カクテルと余白31【江戸の燕⑨】工学部vs理学部Season3
前回のお話しはこちら🔽

【臨戦態勢整う】
🎼🎹
ここからのシーンに合ったイメージの曲を探して参りました。宜しければ、お聴きになりながらお読みください。
✏️The Terminator
(作曲 : ブラッド・フィーデル)
(演奏 : NIYARI計画)
【灰・泥・地・煙の術……開帳💥】
🍸🍸🍸
太陽が西に傾き、やがて風が完全に凪いだ。
上空の雲は静止し、周囲の樹々も葉擦れの音ひとつ立てない。
これならば、一斗樽の真上に発生したハイドロジエンが井戸の方へ流出する懸念はない。
本来の狙いは装置の通電にある。
しかし、通電には火花が伴うため、高濃度のハイドロジエンへの引火リスクを排除しなければならない。
風が吹いていれば、風向きの急変という制御不能な不確定要素が介在し、極めて危険な状態に陥ってしまう。
そのため、この完全なる無風状態こそが計画遂行における必須条件であった。
「始めるぞ!」
源内が裂くような声で叫んだ。
一同が無言のまま深く頷いた。
🍸🍸🍸
源内は、まず銅線Aの端に真鍮(=銅と亜鉛の合金)で作られた銭を10個、確実な錘の代わりに取り付けると、なみなみと満たされた樽の酢の底へ静かに沈めた。
続いてもう一本の銅線Bの端におくみのかんざしを巻きつけ、同じ樽の中へ沈めた。
それは亡き母の唯一の形見であり、永遠の別れを意味していた。
「母上さま……」
おくみは小さくつぶやいた。
涙で歪む視線の向こうで母の魂が消えていくのを、彼女はただ引き裂かれるような思いで見つめていた。
だが、この時点では、まだ何も起きない。
全員を見回して黙って大きく頷くと、源内は足元の小袋を持ち上げ、初めの塩を樽の酢の中へ静かに投入した。

一袋、およそ130匁(約500g)
さらに二袋目を滑り込ませたその瞬間、樽の底からゴボゴボと不気味な泡が湧き上がり、真っ白な煙が激しく立ち上り始めた。
早くも鼻を突く酸っぱい香りが周囲に漂い始める。
源内は目を細め、鋭い声で一同に告げた。
「各々方、なるべく煙を吸い込むな。目と鼻と喉を守れ。
ここから全部で六十拍、その間はできる限り息を止めるんだ。
その煙をまともに吸い込んだが最後、死にはしねぇが、激しく咳き込んで一拍の仕事にもならねぇぞ!」
全員が僅かな視界だけを辛うじて残し、口元と眉毛の上に2本の手拭いを厳重に巻きつけている。
「親分、数乃ちゃん。銭と銭を絶対に空中でぶつけるな!
それから、這わせた銅線にも絶対に当てるんじゃねぇ。
火花がこの作戦の一番の大敵だ。
ほんの一瞬でも火花が飛び散りゃ、ハイドロジエンがここで大爆発を起こして全員消し飛ぶからな!」
「合点でい!」「御意!」
樽の中は、まるで地獄の釜が沸騰しているかのように不気味に大きく泡立ち始め、ゴボゴボという怪異な音が段々と、しかし確実に大きくなっていった。
真っ白な煙も、天に昇る巨大な蛇のように激しくのたうち回りながら上がり始めている。
三袋目の塩が、源内の手によって迷いなく樽へ投じられた。
沸騰音はいよいよ耳を聾するほどに高まり、立ち上る煙は蛇から狂える龍の姿へと変貌を遂げた。
🍸🍸🍸
ここからのシーンに相応しいと思われる曲を探してみました。宜しければお聴きになりながら、お読みください。
✏️ I'ts Magic
(曲 : 安藤正容)
(演奏 : THE SQUARE)
(サックス : 伊東たけし)
(歌 : マリーン)
「今だ!撃ち方始めぇっ!」
源内は叫ぶと同時に、その両目を完全に瞑った。
一斗樽の正確な位置も、己の足元にずらりと並べた塩袋の間隔も、その天才的な脳内にすべて完璧に暗記されていた。
おくみと田沼は、狂いなき練習の成果そのままに、竹の樋の上から吸い込まれるように銭を注ぎ始めた。
樋の最下部では、待ち構えた二人の射手がそれを吸い付くように左手の平で受け止め、その掌に触れた刹那、凄まじい指の弾力で一斗樽をめがけて弾き返す。
二人の掌からは、空気を引き裂く連続音を立てて銭が猛烈に弾き出されていく。
それは江戸の世には存在し得ない、未来のマシンガンそのものの掃射であった。
しかも、それらの真鍮銭は一枚の狂いもなく、正確に樽に満たされた酢の海へと次々に着水していった。

