時間への問い2 相対性理論の「今」
相対性理論の「今」
ヘーゲルの世界は感覚的な確信である「今」と「ここ」から始まる。先ずは時間について説明しよう。空間については改めて述べる。
「今」は主観的な意識状態だが、その主観が客観的世界では自他に共通する「時」として存在しているのである。
にわかには信じられないかもしれないが、客観的世界の時間は、個々の人間の「今」という主観によって作り出されているのである。アリストテレス的に言えば主観的な「今」が客観的な時間の形相因ということである。
更に言えば、客観的な時間の目的は主観的な今を再措定する事である。現代的な言葉で言えばアップデートだ。実際、我々は多くの場合、客観的世界の時間に合わせて生きている。それによって主観的な「今」が再措定され、意識が更新されているのである。我々が「時間の流れ」を感じるのは、このアップデートが進行している時である。
このような定義をすると、多くの時間論はここから主観的な認識論として議論されてしまうが、客観的に存在する時間はあくまでも物理学として議論されねばならない。
相対性理論では時間の積は、重力が大きいほど少なく、重力が小さいほど大きいとされる。だから地球の重力の影響を大きく受ける地表より上空の方が時間が早く進む。また重力は速度に比例して大きくなるので、高速で移動している宇宙船の中では地球より時間が遅く進む。そのため光速で移動する宇宙船の乗組員が地球に帰って来た時には、地球人は数十年歳を取っているのに、乗組員はほとんど歳を取っていないという現象が生じる。この場合、乗組員が経験している今と地球人が経験している今は、同じ今なのか違う今なのか?
答えは同じ今である。
ではなぜ同じ今を経験しているのに、乗組員の時間と地球人の時間が数十年も違うのか?
それは時間とは「今と今の間の量」だからである。
相対性理論の遅延効果で延びたのは今と今の間の量であり、主観的な今は全く変化していない。物理学的には、時間とは地球の自転や原子の振動やレーザー光の周波数といった物理的共通事項で計られる量である。そして主観的な今は客観的世界の共通事項である。という事は、主観的な今こそが物理的な時間が成立する条件、即ちニュートンが想定した宇宙的な絶対時間という事になる。主観的な今が絶対時間だからこそ、相対性理論における客観的時間の変化が可能なのである。
相対性理論が証明したのは主観的な「今」に媒介されて客観的な時間が生成しているという宇宙の構造であり、主観的な今の物理性だったのである。
宇宙船乗組員と地球人との間でズレたのは客観的な時間であり、主観的な今は変わっていない。即ち人類が個人の主観としか思っていない「今」とは宇宙の絶対時間による意識の規定なのである。
相対性理論はニュートンの絶対時間を否定したのではなく、よりパワーアップした形で蘇えらせたのである。
「今」の二大流派
思想的には「今」には二つの解釈がある。
自由意志派 ベルクソン 岡本太郎 一目山人
時間を意識として捉え、哲学的意味を求めたのはベルクソンだった。彼は時間を意識の持続と定義した。そう考えると、時間は意識を有する個人各々に与えられている事になり、時間には個別性がある事になる。ヘーゲル的に言えば推理の形式たる{特殊性‐個別性‐普遍性}の個別性に注目した考え方だ。
ベルクソンの考え方によると、個人の意識として現象する個別的な時間こそが自由の根拠であり、自由意志に他ならない。その自由意志と化した時間の持続が個人を特殊性ある人格へと進化させ、かかる自由で特殊な個人が同じ条件を持つ他者と協同で作り上げているものが社会であり文明という事になる。
そして時間の持続とは空間のように均質な状態が続くという意味ではなく、特殊な時間が瞬間ごとに生起しているとされる。時間が瞬間ごとに意識を創り、世界を創っているという考え方である。その瞬間がベルクソンにおける「今」である。
これは彼自身が後に展開した『創造的進化』に通ずる考え方と言えるが、哲学的にはもっと深い考え方である。瞬間ごとに新たな時間即ち意識が生起するのだから、そこには自らの過去を悔い改め、誤りを正す自由も存在するからである。
ベルクソンの考え方は、時間と自由意志を結び付け、科学的決定論を克服しようとしたものだった。人間主義的なその思想は実に魅力的である。
「瞬間は永遠だ」と喝破した岡本太郎の言葉も、ベルクソンに通じるものだろう。
また株価の分析に使われる一目均衡表もベルクソンの考え方と同じだ。一目均衡表においては、株価を変化させるのはファンダメンタルズでも需給関係でもなく、時間だからである。一目均衡表の作者・一目山人の天才に驚くしかない。
無時間派 ヘーゲル 道元 日本刀
一方、「今」は無であるという考え方がある。
ヘーゲルも、「今」は意識としては即自的な意識、即ちそれ自体では内容空虚な無でしかないと規定していた。時間的な存在を持たない無である。これをヘーゲルとは無関係に追求した思想が禅である。道元はそのような今を「而今(にこん)」と呼び、そこに仏の実相を観じた。道元の而今を時間的な無と理解しても決して間違いではないであろう。
今とは無の時間なのである。
しかし時間が存在しないのは恐ろしい事だ。とても衆生の欲するところではない。
そこで禅では、公案を使ったり、絵画を使ったりして、無の時間を示そうとして来た。禅的世界を表した水墨画は時間なき世界の景色と見る事ができる。
今はまだ知る者は少ないが、日本刀にはそんな無の時間が、これ以上ない形で表されている。
日本刀作りにおいてはどの瞬間も間違いが許されない「今」である。一振りの刀身にはそんな今が無数に凝縮している。それが焼き入れを終え、日本刀として完成した時、作者の意識は否定され、無数の今も消滅する。今という無の時間が個人の意識を離れて客観的な時間に帰ると言うべきか。代わって刀身に「無の時間」としての「今」が示現するのである。
従って日本刀の景色は、水墨画のそれ以上に、而今の実相を表していると言える。
現在の刀剣鑑賞においては、ことに刃紋の研究が遅れている。日本刀は初心者ほど地鉄に目が行きやすい。確かに日本刀の地鉄はそれだけで宝石以上に美しいものではある。しかしそれは日本刀の質料に過ぎない。日本刀を日本刀たらしめているのはその形相、即ち姿と地刃の働きだ。特に刃紋は水墨画と同じ時間無き世界の山水として見る事ができる。映りも地沸も刃紋がなければ刀の形相にはならない。
質料より形相を上位に置くのは、古代ギリシア以来、哲学の王道である。そのような見方で日本刀に接すると、無の形相とでも呼ぶしかないヘーゲルや禅における無の時間、代替不可能な「今」を体験できる。
このように無の時間としての「今」は、言語的に知解されるよりも、芸術鑑賞や何らかの意識的な活動を通して、実践的に経験されるものなのである。
続く
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あなたの貴重な時間をいただき、ありがとうございました。楽しめたら寸志を!