カクテルと余白:10【数学の詩人⑥雪のベルリン・巨匠の門を叩いた少女(最終話)Season1

フーファを、自分の孫同然に可愛がった
前回のお話しはこちら⬇️
【カクテルと余白9】
🎼🎹宜しければ、この曲を聴きながらお読みください。『雪のベルリン』ソーニャのテーマ④です。
🎼🎹マル・ウォルドロン
『レフト アローン』
(音量にご注意ください)🔽
Left Alone
Piano by Mal Waldron
Saxophone by Jackie McLean
Composed by Mal Waldron
❄️❄️❄️❄️
最終章【未完の焼却…巨匠はなぜか手を止めた】
ソーニャ・コワレフスカヤは、わずか41歳でこの世を去った。
その訃報が届いたとき、ベルリンの巨匠ワイエルシュトラスは、自らの魂の一部がもぎ取られるような衝撃を受けた。
かつて「数学界のミューズ」と呼ばれた愛弟子。二十数年という歳月、二人が交わし続けた膨大な書簡は、単なる知性の対話ではなかった。
老いた巨匠は、震える手でその書簡を暖炉の炎へと投じた。
「君がいない世界に、この言葉たちは必要ない」
燃え上がる紙片、黒く煤けていく数学の美しき定理たち。だが、炎がその半分を飲み込もうとしたとき、彼は不意に手を止めた。
「…………」
自分自身の行動がよく理解できないまま、巨匠は手紙を焼く事をやめた。
「これを燃やしてしまえば、彼女が生きた証……数式や思想が、この世から完全に抹消されてしまう」
それは、私情を超えて彼の数学者としての誠実さが勝った瞬間だった。
❄️❄️❄️❄️

ロシアの冬の日は短く、母ソーニャが眠る墓地には、静謐な雪が降り積もっていた。
二十歳のフーファは、凍える指先で一枚の古びた写真を抱きしめていた。そこに写っているのは、かつてベルリンで彼女を膝に乗せ、慈愛に満ちた眼差しを向けてくれた「ベルリンのおじいちゃま」――カール・ワイエルシュトラスだ。
「Мама(マーマ)、おじいちゃま。私……医学部に合格したわ」
フーファの声は、冷たい空気の中で凛と響いた。
「Мамаと同じように、私も数式を愛した。数式の裏側にある宇宙の秩序を、必死に追いかけた。
でもね……おじいちゃまが言っていたような『数学のモーツァルト』の調べは、ついに私には聞こえてこなかったわ。
私の中に響いたのは、もっと地を這うような、生身の人間が流す血の鼓動だった」

彼女の足跡もまた、平坦ではなかった。母が戦ったあの「女性差別」という名の分厚い壁は、今なおロシアの地に根深く残っていた。
女子学生への冷ややかな視線、閉ざされた研究室の扉。
しかし、彼女は逃げなかった。母から譲り受けたあの「不屈の知性」という遺産を、怒りではなく、未来を切り拓くための刃に変えたのだ。
「私は、産婦人科医になるわ。Мамаが、そしておじいちゃまが愛したその知性を、私は『新しい生命が生まれる瞬間』を支えるために使いたい。
これこそが、二人から受け継いだ財産に対する、私なりの一番の活用法だと思うの」
フーファは墓石に触れ、少しだけ悪戯っぽく、しかし確固たる決意を込めて微笑んだ。
「でもね、Мама……。私は、Мамаみたいな結婚はしないわ」
その言葉は、悲しみではなく、自分自身の人生を生きるという独立宣言だった。
「私は必ず、心から愛し合える男性と出会ってみせる。
そして、Мамаが望みながらも手に入れられなかった、温かな幸せに満ちた家庭を作ってみせるわ。
知性も、愛も、家庭も……私は、何一つ諦めない」
フーファは母親そっくりの顔で笑った。
雪が止み、雲の間から一筋の光が差し込んだ。
厚く垂れ込めていたベルリンの雪空に、一筋の、鋭い陽光が刺した。
それは燃える書簡の炎よりも白く、凍てつく墓石の冷たさよりも鮮烈に、彼女の消えゆく背中を照らし出した。
Abschluss
(完)
❄️❄️❄️❄️
🍒「フーファはこのあとどうなったの?」
🥕「ソーニャの娘『フーファ』こと、ソフィア・ソフィエヴナ・コワレフスカヤは、その後モスクワの女子医学講習所で学び、誓い通り産婦人科の医師となる。
また母の著作の翻訳者や研究者として、母の功績を世に伝えるために尽力し、1952年に73歳でその生涯を閉じた、と記録にある」