全員が肺腑の限界まで息を止めている。
ここから、生死を分ける六十拍(60秒)の絶対的な勝負が始まった。
それは、その場に居た全員にとって、
恐らく一生で一番長く感じられた時間だったろう。
秒の単位ではない。まるで30分にも40分にも感じられた緊張と苦痛の時間であった。
樽から噴き出す白煙と、鼻を焼き尽くさんばかりの異臭は、ますますその牙を剥くように強くなっていった。
二人の射手は一拍に四枚のペースで銭を弾いた。二十秒で爪が割れ、血飛沫が飛んだ。それでも、銭平と数乃は銭を弾き続けた。
「負けるものか!」
数乃は心の中で叫んだ。
目にも止まらぬ速度で銭が飛んでいく。
その着水の度に、樽の中はまるで湯が沸き立つ沸騰のようにグラグラと激しく動き、底から大きな気泡がゴボリ、ゴボリと湧き出していた。
しかしそれは、お湯が沸く時のように樽の全体が熱されているのではなかった。
数百度という恐るべき高熱に達しているのは、酢の中に沈んだかんざしや錘の銭といった電極の表面、その極小の境界線だけなのである。
樽全体の酢そのものは未だ熱を持っていないにもかかわらず、その電極の周囲の酢だけが一瞬で爆発的に気化し、激しい化学反応のハイドロジエンとともに、大きな音を立てて強烈な酸性の白煙と熱水を猛烈に吹き出すという、きわめて奇妙な沸騰であった。
樽の口から容赦なく跳ね飛ぶ高熱の飛沫が、源内の剥き出しの肌へと次々に降りかかる。
それは単なる熱水の火傷ではなかった。
数100度の熱を帯びて濃縮された酢酸が、触れた瞬間に皮膚のタンパク質を変性させ、組織を内側から激しく焼き溶かしていく「化学熱傷」と呼ばれる恐るべき現象なのである。

同時に、その猛烈な酸は、源内が身にまとっていた着物の繊維までをも容赦なく腐食させ、生地を茶黒く焼け焦がしてボロボロに引き裂いた。
通常の火傷を遥かに超え、酸が衣服を透過して皮膚の奥深くまで浸透していく。
狂暴な飛沫たちが肌に刺さる度に、酸は神経を直接破壊し、源内の衣服と肉体を容赦なく蝕んでいった。
あまりの激痛に喉の奥から悲鳴がせり上がるが、源内は歯を食いしばってそれを必死に抑え込んだ。
ただ、この化学熱傷という難敵は、早期に大量の水で洗い流しさえすれば、組織の破壊は止まり、火傷の跡が残ることもない。
すぐ目の前には、そのための水が無限に眠る井戸がある。
しかし、いまの源内にとっては、そんな自分の肉体を労っている時間などただの一瞬すら残されてはいなかった
木製の樽の隙間からも、耐えきれなくなった白煙と沸き立つ酢が外へと沁み始めている。
銭平と数乃の指には、割れた爪の下から剥き出しになった神経を苛む激痛が湧き起こっている。

だが、樽の元では激しくハイドロジエンが湧き立っているというのに、5メートル先の井戸の鍵穴は不気味なほどに静まり返ったままであった。
30秒になった瞬間、源内は足元の砂を一掴みすると、樽から延びた銅線に、それを軽く降りかけた。
砂は、サラサラと流れて下に落ちた。
「通電しているならば、砂の中の砂鉄がくっつく筈だ。まだ通電していねぇ」
源内は心の中で舌打ちした。
「止め!撃ち方やめ!」
ここで瞬時に限界を見抜いた源内が、懐の手拭いを口に押し当てたまま、狂気と苦渋の決断を乗せて叫んだ。
「エレキテルは生まれている筈だ。しかし、届かねぇ……なぜだ!」
🍸🍸🍸
この物語が綴られている、赤坂オールドタイムのカウンター。
ここまで真剣な顔で聴いていた一華が叫んだ。
🍒「意地悪ね!みんなここまで命がけでやっているんだから、エレキテルなんか、線を繋いであるのだし、井戸まで流してやりなさいよ」

