美味しいコーヒーの愉しみかた Acidity and Bitterness 第13話
第2章
『今日の夜、行っても良いですか?』
こんな色っぽいメッセージが頻繁に来るようになったのは、ここ数か月のことだ。
相手は同性だけど、異性から同じメッセージが来てもこんなに舞い上がったりしない。
『今日も残業ですか? うちは大丈夫なんで、あんま無理しないでください』
『要領が悪いらしくて、いつも甘えてスイマセン』
メッセージの相手、夏木ユウタロウーー通称ナツさんーーは、専門学生時代に衝撃を受けたショートムービーやポスタービジュアルを作った人で、要するに昔の自分に自慢したい憧れの存在だったのだと、出会った後に知った。
理美容の専門学校に通っている人間にはいくつか種類があって、俺のように実家を継ぐために通うやつ、有名店で技術を磨いて独立したいやつ、なんとなくこの業界に進みたいとやってきたやつなどがいる。
有名店で独立を狙うタイプは、クリエイティブ志向で自分の感性で成功したいという意識が強い。
そういう連中の間でも、ナツさんの仕事は話題になっていた。
映像のひとコマの、必ずどこかに引っかかる。
なんだろうと思うと引き込まれて、最後のオチで掴まれる。
ナツさんは、そんな映像を作る人だった。
だからこそ、この小さな稲荷神社通り商店街の片隅に小さなコーヒーショップで店長をしているのが不思議だ。
「母さん、今日もナツさん来るって」
「そう。ご飯だけ用意すればいい?」
「そうしてくれると助かる」
この店『美容室 前田』は閉店時間が過ぎている。営業が終わるとスタッフは練習をする時間だ。
今日は、まだ1年目の女の子のカラーをチェックする。
2年目の女の子が練習台になった。
美容師というのは、接客で相手の希望や満足するスタイルをうまく聞き出し、その想いを汲んだスタイルを作り出さなければ満足されない。
そういう意味では接客業ともいえるし、技術職ともいえる。
基本的に立ち仕事で体力的にもハードだと思うのに、日本で美容室は26万軒を超えて増え続けていたりする。
そんな時代に、俺は母親の美容室を継ぐために働いていた。
営業時間が終わった店で新人のチェックを終えて片づけをしていると、店の扉を開けて申し訳なさそうに1人の男性が入って来る。
「こんばんは。今度、カットモデルの実験台になるので今日も甘えさせてください……」
「お、ナツさん良いんですか? 髪色とか派手にしちゃっても」
「いや、髪色はちょっと……。できれば、カットで……」
困った顔を浮かべている腰の低いナツさんは、今年36歳になる。
芸大を入学する時に一浪したらしいので、同期入社の日葵さんは一つ下だと言っていた。
やっぱり芸大とか出てんだな、と雲の上の存在に思えてしまう。
11歳も上の人なのに、ナツさんは俺に対しても敬語だった。
それがよそよそしいわけではないので、そのままお互い敬語で話している。社会人同士ってこんな感じが普通なんだろうか。
店の片付けが終わり、従業員の女の子2人を見送って店を閉める。
母さんは先に上がっていたので、店を出てすぐ脇にある階段を上がって家に向かった。
「ナツさんて、また映像を撮ったりしないんですか?」
階段を上がって自分の家の玄関に辿り着く。家からは、もう食べ物の匂いがしていた。
「どうですかね。僕は映像の仕事も、映像自体も大好きですが……。もう、求められていないと思うので」
求められていない、という言葉を吐くナツさんに、俺はどうしてもやり切れない気持ちになる。
才能があるナツさんが、仕事を辞めた。
部下が自殺未遂を起こしてパワハラで会社を辞めることになったと聞いた時、俺は追い詰められる方が悪いじゃないかと頭ごなしに否定した。
そんな俺を、ナツさんは「受け手の感覚が全てなんです。そういうことを意識して人の心を動かすための仕事をしていたのに、身近にいる人の心が分からなかったなんてプロを名乗れない」と諭した。
家のリビングに入ると、テーブルに刺身が置かれている。
きっと昼間に母さんが近くの魚屋で買って来たものだろう。
昼休みは午後に1時間取ることになっているけど、母さんはその時間を利用して買い物をしていることも多い。
「そこのお魚屋さんも結構良いのよ」
母さんがそう言って笑いながら味噌汁をよそう。
うちの味噌汁は顆粒だしと市販の味噌を使って作る簡易的なもので、利津が作るような本格的な味噌汁ではない。
食卓に、母さんと俺、そしてナツさんが座る。
ご飯、味噌汁、刺身と海苔の佃煮だけのシンプルな夕食。
だけど、ナツさんも俺もこういうのが好きだった。
食事が終わると俺とナツさんで洗い物と片づけをして、2人で一緒に俺の部屋に行く。部屋にはベッドとソファベッドがあるので、ナツさんは毎回ソファベッドで寝た。
