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カクテルと余白:36【青本の中の砂漠①】 Season4

『星の王子さま:サン=テグジュペリ』より🍸
D'après "Le Petit Prince" d'Antoine de Saint-Exupéry

 198×年5月、東京。午後の雨は上がり、街のあちこちに小さな水たまりができていた。

駅前の公衆電話の受話器の向こうから母親の不安気な声が聞こえてくる。

母親とのいつもの会話
いつもと変わらぬ同じ内容

「サキちゃん……今年こそ頑張って医学部に合格してね。お父さんも心配してるのよ」
「うん……わかっているよ。お母さん」

「浪人なのに国立しか受けないなんて。ウチは私立の医大でもいいのよ。
もう、そんな学校の偏差値なんか気にしないでとにかく医大に合格してね」

「わかってる。偏差値なんか気にしていないよ。
でも、今度は共通一次の対策もしっかりやるから。私大も受けるよ」

「ちゃんとご飯食べてるの?野菜食べてね。洗濯は大丈夫?」

「うん。この間、夜中の24時頃に洗濯機を回したら、マンションの隣の人から文句言われちゃった」

「まあ……どんな人?」
「大学生かな?男の人みたい。翌朝ポストに、苦情の紙が入ってたの」

「なんか怖いわね……」
「大丈夫だよ」

「部屋に電話を引きなさい」
「うーーん。そうすると、あちこちに長電話しちゃいそうだから、今は我慢してるんだ」

「偉いわね。とにかく頑張ってね。仕送りならいくらでもするから」
「ありがとう……」

その時、公衆電話の警告音がビーーーッと響いた。

「あ、あと1分だ。もう10円玉が無いから切るね。100円玉を入れたらお釣りが出なくて勿体ないから」
「あ……そう?あ、でもそれからね……」

ガチャン。

サキは受話器を置いた。
100円玉が無かったわけではない。
電話ボックスの外に、次の順番を待つサラリーマン風の男性が立ったからだった。

それに、これ以上母親と話していても、同じ小言の繰り返しを聞くだけだと分かっていたから。

浅形サキ(20歳)

サキは、キャンバストートバッグから、ウォークマンを取り出して、ヘッドフォンをセットした。
カセットテープには、お好みの曲だけがダビングされていた。

🎼🎹ここでイメージ曲です。宜しければお読みになりながらお聴きください。

✏️ 異邦人
( 作詞 ・作曲 : 久保田早紀 )
( 演奏 : 松本孝弘 )
( 歌 : ZARD 坂井泉水 )

 西に傾きかけた夕陽を浴びながら、お堀に架かる横山橋を渡り、国鉄中央線の横山駅へと向かう。

横山駅は、四谷と市ヶ谷の間にある駅だ。

右肩に下げたキタムラのレザーショルダーバッグから、サキは少しぎこちない手つきで定期入れを取り出した。

中学、高校、そして1浪目のこの春までは生まれ育った仙台で過ごし、地元の予備校に通っていた。

しかし結果は振るわず、この春からは2浪目。

心機一転、東京での過酷な受験生活を選んだのだった。

仙台の中学時代は徒歩通学、高校も予備校もバスを利用していたため、駅員に定期券を見せて改札を通るという行為にはまだ慣れていなかった。

バスの時も定期券は使っていたが、東京の国鉄駅はまるで違った。

国鉄・新宿駅

 改札口に立つ駅員の目の前を、大勢の人が立ち止まることなく流れるように通過していく。

その圧倒的なスピード感には、上京してひと月が経つ今もまだ面食らったままだった。

 夕方の帰宅ラッシュが始まっていた。階段を降りてホームに立つと、程なくして「カナリアイエロー」と呼ばれた全面黄色のボディをした国鉄中央線の各駅停車が入線してきた。

ウォークマンのヘッドホンからは、昨年末から大ヒットしている久保田早紀の『異邦人』が異国情緒を漂わせながら聴こえてくる。

車内の座席はすでに満席で、すべての吊り革に誰かの手が掴まっていた。

幸運にもドアの近くで空いていたそのうちの一つに掴まると、サキは左肩のキタムラのキャンバストートから英語の参考書を取り出し、電車の揺れに身を任せながらページを開いた。

その表紙には『新・基本英語文699選』という、受験生なら誰もが知る厳めしい文字が躍っている。

不朽の名著699選

とはいえ、サキは699個の例文すべてを暗唱できているわけではなかった。

彼女の勉強法は、まず日本語の訳文に目を落とし、その構文を組み立てることから始まる。

主語と動詞には何を据えるべきか、それを頭の中でじっくりと組み立ててから、ようやく対応する英文へと視線を移すのだった。

「何で699個なのよ?あと一つで700個でしょ?700個ならば完璧じゃない?」
サキは笑った。

英語は特に嫌いな科目だった。
文法自体は単純なくせに、例外があまりにも多すぎる。

この言語には、母国語である日本語に比べてどこか粗野で洗練されていない印象が拭えなかった。

昨年の秋、初めて挑戦した英検では、準1級の1次試験になぜか合格していたものの、同時に受けて1次を通っていた2級ともども、ヒアリングとスピーキングは全く歯が立たなかった。

結果として2級の2次試験は『パードン?』の連発で不合格となり、準1級にいたっては2次試験を受けにいく気にすらなれなかった。

正直なところ、時間さえかければ必ずできるようになるという確信はあったが、そもそも修得する必要性すら感じられず、もう一度チャレンジしようという意欲は1ミリも湧かなかった。

