見出し画像

美味しいコーヒーの愉しみかた Acidity and Bitterness 第10話

「はい、『定食まなべ』です。はい、富雄とみおは私の父ですが……」
『実は、富雄さんが病院に運ばれまして。できればご家族の方にお越しいただきたく』
「えっ……?」
『ゴルフ場で倒れたんです。私は斉藤と言います。今、真鍋さんは精密検査中で』
「父は、大丈夫なんでしょうか?」

 私が電話口で言ったのを聞いた祥太が、焦って私の隣に来て一緒に話を聞こうとしている。

『今は検査中ですので何とも申し上げられませんが、お越しいただくことは可能ですか?』
「あ、はい。すいません。どちらの病院ですか?」

 聞くと、場所はかなり離れた隣の県だった。お父さんはゴルフ中に倒れたのだからそれもそのはずだ。ゴルフ場の近くに搬送されたのだろう。
 私が動揺しているのに気付いた祥太が、私に代わって受話器を持つ。

「すいません、これからタクシーで向かいます。はい、はい……。分かりました。ありがとうございます」

 翔太は病院の名前と電話番号をメモしていたので、それを持って近所の個人タクシーに電話をかけている。

「日曜にすいません、坂井です。はい、祥太です。実は真鍋のおじさんが倒れたみたいで今からタクシーお願いしたくて。ええ、病院の名前と電話番号は控えてます。はい。あと15分後ですね。ありがとうございます。真鍋の家から利津と乗ります。よろしくお願いします」

 電話が終わった後、私の顔を見て祥太は「大丈夫だよ、あのおじさんはしぶといから」と言って無理をした笑顔を作った。

「祥太も、来てくれるの……?」
「当たり前だろ。おじさんが倒れたって聞いて、利津ひとりで遠くの病院に向かわせるわけない」
「でも、お店は? 日曜の美容室、忙しいでしょ?」
「気にすんな、そんなの、なんとかなるから」

 正直、ひとりだったら不安に押しつぶされていたと思う。
 祥太は自宅にいるらしきおばさんに電話をして、事の次第と私について病院に行くから、とだけ言っていた。

「利津にしっかりついててやれって。もうすぐタクシー来るだろうから外に出ていようか」
「ごめん、祥太」
「それできれば、謝るんじゃなくて礼にして」
「ありがと、祥太」
「ん」

 祥太は私の頭をワシワシと荒く撫でた。
 そして一緒に店の外に出る。すぐに白い個人タクシーが店の前に来て、「おーい! 祥太! りっちゃん! 急ごう!」と、よく知った近所のおじさんがタクシーの運転席から声を上げた。

  *

「倒れたって、おじさん何か持病あった?」
「分かんない……」

 お父さんの不調など把握していなかった。
 どこか悪いところがあったのかもしれないのに。
 知ろうとしなかったのは、ただ怖かったのかもしれない。

 この家で、私がひとりになってしまうことが。

 本当だったら、父ひとり娘ひとりで生活をしているのだから、私が健康管理をしてあげなければいけなかったのに。

「利津、自分を責めるなよ」
「でも……」
「人間、誰だってどこでどうなるか分からない。おじさんが倒れたのは利津のせいじゃない」
「そうだね」

 これから倒れたお父さんのところに行くのだと思うと、祥太の存在が心強くてありがたい。
 やっぱり、私にとって祥太は家族だ。

  *

 病院へは、タクシーで40分ほど飛ばして到着した。日曜日の朝で比較的道路が空いていたから早く着いたらしい。

 大きな総合病院の、夜間休日救急センターと書かれている入口を目指す。
 裏口のようなそこは、私たち以外にも付き添いらしき人たちがいて、待合スペースは混んでいた。

 私は電話をくれた斉藤さんを探そうと、お父さんと同じくらいの年齢の男性を探した。

「すいません、真鍋です。斉藤さんはいらっしゃいますか?」

 声を上げると、返事がない。祥太に促されて待合のソファに腰かけた。

「おじさんの友達、会えたら連絡先聞いて、解放してあげなきゃな」
「うん……」

 お父さんのゴルフに付き合ったことで、まさか病院にくることになるとは思わなかっただろう。斉藤さん、本当に申し訳ない。

 暫く待合スペースに座っていると、診察室らしきところから出て来た60歳くらいの男性がいた。
 なんとなく斉藤さんだろうかと思った私と祥太は、その人の元に駆け付ける。