「……この間、お店に日葵さんが来たらしいですね」
「利津さんから聞きました?」
「はい」
お互い部屋着に着替えてベッドに横になりながら、携帯電話をいじっている。
部屋の灯りを明るくしたまま、一日の疲れを隠さずに過ごすのが俺とナツさんが一緒にいる時の当たり前になっていた。
「なんか俺、日葵さんがよく分からないんですけど」
「……日葵は、自分の感情に素直なだけです」
「だって、ナツさんが一番つらかった時にはナツさんを振って離れて行ったわけですよね??」
言ってしまって、しまったと慌てた。
ナツさんの気持ちがまだ日葵さんにあるかもしれないのに、こんな言い方をしては気分が悪いに違いない。
「誰だって、弱っている人間に巻き込まれるのは嫌なものです。赤の他人が弱っている人間にできることなんてないものですよ」
それはそうかもしれない。
気休めの言葉をかければ逆効果だろうし、安易に気分転換など勧められない。
俺にはそこまで追い詰められた友達がいないから、自分の側でナツさんのようなケースが起きたら実際は何もできないのかもしれない。
「だけど、仮にも彼女という立場であれば、他人とはいえ……」
過去の日葵さんを責めたって仕方がないけど、ナツさんが一番大変だった時にもっと傍にいてくれていれば、とやり切れない。
日葵さんはナツさんが店長として再出発してからまた現れて、結局あの人は「良い時のナツさん」しか見る気が無いのだろう。
いくら並外れた美人で外見が整っていようが、俺はそんな女にナツさんを渡したくはなかった。
「日葵の選択は間違っていなかったと思います。会社での立場と、僕との関係の両立は無理だったんじゃないかな」
ナツさんが納得しているのなら、俺が口を挟むところじゃない。
でも、やっぱりモヤモヤとはしてしまう。
一度振った男の前をまたうろつき出すなんて、趣味が良いとは言えない。
「そういえば。……利津さんのお父さん倒れたんですか?」
「ああ、利津が自分から言ったんですか」
「ええ、お店もこれまでのように営業するのは難しいと言ってました」
「おじさんが倒れて、定食屋の営業に悩んでいる最中なんです。おじさんはもうすぐ60歳だし、無理して定食屋を続ける必要もなくなっていて……。でも、今の利津はあの定食屋にしか居場所がない」
ナツさんは無言だった。ベッドで横になったこの場所から天井を見つめたナツさんの横顔が見えるけど、表情ひとつ動いていない。
「利津に定食屋が無くなった時のことを考えると、側にいてやんねえとなって思うんですけど」
「そっか。やっぱり、優しいですね」
「どうかな。利津も同じだと思うけど、人生で一緒にいた時間が長いと恋愛を超えるって言うか」
この感情が恋かと聞かれたら、それは違う。
今まで好きになってきた女の子には好みの共通点がいくつもあって、付き合っている時はそりゃあもう夢中になる。
利津のことを抱きしめたいと思ったことはないし、利津といえば服装はいつも同じような格好だし、気が強いし、ちょっと暴力的で全くそそられない。
利津ん家の定食屋を手伝い始めた茜さんは20歳くらい年上だけど、利津よりはストライクゾーンに近いのが現実だ。
俺は甘えられるよりも甘えたいタイプで、包容力のある人が好きだ。利津みたいな受け皿の浅い女では甘えられないし癒されない。
でも、利津は生き方が不器用で、だけど人よりちょっと鼻が利いて、心根がいい。
何人かいる男友達の誰よりも、自信を持って他人に紹介できる貴重な存在だった。
なんで男女が一緒にいようと思ったら、恋愛が前提なんだろう。
「ナツさん、利津ってどう思います? あいつ、ナツさんに会ってから前向きになった気がするんです」
「利津さんは、良い子だと思います」
良い子、ね。
そのニュアンスで語る相手は、大抵異性として惹かれているという意味を含まない。
「俺と同い年だからかなり年下ですけど、付き合えって言われたら付き合います?」
「ええ?」
「もうその反応が全然意識してないって言ってますね」
「いや、そういうわけじゃないんですけど」
必死に否定しようとするナツさんに、墓穴を掘ってますよと忠告した。
ナツさんは、利津の気持ちには気付いていないようだ。
そんなことだろうと思っていたから、予想通りでしかない。
「祥太くんは、彼女作らないんですか?」
「あー……。今はいいかなって。うちの店って自分のお客さんとSNSで連絡取り合うんです。悩みとかスタイリング剤の質問とか、なんでも相談に乗るようにしてて。あと予約もメッセージでもらうし、キャンペーンのお知らせも送ったり」
「お客さんとの距離が近いんですね」
「これが、『彼女』には理解できないらしいんですよね」
ふうっと息を吐いて、女からしたらホストと付き合うようなもんですよねと呟く。