❄️❄️❄️❄️
今夜も赤坂のOLD TIMEは賑わっている。
しかし、ダイデン大佐は、今夜は少し飲み過ぎたようだった。
ソーニャの話しの完結に、少々疲れが出たようだ。
BARでは御法度の居眠りを始めてしまった。
「………」
ふと、目が覚めると、店の中には誰も居なかった。
「あれ?マスター……香取くん?」
店内には、穏やかなジャズと夜の静寂が満ちていた。
微かな衣擦れの音と、甘い香りがする。
カウンターの向こう側、淡いスポットライトの中に、一人の女性が立っていた。
それは……青いドレスを纏った、あのソーニャだった。
「え……! ヘル・プロフェッサー、コワレフスカヤ?!」
ダイデンは椅子から転げ落ちんばかりに叫んだ。

しかし、彼女は驚く風もなく、笑顔とともに、静かにカクテルグラスを差し出した。
グラスの中には、クラッシュアイスとミントの葉が宝石のように煌めいている。
それは、清涼感あふれる一杯――モヒートだった。
「大佐……。私の生涯を語ってくださって、本当にありがとう」
「えっ?! あ! いや……こりゃまた……」
軍人として数々の修羅場を潜り抜けたダイデンも、知の女神を前にしては、新兵のようにしどろもどろになった。
「お礼に一杯、私から……」
「うわ! そ……それは……どうも」
ダイデンは、震える手でグラスを受け取った。
ソーニャは、遠い日々を慈しむような穏やかな瞳で語り続ける。
「私は数学に我が身を捧げました。でも、娘と夫と師を愛し、数学に挑んだあの日々……自分では、とても幸せな人生だったと思っているのよ」
「そうですとも! ソーニャ。貴女の歩んだ道は、光り輝く凱旋路だ」
「ふふふ」
彼女は鈴を転がすような声で笑った。
そして、茶目っ気たっぷりに片目をつぶってウィンクをしながら、ダイデンに問いかけた。
「私は……私のような女は、数学を愛してはいけませんか?」
「とんでもない!むしろ逆です。
女性たちにはどんどん数学を学んでほしい!」
ダイデンは、初恋を知った少年のように顔を赤らめて答えた。
「実は……私も数学を愛しています」
「でも……」
大佐はモヒートを一口、ゆっくりと口に運んだ。ライムの酸味とラムの芳醇さが、火照った喉を潤していく。
「でも……貴女は数学を愛した。でもね、ソーニャ。数学の神もまた、貴女を愛したのだと思います。貴女は、数学に愛された女性なのだ」
「ふふふ……ありがとう……大佐」
ソーニャは満足げに微笑むと、夜霧が溶けるように、ゆっくりとその姿を消していった。
🍸🍸🍸🍸
「おい、起きろバカうさぎ!」
香取プロデューサーが、ダイデン大佐を揺り起こした。
「BARでの居眠りはマナー違反!
帰りますよ」
「うわあ!これは失敬」
ダイデン大佐は慌てて目を覚まし、横瀬マスターに謝罪した。
ーーソーニャ…夢だったのか。
でも、ずいぶんリアルだったな。
大佐は周囲を見渡した。
他の客は誰も居なかった。
「いちかさんは、お先に帰られましたよ」
横瀬マスターが笑った。
🥕🥕🥕🥕
頭をかきつつつ、それでも大佐はどこか夢見心地で、香取とともに気持ちよさそうに漆黒のドアから帰って行った。
客の途絶えたカウンターで、横瀬マスターは、片付けを始めた。
ふと、大佐が最後まで飲んでいたカクテル「カミカゼ」の空のグラスに目が止まった。
「……おや?」
グラスの底、溶け残った氷の隙間に、瑞々しく輝く一枚のミントが張り付いていた。
横瀬マスターは、不思議そうに眉を寄せた。
「おかしいな……。今日はミントが品切れで、モヒートは一杯も出せなかったはずだが」
グラスの洗浄は常に徹底している。
横瀬には、なんとなくそのミントの意味が解ったように思えた。
「そうか……そういうことか」
彼はJAZZを鳴らしていたCDを止めた。
時計は閉店時刻の25時を回っていた。
今夜の赤坂の夜風は一段と厳しかった。
春はまだ遠いようだ。
【雪のベルリン・完】
🍸🍸🍸🍸❄️❄️❄️
🍸⬇️お時間があればお聴きください。筆者が勝手に選んだ、ソーニャ・コワレフスカヤのイメージソングです。
【リー・オスカー『約束の地』】
Comin' home
I'm comin' home
Comin’ home
Soon I'll be home
In the Promised Land
Comin' home
I'm comin' home
To the Promised Land
【雪のベルリン】
シリーズはこれで完結します。ご愛読ありがとうございました。
次は江戸時代に舞台を変えて、新しいお話しを書きます。いつかまたお会いしましょう。

次回・カクテルと余白11
Season2【一華の受験相談1】はこちら⬇️
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🥕ダイデンのイラスト・ひがしりょう
【あとがき:執筆時のイメージ曲】著者が本編の背景としてイメージしていたテーマ曲です。お時間があれば読後の余韻と共にお聴きください。⬇️