「あの……真鍋です」
「ああ、あなたが娘さんの! 今、もうすぐ精密検査の結果が出るという説明を受けてきたところです。富雄さんは意識が戻っていますし、今のところ元気そうですよ」

 今のところ、という点が妙に引っかかる。
 そりゃそうだ、突然失神するような人が、健康なわけがない。

「大変ご迷惑をおかけしました……。あの、あとは私が父に付き添いますので……」
「もともと1日空けていましたし、車もありますし、心配なので病院を出るまでいさせてくれませんか?」

 申し訳ない、と思ったけどこう言われてしまうと断るのも悪い気がする。
 私が戸惑っていたら、祥太が「何から何まで本当にありがとうございます」と頭を下げた。斉藤さんは「いえ、お互い様ですよ」と笑う。

 斉藤さんは私たちと一緒に待合スペースのソファに座り、これまでに何が起きたかを教えてくれた。

「真鍋さんと、朝食もゴルフ場で取ろうなんて言って早朝に出て来たんです。食後に立ち上がったとき、急に真鍋さんが倒れて意識を失われて……。ゴルフ場から救急車を呼んで、僕は車で病院に来ました。仲間があと2人いたんですが、彼らはゴルフどころじゃないだろうけど大勢来ても仕方ないからと置いてきまして」

 斉藤さんがひとりでずっと病院のあれこれに対応してくれていたのだと思うと、本当に頭が下がる。私と祥太はずっと斉藤さんにお礼を言い続けていた。

「真鍋のおじさんは、失神する前は普通だったんですよね?」
「ああ、そうですね。いつも通りでした」

 祥太は本当に突然だったんだな、と呟いて心配しているようだった。
 そこで、診察室の引き戸が開いて「真鍋さーん」と声が響く。

「富雄さんのところに行ってあげてください」

 斉藤さんに言われ、私と祥太はその診察室を目指した。

 診察室の扉を横にすすーと開くと、目の前に折り畳み式のベッドがあってお父さんが寝かされていた。

「お父さん!」

 驚いたお父さんがこっちを向く。

「おお、利津に祥太。遠かっただろ」

 あまりに普通の口調で、まるで何もなかったかのようにベッドから声をかけてくる。

「ご家族の方ですね?」

 白衣のお医者さんは、私にそう尋ねて診察室の椅子に座るように促した。
 レントゲンみたいな写真が裏側から光で照らされていて、脳の写真だと分かる。

「これが脳のCTです。特に問題は見られませんでした」

 それを聞いて、私と祥太が安心して胸を撫でおろす。

「不整脈もなさそうでしたから、恐らく神経調節性失神でしょう」
「神経調整性失神……」
「年を取ると増える、割と件数の多い失神です。自律神経がうまく機能しないため起こるんですが」

 年を取ると、と言われてしまうと返す言葉もない。お父さんはもうすぐ60歳で、老人ではないにしても、若くはない。

「治療や気を付けることはあるんでしょうか?」
「薬物治療などはないです。気を付けることは、今回のようなケースでまた失神が起きる可能性があるということ。これからは食後に失神が起きる可能性を意識して行動していただかないとなりません」

 食後は、注意か……。普段は私がいるから大丈夫かな……。

「立ちっぱなしを避けていただきたいのと、急に倒れた時に周りにあるもので大怪我をされるケースが多いということですかね」
「いや先生、私は立ち仕事なんですよ。しかも火や刃物や油を日常的に使うんですが」

 お父さんの言葉に、先生が詰まる。

「そういう方には、座りながらでも作業ができるようにしてもらったり、なるべく火や油の近くに行かないようにしていただいていますね」

 要するに、もうお父さんはキッチンで火や油の前には立たない方が良いのだ。
 次に急に倒れた時、火や油があると危険だということだろう。
 そして、立っている時間を減らすために、包丁を使う時は椅子に座っていなければならない。

「いや……いまさら座ってなんて……」
「お父さん、これからのやり方を考えなきゃダメでしょ?!」

 この状況でも普段通りに生活させてくれと言わんばかりで、私はつい大声が出た。

「もう、若くないんだよ。この先、また今日みたいなことが起きるかもしれないんだよ。お願いだから……」

 その後が続けられなくなった私の背中を、祥太がさすっている。
 お父さんはバツが悪そうに「ああそうか」とだけ放るように言った。

 これまで、私が甘え過ぎてきたせいだ。
 多分、そのせいでこんなことが起きたのだと思う。

 先生が「起き上がれそうですか?」と言ったので、お父さんはベッドからゆっくりと起き上がる。
 そのお父さんを祥太が支えて「祥太、ありがとな」とお父さんは嬉しそうだ。
 