数学や他の理数系科目に比べて、英語はいつも偏差値が一番低く、サキの足を引っ張り続けていた。

どうしても、明快な論理に貫かれた物理や数学に比べて、英語というものが低俗な学問に思えてしまうのだった。

日本があの戦争に負けさえしなければ、こんな忌々しい科目なんて勉強しなくて済んだはずなのに、とサキはいつも胸の中で苛立ちを募らせていた。

電車が新宿駅のホームに滑り込む。自動ドアが開くと同時に、サキは思い出した。

「あ、今日は『VV』の発売日だった」

サキが愛読するファッション誌

 西中央口の改札を抜け、彼女は足早に小田急デパートへと向かう。

10階の書籍売り場で、目当てのファッション雑誌を手に取ると、そのままエレベーターで地下へと下り、夕食のための惣菜を買い揃えた。

地下道から地上へと上がり、新宿『大(おお)ガード』の交差点に架かる大きな歩道橋を渡る。この場所は、刑事ドラマの冒頭シーンで必ず登場する有名な撮影スポットだ。

歩道橋を渡り終えると、寺院が軒を連ねる静かな一角に出る。
野村ビルを背にして、西新宿のマンション街へと足を進める。

1階に花屋が入るそのマンションの4階が、サキの暮らす1DKだった。

サキの部屋は東南の角部屋で、南向きの窓からは野村ビルと、通称「スカートビル」と呼ばれる安田ビルが一望できる。

新宿駅から徒歩8分という立地でありながら、周囲には寺や墓地が多く、驚くほど静寂に包まれた一角だ。

隣が墓地という理由からであろうか。
家賃は都内の他の土地と比べてもそれほど高くはないようだった。

帰宅してシャワーを浴び、着替えを済ませると、サキはタイマーで炊き上がったご飯をよそい、先ほどデパートで買い求めた惣菜を並べて手早く夕食を済ませる。テレビのない静かな部屋で、彼女はすぐに参考書を広げた。

勉強机は持ち込んであったが、食卓として使う座卓でそのまま勉強を始めることが殆どだった。

「明日の授業の数学の予習と、あとは化学の暗記。英語の和訳も終わらせなきゃ」。

そう自分に言い聞かせて机に向かううちに、やがて彼女の意識は静かに勉強へと深く没入していった。

【青本の中の砂漠】
マガジンはこちらです🔽

どれほどの時間が過ぎたのか、ふと目を覚ますと、サキは座卓で参考書を広げたまま居眠りをしていた自分に気づく。

「あああ……予定の半分もこなせていない」。

強烈な自己嫌悪と不安に陥りながら大きなあくびをして時計に目を向けると、深夜の1時を回っていた。

帰宅時に買ったファッション誌は、まだページをめくる気持ちになれない。

じっくりと読む時間は、多分取れないだろう。

仙台で買った4月号と、東京に来てから買った5月号は、ページを開くこともなくテーブルの上に積まれている。

サキは、今日買ったばかりの6月号もその上に置いた。

窓の外には漆黒の闇が広がっており、その暗闇の中で野村ビルの窓だけが点々と灯りをともし、眠らぬ街の気配を漂わせていた。

「しまった、洗濯を忘れていた」と心の中で叫んだ。

サキは深夜のコインランドリーに出かけた。

帰宅したら真っ先に済ませると誓ったはずなのに……明日帰宅後の着替えが無い。

この時間帯に洗濯機を回せば、隣人から、またクレームが出るのは目に見えていた。

先週、郵便受けの中に、ワープロで打ったであろう手紙が入っていた。
差し出し人はわからない。

『夜中に洗濯機を回すな』
と、書かれてあった。

電話の向こうの母親には『大丈夫』と答えたが、実際にはかなり怖かった。
今も誰かに見張られているような、恐怖がある。

仕方がない、とサキは溜息をつき、手近なデパートの紙袋に溜め込んだ衣類を無造作に詰め込んだ。

『洗濯だけコインランドリーを使おう。その後、乾燥機を使ったらさらに120分はかかってしまう……。後は部屋干しだな』

その中には、英文699選をしっかりと滑り込ませてあった。

静まり返った深夜の戸外へ足を踏み出す。

夜風は少し冷たかったが、コインランドリーの温かな光を目指して、サキは早足で夜の街を歩き出した。
【第2話に続く】
(服装デザイン協力……Ms.いちか )
(ダイデン大佐の作画……ひがし りょう)

🍸次回作はこちら🔽
【カクテルと余白:38】

【カクテルと余白:37・いちご⑤】
アップしました。🔽

🍸🍸🍸

赤坂 OLD TIME

🍒「80年代かあ……私が生まれたのは86年だから、後で教えて貰ったものばかりね。でも……ハマトラは知っているわ。
ミハマ、フクゾー、そしてキタムラ。
今も健在の、元町の一流ブランドだわ」

🥕「あっと言う間の40年。気付けば大きく変わったものと、全然変わらないものがある」

🥃「やはり、大きな変化は、スマホだね。1980年代には、まだパソコンどころか電卓が普及し始めた頃だった」

🥕「懐古趣味も良いかもしれないが、その中で、変わらないものがある。
それを書きたいと思う」

🥃「まあ、大して期待していませんけどね……」
🍒「大佐は、その時もウサギでしょ?」

🥕「こら!私がウサギだった事など1秒もないわい」
🥃🍒「はいはい……そーゆーことにしておきます」

【使用BGMリスト②】
開始しました。これまで本編で使用したBGMのリンク【使用BGMリスト①】のメモリーが一杯になりましたので、新たにページを作りました。🔽

家庭平和維持軍
ラインハルト・ダイデン大佐

【家庭教師管制塔『無限堂』】
🌐 公式ホームページ
https://mugendo1977.com/
無限堂は、電話・メール等による勧誘は一切行っておりません。

📸 公式インスタグラム
https://www.instagram.com/mugendoofficial?igsh=MTh5ajg3ZGhyMHZ4NA%3D%3D&utm_source=qr
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