以前、とある女にやっていることがホストとそこまで変わらないと言われたのを、俺はそこそこ根に持っている。別にホストを馬鹿にしているわけじゃなく、美容師はお客さんに気を持たせるようなことをしている覚えはないっていう意味だ。
髪型を任されるってのは、大きな責任を与えられているのと同じだ。
髪は女の命と言うけれど、髪は全体の印象に大きく関わっている。そこを任されて、少なくない頻度で通って俺に技術料を払ってくれているお客さんには誠意が要るんじゃないだろうか。
「僕も、よく怒られましたよ。女性だろうが男性だろうが、距離が近いらしくて」
「日葵さんにですか?」
「はい」
「俺、交友関係に口出しされると、信用してくれてないんだなって途端に冷めるんですよね」
「それって多分、祥太くんが女性からモテるからだと思いますよ」
さっきからナツさんは、俺がモテるというのを何とか認めさせようとしてくる。モテるの定義など曖昧で、そんなのは認めにくい。
「祥太くん、多くの男性は、付き合っている女性から嫉妬されるのが好きらしいですよ?」
「あー……そういうとこありますね」
夜に男同士で、何話してんだろと話題を変えることにした。
ナツさんに聞きたいことは、もっといっぱいある。
「ナツさんの夢って……聞いても良いですか?」
「実は、現在軌道修正中なんです。本当は映画撮るのが夢だったんですけど」
「映画監督ですか?!」
俺が大袈裟に驚くと、「いや、クリエイティブディレクター出身の映画監督って多いですよ」とナツさんは笑った。
「リドリー・スコットなんかもそうですし」
「聞いたことあるな……何撮ってる人ですか?」
「『エイリアン』が一番有名ですかね。あと『グラディエーター』とか」
「巨匠!」
「日本でも、クリエイティブディレクターから映画監督で成功する人は結構いて」
ナツさんから日本人の例を聞くと、確かに有名な映画監督の名前が並んでいた。まさかナツさんが映画を撮りたかったなんて。
「じっくりと2時間くらいかけて言いたいことを伝えると、どんな作品が作れるのかというのはすごく興味がありました」
「でも……映画業界へは行かなかったんですか?」
「そうですね、映画に強い制作会社に行けばそういう仕事も出来たんだと思いますけど……前の会社にいたある人が僕の目標だったんですよ」
ナツさんが憧れて追いかけた人って、どんな人なのか。
俺はその人について詳しく聞いた。
昭和の時代に生まれたあらゆるサービスや商品のCMを数々手掛けてヒットさせてきた人らしく、ナツさんは入社して数年はその人の仕事を見せてもらえたらしい。
「もう引退してしまったので、その方の仕事は観られません。でも、最初の頃にいろんな話を聞いたり現場を見せてもらったから、その後で僕が色んな仕事を回せたんだと思います。人生で一番刺激が多かったのは、その方の仕事に付いていた時ですね。毎日わくわくしながら、こんな仕事がしてみたいと思っていました」
「その方が辞めてしまって、転職しようとは思わなかったんですか?」
「映画を撮るのは、自主製作でも行けるんで……経験を積む方が大事だったんです」
話を聞けば聞くほど、なんて勿体ない人を失ったんだろうと悔しい。
ナツさんの作る映像を、俺はもっと観てみたかった。冗談ではなく、そのうち映画も撮っていた気がする。
この町で出会えなかったとしても、きっと俺はナツさんの仕事に惹かれていたのだろう。
「前も言いましたけど……俺、ナツさんの仕事スゲー好きで」
「はは、ありがとうございます」
「映画自主製作するなら出資します」
「いやいや、絶対回収できないんでお金払って終わりですよ?」
ナツさんは横になりながらこっちに顔を向けて苦笑している。
くりっとした二重の顔は35歳にしては随分若く見えて、かっこいいというより可愛い顔だ。
母性本能をくすぐるってこういう感じなんだろう。
この人が映画監督をしたら、俺はエキストラに入ってナツさんの仕事を側で臨場感持って見たいなとか思う。
「俺のことなんで、大金は払いませんから安心してください」
「それが無難です」
ナツさんは住んでいる家が遠く、こうしてたまに俺の部屋に泊まっている。
通勤時間が短くなるだけで、睡眠時間の確保ができて違うらしい。
「そろそろ、寝ますか」
あまり夜更かしさせてはうちに寄ってもらう意味がなくなるから、部屋の電気を消して明日に備えることにした。
やけに明るい夜で、電気が消えていても部屋の中のナツさんが分かる。
ナツさんは何も言わず、携帯もいじっていなかったから起きているか寝ているかは分からない。
こうして俺の元を訪ねてくれることで、ちゃんと眠れているんだろうか。
熱帯夜対策で動かしているエアコンの音が、やけに部屋に響いていた。
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