時間への問い3 共同体OSとしての時間とマルクスが見落としたもの
再びヘーゲルに聞く
前回の議論では、「今」と「ここ」という意識はニュートンの絶対時間が主観の中に示現した状態であると考えられた(注)。ここでまたヘーゲルに立ち返らねばならない。
ヘーゲルを語る場合は『精神現象学』とその後の哲学体系との区別と連関が重視される。
『精神現象学』では、「今」と「ここ」に始まる感覚的確信は共同体において自己意識になるとされる。自己意識は自己の存在を感覚するのみならず、自己の限界や否定的な面も感じるようになる。それによって自己の感覚が外界の偶然的な作用によって変化させられている事を知る。この変化は主観的な時間として認識される。主観的な時間は主観的な感覚でしかない。だが自己意識は教育によって啓発されると、自己を感覚的な存在としてではなく、人格的な概念として認識するようになるのだ。かかる自己概念が精神である。そして個々の精神は歴史の担い手となり、また歴史の作り手として存在するようになる。つまり個人が歴史の形相因として存在するようになるのである。かかる歴史が客観的な時間だ。しかし歴史は精神そのものではない。歴史は時間という精神の運動を媒介とした精神の外化、精神の自己疎外に過ぎない。そこで精神は主観に止まって歴史の一部に落ち込むのではなく、歴史を客観的な認識対象にする事で自己を止揚する。そして世界を学問的に洞察する事で、歴史即ち時間を超越するのだ。その段階が『精神現象学』では絶対知と呼ばれている。実際にはもっと複雑で難解な叙述がされているが、簡単に言えば以上の通りである。そこでは一貫して主観的な意識から客観的な世界が語られている。
『精神現象学』の世界観を現代的な言葉で言えば、自己と世界の情報化となるだろう。つまり自己意識は「今」と「ここ」という個人的な感覚情報に始まり、共同体という情報ソースの中でプログラミングされ、共同体の情報システムの一部となる。それによって自然も文化も、即ち世界全体が共同体にプログラミングされた情報として処理される。しかしその世界では常に疎外感が付き纏う。経験の主体であるはずの自己意識もまた共同体に規定された情報に過ぎないからだ。そして「今」と「ここ」という感覚的確信はノイズとして、無意味な情報として排除される。だが個人は学問することで、今ここにある自分が世界のどこに位置しているのか判るようになる。世界は自己意識を中心に改めて情報化し直される。その時、意識は時間を超えた存在となる。
このように『精神現象学』では、時間が共同体化された世界として捉えられている。時間と意識の関係をヘーゲルになり替わって言い換えれば、時間は共同体のオペレーティングシステムになっているのである。共同体は個人にとって超越的な存在だが、学問によって超える事ができる。そして共同体のOSが時間なのだから、自己意識が共同体を超えれば、時間を超えた事になる。これぞ絶対知である、と。
しかしそんな単純な話だろうか? 学問によって教養を高めれば知性に余裕ができ、徒に「時間に流される」事は少なくなるかもしれない。だがそんな事で時間を超えた事になるのだろうか? 『精神現象学』以後編纂された『論理の学』と『エンチュクロペディ』では、主観と客観の関係は、即自的・対自的・即自且つ対自的な関係へと一新され、{特殊性‐個別性‐普遍性}の三重性の推理が提出されている。従ってヘーゲル自身、『精神現象学』で自らが出した結論に疑問を持っていたと考えられる。
「今」と「ここ」を見落としていたマルクス
『精神現象学』から労働による自己疎外の思想を見出したのはカール・マルクスだった。そこから資本家による労働者搾取の思想に発展し、今日まで続く共産主義が作られた。マルクスは自己意識の外化が労働だと見抜き、そこに時間の概念を加えて、労働の価値が労働時間に比例する事を見抜いた(労働価値説)。そこまでは良かったのだが、彼は自己意識の始まりが「今」と「ここ」という感覚的確信にあるというヘーゲルの重大な指摘を見落としていた。そのため労働の本質を商品の生産としてしか捉える事ができず、共同体を資本家による労働力搾取システム(剰余価値説)に矮小化してしまった。これがマルクス及び共産主義の決定的な間違いである。
人間の自己疎外の原因は、本記事の通り、時間が共同体のOSである事に由来しているのである。
事実、時間はあらゆる国家社会で共通して使われている。かつては陰暦や元号によって、国や文化で異なる時間軸が使われていたが、今では地球全体がほぼ同じ時間軸で動いている。このような絶対的なOSとしての時間がなければ電車も運行しないし、会社の業務もできない。個人の生活もままならなくなる。共同体は時間に合わせて組織され、個人はその世界に合わせて生きている。個人はあらゆる思考、感情、行為を共同体の時間に合わせる事で、個人としての人格を認めてもらえる。それは意識を共同体の時間に合わせる事ができない幼児や高齢者や障碍者が社会的にどう評価されているかを見れば明らかだろう。そして個人が共同体の時間に合わせるために使っているのが「今」と「ここ」なのである。
マルクスが労働に人間の自己疎外を感じ取ったのは、人間は労働において最も多く共同体の時間を意識するからに過ぎない。
要するに個人は「今」と「ここ」を媒介して共同体と繋がっているのである。それによって個人の主観たる「今」と「ここ」に示現していた絶対時間が共同体を支える客観的な時間として機能するようになるのである。そこで個人は自分の時間が搾取されたように感じるかもしれない。自己疎外を感じるかもしれない。しかし個人にできるのはその事実を受け入れる事だけである。
個人と共同体の相互依存関係
逆に言えば、個人が「今」と「ここ」を媒介して自らの絶対時間-それを生命の時間と言ってもいい-を共同体に提供しなければ、共同体は成り立たない。
ミヒャエル・エンデの小説『モモ』では、その関係が時間泥棒として描かれている。『モモ』では否定的に描かれているが、時間泥棒が悪いとは言い切れない。それは人類の歴史を見れば判る。
人類は時間を共同体OSとする事で文明を発展させた。それによって自然支配が可能となった。今日では人類の活動領域は宇宙にまで広がっている。人類が月や火星に居住するようになれば、そこで使われる時間は地球の時間だろう。つまり個人から共同体への絶対時間の移行は、地球を共同体化し、更には宇宙にまで及ぶ人類発展の動力因となっているのである。
これは善悪を超えたこの世の実相としか言いようがない。
続く
注 エルンスト・マッハは「ニュートンにとっては、時間と空間とはなにかしら超物理学的なものであった」と正しく指摘している。――『時間と空間』野家啓一編訳 法政大学出版局1977
いいなと思ったら応援しよう!
あなたの貴重な時間をいただき、ありがとうございました。楽しめたら寸志を!