光の感染者 第18話|逃れられないもの
「心の柔らかい者は幸いである、彼らは地を受け継ぐであろう。」
物質には、重力がある。
目には見えなくとも、確かにそこに働いている力。
それと同じように、
人の心や魂にも、
静かな引力があるのではないかと思う。
人はその引力から、
完全に逃れることはできない。
眠る時も、食べる時も、
何もしないでいる時でさえ、
それは働いている。
意識の外で。
宇宙の法則のように。
ある日、駅のベンチで
一人の老人を見かけた。
夕暮れの光の中、
彼は誰かを待つでもなく、
背を少し丸めて、
ただ座っていた。
周囲は騒がしかった。
急ぐ足音、低い声、
スマートフォンを覗き込む人々。
けれど、その老人のまわりだけ、
なぜか空気が静かだった。
彼は何も語らない。
何も主張しない。
それでも、そこに在るだけで、
場が落ち着いていた。
私は自然と、
その近くに立っていた。
理由はうまく説明できない。
ただ、安心したのだと思う。
心の重力を整える
一番簡単な方法は、
信仰なのかもしれない。
神を信じること。
あるいは、長い時間をかけて磨かれてきた
思想や教えを、
静かに生活へ取り入れること。
高みを急がず、
今を拒まず、
今を味わう。
それは信仰というより、
生き方の「姿勢」に近い。
ある種の悟りを得た人は、
心の重心が低い。
自分を中心にしながらも、
世界を歪ませない。
強く引き寄せるわけでもなく、
誰かを従わせるわけでもない。
ただ、
そばにいる人が安心する。
安全だと感じる。
私は、それを
人の強さと呼びたい。
大人であるということの、
ひとつの基準として。
人はときに、
「逃れられない」という言葉を使う。
環境が悪い。
立場がある。
責任がある。
仕方がない。
だが本当に逃れられないのは、
外側の条件ではなく、
長い時間をかけて固定された
心の重心なのではないか。
人は、
戦いによって壊れるのではない。
同じ姿勢を保ち続けることで、
静かに壊れていく。
カルマについて(静かな重力として)
仏教で語られる「カルマ」は、
罰でも、審判でもない。
それは、
行為と姿勢が生み出す、
因果の重力だ。
怒りを飲み込み続けた沈黙は、
平和を得る代わりに、
心の可動域を少しずつ狭める。
恐れを抱えたままの忍耐は、
評価を得る代わりに、
身体に重さを残す。
カルマとは、
「悪いことをした報い」ではない。
生き方そのものが生んだ、重さだ。
そして重力は、
逃げようとするほど、
強く感じられる。
他人から奪い、
自分の子に与える。
そんな行為が、
「重力」や「強さ」と
誤解されることがある。
けれど、本当の重力は、
奪わない。
誇らない。
主張もしない。
ただ、在り続ける。
それでも確かに、
人を落ち着かせ、
人を支える。
あなたのそばにも、
そういう人が
一人くらいはいるだろうか。
あるいは、
あなた自身が、
誰かにとっての
静かな重力に
なれているだろうか。
逃れられないもの、
それは、
恐れる対象ではない。
それは、
自分がどこに
立ち続けてきたかを教えてくれる、
沈黙の記録なのだから。
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