 診察室を出ると、斉藤さんが焦ってこちらに駆け付けた。お父さんは斉藤さんの姿を見るや否や、頭を下げて「申し訳ない」と「ありがとうございます」を繰り返していた。

「お陰様で、特に大きな病気でもありませんでした。自律神経の調整機能が衰えて? とかで、日常生活は気を付けなきゃいけないらしいんですけど」

 私が斉藤さんに説明すると、それは良かったと本当に喜んでいた。
 斉藤さんはお父さんの手をぐっと握ってから、「ゴルフは難しいのかな? でもまた食事でも行きましょう」と言って病院から去っていく。

 私たちは会計を待って待合スペースに座っていた。
 ふと「会計を待って」いることに焦る。検査もいくつかしているし、病院のお金って、結構高いんじゃなかったっけ……。お財布が心許ない。

 そうしているうちに名前が呼ばれて、どうしようと思っていたら財布を渡された。

「利津、お前が払うとこじゃない」

 ああ情けないな、とほんのり落ち込んで、お父さんの財布を持って会計に向かう。検査項目が多くて3万円を超えていたから、私のお金では足りなかった。

 私が会計をしていると、後ろの席で祥太とお父さんが話しているひそひそ声が聞こえてくる。
 お父さんがすまなかったなと祥太に言って、なに言ってんすかと祥太は笑った。
 お金をトレーに置いていると、「約束したじゃないですか。おじさんがいないときは、俺が利津を支えるって」と祥太の声が耳に届く。

 そこで私は今日の祥太の全てを悟った。
 祥太は、お父さんと約束をしていたのだ。頼りない私のために。
 お父さんはきっと、自分に何かあった時のことを考えて、祥太にそんな余計なことを言っていたのに違いない。

 腑に落ちた瞬間、でも誰を責めることもできないのだと小さく笑う。
 お父さんがいなければ路頭に迷いかねない私が、全ての原因だから。


 病院の外に出ると、行きに乗って来た個人タクシーが外に停まったままだった。
 私たちが驚いてそちらに向かうと、運転席を倒していたおじさんが慌てて起き上がって窓を開ける。

「りっちゃん! 富雄さん!」
「ああ、結城さん、ここまで来てもらっちゃって」

 個人タクシーのおじさん……結城さんは、病院の待合室は何だか苦手で、とタクシーの中でずっとお父さんを待っていたらしい。

 お父さんが助手席に、私と祥太は後ろの席に座ってタクシーは出発した。

 結城さんは行きよりもご機嫌で、お父さんが大丈夫そうだったので安心したのか、ずっと話をしている。
 後部座席にいる私と祥太は手持無沙汰だ。

「あのさ」

 前の席で会話が盛り上がっていたので、祥太にこっそりと話しかける。

「お父さんに言われたからって、私のことを気に掛けなくてもいいんだよ」
「おじさんに言われたからじゃない。利津が頼りなさすぎるからだよ」
「はあ?」

 実際に私は今日1日だけでも祥太にかなり助けられた。力になってもらったし、心の支えにもなっていた。
 私ひとりでこの状況に向き合っていたら、精神的に参っていたと思う。

 だけど、祥太と私は普段連絡すら取り合わない間柄だ。
 この間の商店会で久しぶりに会ったくらいに普段も疎遠で、お互い干渉しないで生きている。

「他に甘える先もないくせに、一人でなんとかしようとする必要ないだろ」
「そりゃ、そうかもしれないけど……」

 話していて、ふと、一番心配になっていたことが頭をよぎった。

「うちの店、このままの営業スタイルでやっていくのは無理かも」

 さっきお医者さんに言われたことを思い出す。
 魚を焼いたり揚げ物をしたりするのが私の役目になり、料理人のお父さんの出番を減らさなければならないだろう。
 私は配膳に徹することが出来なくなるだろうし、立ちっぱなしを避けろと言われた手前、お父さんにホールを任せることもできない。

