレーム入れられても。
「私さ、あの頃は友達よりも家族が欲しくって……。祥太に家族を求めてたんだと思う」
「まあ、そうだよな」
小学校時代は兄弟がいる家庭が多くて、俺と利津は一人っ子同士だった。
そればかりか利津には母親もいなかったから、他の家庭に比べて極端に家族が少ない。
小学校時代、我が家には元美容師のよく喋るばーちゃんもいたし、美容室に来るお客さんもみんな優しかったし、一人っ子とはいえそれなりに家は賑やかだった。
「私が祥太を家族として失わずにいるためには、どうしたらいいんだろ」
「失わないだろ、生きてる限り」
俺と利津は、この商店街がある限りずっと一緒にいることができる。
「でも、お父さんがお店をやめるって決めたら、あの店を売ってここから引っ越すと思うよ」
「お店、やめるのか……?」
「私はね、それが最善だと思ってる」
いやなんで、と言いたかったけど理由なら分かる。
おじさんは……富雄さんは利津が心配で店を続けてた。利津さえ自立すれば、人に迷惑をかけてまで店を守る理由はない。
「もしかして……また就活すんの?」
「それが一番かなと思ってる」
「なんかやりたいことがあるのか?」
本当だったら、そうやって前を向いた利津を応援しなきゃいけない。
就活をするということは、外に向かって出て行こうと決めたんだ。
「『定食まなべ』を閉めるの、反対なんだけど……」
「大して食べに来ないくせに」
そりゃ、平日は昼休みの時間になったら「まなべ」は既にランチ営業が終わっているし、お店が終わって練習を見届け、閉店作業を終えてからだと閉まっている。
かといって火曜日の貴重な休みにこの商店街をうろつくほど、俺は閉じこもって生活するタイプでもなかった。
利津の顔をじっと見る。真剣な顔で鏡の中の自分を見ていた。
「おじさんは、辞めたがってんのか?」
「私次第なんじゃないかな。だけど、ずっと茜さんに甘え続けるわけにもいかないでしょ」
「ちゃんと話せよ、そういうことは」
こういう時、お互いに気を遣い合って勝手な行動を取るのはよくない。あの親子は、そういうところが不器用にできている。
おばさんが早くに亡くなっているから、その分だけお互いを思いやっているのは親子愛なんだと思うけど、家族っていうのはもっと図々しくていい。
「利津。よく聞けよ」
鏡の中の自分を見ている利津に、視線を向けさせた。
「俺は、利津を本当の家族と同じように思ってる」
「……うん」
「無理して社会復帰しようとしなくていいんだぞ?」
「でもそれじゃ、前に進めないでしょ」
利津の顔が一段階怖くなった気がする。声にも棘がある。
「この商店街の中ならなんとかなるだろ。そんな無理しなくても、一緒にバイト先探してやるし」
「そういう情、いまは嬉しくない」
利津はいつもより輪郭のはっきりした目をこっちに向けている。
情、と言われてそれの何が悪いんだよ、と正直思った。
「あんたっていつもそうだった。優しいのは分かるよ。でも、私のこと、ずっと『かわいそうな利津』だと思ってるでしょ」
「……え?」
「子どものころからずっとそうだった。母親がいなくてかわいそう、父親が忙しくてかわいそう、社会に馴染めなくてかわいそう、自立できなくてかわいそう、メイクすらマトモにできなくてかわいそう……」
頭が真っ白になる。俺は利津をかわいそうだとか、そんな感情で一緒にいたつもりはない。だけど、心のどこかでそういう気持ちがなかったかと言われれば、それは否定できなかった。
「祥太は家族みたいだけど、そういうのが無理」
利津は自分の荷物をまとめて俺の部屋を出た。そのあとすぐに、玄関の扉が開いた音と閉まった音が響く。
俺は、目の前に置かれたメイク道具をじっと見つめていた。
色とりどりのフェイスカラーは、全然使われた形跡がない。結局俺は、人生で3回しかメイクを人に施したことが無い。
利津のことは、誰よりもよく知っていると思っていた。
さっきまでは、一番近い存在だと疑っていなかったのに。
思い上がりだったのだと、初めて知った。
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