🥕「そんな事言われても……物理の法則の前には情は通じぬ。
これほどの長距離では、電気の通り道である銅線にすべて食われて届かないんじゃよ」
🥃「あくまでも、ここまでの反応速度から弾き出したざっくりとした計算だが、この実験で発生している直流電流の電流値は、優に200アンペアを超えてます」
🍒「現代の家庭用の契約電力がだいたい40アンペアぐらいでしょ?」
🥃「そう。一般家庭ならば実に五軒分が一瞬に消費するほどの凄まじい電流が、今まさにその樽の中で目覚めているのです。
確かにアンペアは高い。しかし、問題はボルトなのです。
つまり、生み出されている電流値は異常なほど高いのだが、押し出す力である電圧が決定的に低い。
亜鉛と白金、そして、酢の組み合わせによる化学反応の限界だ。
恐らくその電圧は、せいぜい単三電池一本程度なのですよ。
そのあまりの押し出す力の弱さゆえに、5メートルの長さの銅線が持つ、わずかな電気抵抗にすら打ち勝てず、電流が途中で完全に消滅してしまっているのですね」
🍸🍸🍸
話しは江戸の時代に戻る。
🎼🎹ここからのシーンに相応しい!曲を見つけてまいりました。宜しければ
お聴きになりながらお読みください。
✏️トッカータとフーガ
(曲 : J.S.バッハ)
(演奏 : 石丸由佳)
「そうか……!」
源内は、一瞬にして通電しない原因を理解した。
樽を井戸に近づけねば……いや、それしか無い。

しかしそれは、樽の内部で急激に増殖しつつある可燃性のハイドロジエンガスと、通電した瞬間に井戸の鍵穴で発生するはずの火花を、限界まで接近させる自殺行為を意味していた。
一度火花がガスに点火してしまえば、音速を超えるハイドロジエンの爆轟、すなわち大爆発は絶対に避けられない。
一方で、樽の酢の中で起きているエレキテルの化学反応も、電極の消費と分極現象によってすぐに寿命を迎えて止まってしまうだろう。
文字通り、一刻を争う。
「みんな逃げろ!走れっ!」
源内は叫んだ。
🍸🍸🍸
せめて仲間たちの命だけは守りたい。彼らを出来るだけ爆風の圏外へ退避させ、その間に己の身を挺して樽を井戸に近づけるのだ。
源内は樽から噴き出す猛烈な酸性の白煙の中に、視界を奪われながらも飛び込んだ。
一斗樽は、内部に満ちた高濃度の食塩を含む酢と、先ほど一気苛鐡に撃ち込まれた240枚もの真鍮銭の重が加わり、60キログラム近い質量へと膨れ上がっていた。
源内は、しゃがみ込み、溢れ出る熱水と酸の劇痛に耐えながら樽を持ち上げようとする。
わずかに樽は空中に浮いた。
しかし、地獄のジュール熱を孕んだその質量は源内の予想を遥かに超えていた。
「うううう!重いっ!」
さらに、科学的な致命傷となり得るもう一つの大問題が持ち上がった。
樽を井戸へ近づけるということは、5メートルの長さに張られていた銅線が、移動した分だけ地面にたるんで零れ落ちるということだ。
もし裸の銅線が湿った地面に触れてしまえば、エレキテルは井戸に届く前にすべて大地へと逃げていく……すなわちアースによる漏電で、すべての苦労が水の泡になる。
線が弛まぬよう、絶妙な張力を保ちながら巻き取らねばならない。
「だめだ!手が足りねえ!手が10本欲しいぜえ」
源内は絶望した。万事休すか。
その時、視界を遮る白煙の向こうから、力強く、そして温かい8本の手が現れた。仲間たちだった。
源内は感激した。
心の底から歓喜の叫びを上げたかった。
源内の合図に従って逃げ出した者はただの一人も居なかったのだ。
発生する酢酸蒸気が、容赦なく鼻腔と目を襲う。会話はできない。
だが、薄目で合図を交わし合うだけで、源内がやろうとした狂気の決断を全員が完全に理解した。
数乃は瞬時にそれを察知して、既に背後から大八車を引っ張って来ていた。
5人で限界を突破した熱い樽を持ち上げ、大八車の荷台へと乗せる。
うっすらと開けた目で互いの息を合わせ、地獄の湯気を立てる樽の中身が溢れぬよう、大八車を4メートル動かして井戸の方向へと一気に寄せた。

樽の乗った大八車は、ついに井戸のすぐ横に並んだ。
源内はすかさず足元の長い竹箸を拾い上げ、弛んだ2本の銅線が湿った地面に触れてエレキテルが大地へと逃げてしまうアースを防ごうとした。
神速の身のこなしで線を巻き取ると、余った部分を樽の酢の中に次々と押し込んでいく。
大八車が井戸のすぐ隣に着いた。ここまでにかかった時間は、まさに計算通りのわずか10秒。
しかし、その10秒の間に樽の中の化学反応はピークを過ぎ、出力が急激に低下し始めていた。電極となる亜鉛の消費と『分極』現象が、エレキテルの寿命を縮めているのだ。
源内は、数乃たちが足元に置いてきてしまった残りの銭の袋を取ってくるよう、眼光だけで おくみ に合図を送った。
常人の数倍の速さで動ける おくみが、一瞬の残像を残して2つの袋を拾い上げ、呼吸一つで戻ってきた。