「そうだなあ。ランチの営業、やり方を考えなきゃなあ」

 前の席からお父さんが言う。きっと無念に違いないと、「そうだね」なんて言えなかった。
 『定食まなべ』はお父さんがひとりで働くために作られたお店だ。
 私は手伝う形で店に入っているけれど、お父さんがまともに働けなくなった時に補えるほどのスキルや要領がない。

 昼の営業はただでさえいかに効率よくするかを考えてやってきた。
 今までと同じようには出来ない。

「人は、雇えないんだよな?」

 祥太が確認するように言った。私は力なく笑う。
 ランチが中心だから、売上なんて知れている。

「ランチ営業の間だけでも、商店街で誰かにヘルプを頼もうぜ。バイト代は払わなきゃいけないけど、一緒に『まなべ』のことを考えてくれるような人にさ」

 祥太はそう言って「誰が良いかなあ」と商店会のメンバーを口にしながら昼間なら暇な人って誰だー? なんて呟いている。

 そこで結城さんが「うちの家内、貸しましょうか?」と言った。
 結城さんの奥さんってどんな人だったっけ? と私たちは首を傾げる。

「料理教室の先生やってんですよ。今は若い子に教えてて平日の夜がメインになってるから、昼間は家にいるはず……」
「いやいや、料理の先生にバイトなんて」
「多分、りっちゃんと富雄さんの話聞いたら飛んで行きますよ。特にお節介な人なんでね」

 結城さんの奥さんの顔がぼんやりと浮かぶ。確か、とても気さくで明るい人だったような記憶が……。

「いいじゃん、結城さん。接客なんか得意中の得意だろうし、何よりあの人の雰囲気って人を呼びそうな気がするし」

 祥太が結城さんの奥さんを思い出しながら、大きく頷いている。祥太、さすが町の美容室。
 結城さんは奥さんを褒められてちょっと嬉しそうだ。

「すいません、結城さんのお宅にご挨拶にうかがっても……」
「いいですよ。このままうちに来てもらって、何が良いか家内にも相談しながらやれることに協力させてもらいます」

 まさかこんな簡単に協力を申し出てくれる人が現れるなんて思わなくて、じんわりと涙が目に溜まる。
 祥太はそんな私に気付くと「日頃の行いがよかったんだよ」と私の頭をわしわしと撫でた。

 何かあったらこの町の頼れる人に、と自然に動く祥太は、恐らく私よりもずっとこの商店街に愛着があって、この商店街と共に生きていく覚悟がちゃんと出来ている証拠だ。

 私のように、どこにも行けないからここにいるんじゃない。

  *

 結城さんの家は、商店街を抜けた場所にあるマンションの一室だった。
 私たちが連れ立って結城さんと共に家にお邪魔すると、奥さんは突然の客にとても喜んでくれた。
 料理教室をやっているだけあって、リビングが広くて人がたくさん入れるようになっている。もともと、人を呼ぶのが好きな人なのだろう。

「へえー……大変だ。富雄さん、いつかまた倒れるかもしれないってこと?」

 奥さんはあけすけに言う。お父さんも「そうみたいだよお」と腑抜けた感じで笑っていた。

「私も料理ずっとやってきてるけど、お店やったことないから力になれるかどうか」
「焼き魚を焼くのと盛り付けがメインです」
「あらそう。じゃ、意外にやれそう」

 奥さんはそう言ってにこりと笑った。「実は料理教室で盛り付け教えてんのよ」と得意気に言う奥さんに、祥太が「売り上げ伸びたりしてね」と言う。

 私とお父さんは「暫くの間、助けてもらえないでしょうか」と改めて頭を下げた。奥さんは「あらあら、やめて」と焦りながら、「こういうことはね、動ける人間が動くものなのよ」と何でもないことのように言った。

 結城さんの奥さんは丸顔で、笑うと頬の高いところがぷくっと丸く浮き出る笑顔の人だった。
 今日、結城さんのおじさんがあんなに親切だったのも、この奥さんにしてこの旦那さんありということなのかもしれない。

 私には、母親の記憶はほとんどない。だから祥太のお母さんや商店街のおばさんたちを見て「お母さん」を想像しながら生きて来た。

 今日、結城さんの奥さんを見て、お母さんというのはこういう人なのかも、なんてことが浮かんだ。


いいなと思ったら応援しよう!

碧井夢夏 創作活動の時間を捻出して、より多くの作品を作る原動力にします。