源内はその袋をひったくると、手真似で一同に樽から全力で離れるように厳命した。
次の瞬間に起きるであろうハイドロジエンの大爆発から、仲間たちを遠ざけるために。
全員が飛び退いて地面に伏せたのと同時に、源内は一気に残りの真鍮銭を、猛烈に泡立つ酢の中にすべて流し込んだ。
直後、樽の底から
ジジジジジジジジッッッ!!!!
という、空気が高熱で引き裂かれるような凄まじい放電音が鳴り響いた。
ジジジジジジジジッッッ!!!!
ジジジジジジジジッッッ!!!!
ジジジジジジジジッッッ!!!!
あまりの怪音に、全員が息を呑む。
次の瞬間、数十センチの銅線の先、井戸の鍵穴の隙間で
「キィィィィィンッッッ!!!!」
という耳を刺すような高周波の通電音が激しく震えた。
ついにエレキテルが銅線の抵抗に打ち勝ち、鍵穴の内部まで到達したのだ。
「やった!!」
しかし、200アンペアという化け物じみた大電流が、鍵穴の鉄に真っ向からぶつかったのである。
そんなものが、タダで済むはずがなかった。
バチィィィンッッッ!!!!
と青白い凄まじい閃光を放ち、周囲の闇を真昼のように照らすほどの巨大変電所さながらの火花が激しく飛んだ。
🎼🎹このシーンに合うと作者が勝手に選んだ曲です。宜しければ、お聴きになりながらお読みください。
✏️ロミオとジュリエット
(曲) : ニーノ・ロータ
(演奏) : レーモン・ルフェーブル
グランド・オーケストラ
【0.02秒の永遠】
数秒後の死を覚悟したその刹那、二人の脳内では『タキサイキア現象…精神医学用語(Tachypsychia)』が巻き起こった。
それは人が死の直前に走馬灯のように人生のすべてを思い出すという、主観時間が爆発的に加速する奇跡の時間であった。
現実にはわずか0.02秒の間の出来事であったものが、二人にはゆったりとした果てのない時間へと変わっていた。
周囲で飛び散る凶暴な火花は、まるで空中に静止したかのように動かない。
爆風の吹き荒れるその極限の混沌の中で、同じく泥に伏せていたおくみは、源内に向かって震える右手を懸命に伸ばした。
お互いを強く想い合う二人の脳内には、互いの感情や思考を我が事として瞬時に伝え合える共感細胞、すなわちミラーニューロンが完全に同期して生まれていた。
現実には、音波を使った声ではない。言わば魂の叫びが、光速で脳内に響き渡る中、おくみを見つめる源内もまた、血に染まった両手でおくみの手を必死に手繰り寄せ、強く握り返した。
「すまねぇ、おくみちゃん。
俺のせいで、お前さんの綺麗な顔を火傷だらけにしちまった。
せめて大量の水で今すぐ流してやれれば、元の肌に戻るのにな、本当にごめんよ。
でもな、たとえ元の超べっぴんさんじゃなくなっちまったとしても、お前さんを愛する俺の気持ちはこれっぽっちも変わりゃしねえ、ずーっと一緒だぜ」
その源内の、脳内に直接響く熱い叫びを受け止めたおくみは、溢れる涙とともに
「いいえ、この任務を半ば強制的にお願いしたのは私です、許してください」
と、激痛に耐えながらこれ以上ない最高の笑顔で微笑んだ。

命を懸けて縮めた、井戸と樽の「ほぼ零」の距離が、消えかけていた電気に最後の一押しを与えた。
その瞬間、現実の世界は狂暴な爆煙と爆音に包まれて激しく荒れ狂った。
しかし、しっかりと結ばれた二人の手を中心に、彼らだけの世界は現実から完全に切り離された……。
時間は静かにピタリと止まった
「福内鬼外さまの、新しい浄瑠璃を、この目で観られなかった事だけが無念です」
おくみは悲しそうに笑った。

「特等席なんかじゃなくてもいい。
立ち見席の外れからでも。
あなた様とご一緒に観劇しとうございました…」
源内は笑った。
「なあに。それならばお安いご用だ。
あの世で、特等席どころか、おくみちゃん1人のためだけの舞台をこしらえてやる。俺たち2人だけの小屋を、な」
「嬉しい!源内さま」
「おくみちゃん」
破滅の淵にあって、恋人たちは互いの瞳の奥にある愛を確かめ合い、これ以上ないほど最高の笑顔を交わし合った。
大地が揺れ始め、地鳴りが轟き始めた。
現実の時間にして0.02秒が経った。
次回【カクテルと余白32】江戸の燕⑩
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🥕ダイデンのイラスト・ひがしりょう
