【エッセイ】【映画】Like a Hurricane 成瀬巳喜男「乱れる」を観る
ルーティンに過ぎないはずだった——。
大みそかは早稲田松竹で映画を観て、そのまま渋谷・百軒店の名曲喫茶ライオンで“人類の至宝”、フルトヴェングラー指揮・バイロイト祝祭管弦楽団によるベートーヴェンの第九を聴いて一年を締めくくっていた。長い間変わらぬ年越しのルーティンである。早稲田松竹ではこの時期、だいたい古い日本映画がかかっており、昨年は大好きな成瀬巳喜男の大好きな「乱れる」(1964年)が締めの一本だった。優に15回くらいは観ているのではないか。今さら何かを期待していたということはない。破滅にいたる物語は熟知しているし、なんなら後半の方はカット割りも頭に入っている。それだけにこんなにも激しく心を揺さぶられたのは意外であり、不意打ちのようでもあった。年を明けても尾を引いており、とりあえず筆を執ることにした。いつか書きたいとひそかに夢見ている、本格的な成瀬巳喜男論の乱雑なメモのようなものでも構わないので。

主役の高峰秀子の夫である松山善三の手になるオリジナル脚本は、当時の世相を巧みに取り入れている。舞台は静岡県清水市(現静岡市清水区)の商店街の酒屋。高峰秀子演じる戦争未亡人の礼子が切り盛りしていが、近所にスーパーマーケットが出来たこともあり、客足は遠のいている。跡取りの義弟加山雄三演じる幸司は大学卒業後に就職した会社を半年でやめて実家に戻って来た。三流大学のようなことを言っているが、大学進学率が12%程度だった時代の大卒である。ぶらぶらと無為な生活を送る義弟の将来を案じる礼子。ただこののらくら息子、時代の変化は敏感に感じ取っており、個人経営の店をスーパーマーケットに転換する計画を抱いていた。功労者である義姉を役員に迎えたい幸司と、この際厄介払いしたい実姉たちとの確執。地方都市の抱える問題ということでいえば、街中のスーパーをロードサイドのショッピングセンターに変えれば、現代でもそのまま通じる設定であろう。
このストーリーの外枠に、ドラマの核心として、義理の姉弟の“禁断の愛”が絡む。18年前、山形県の新庄から清水に19歳で嫁いだ礼子。幸司はまだ7歳の子どもだった。わずか半年の新婚生活、夫の出征と戦死、そして空襲で焼失した店。焼け跡にバラックを建て、闇屋までして血のつながらない父母、妹弟を支え、店を立派に再建した、11歳も違う義姉への敬慕は、いつしか恋愛感情に変わっていた。戦死した夫のため“操を守る”という心情は、現代の日本人はもとより、高度成長期真っただ中の当時の人々にも、自明のものとして了解可能とはいい難かったであろう。映画ではこの辺りの感情の機微をくどくどと説明することはない。「義姉さんは18年間この家の犠牲になった」と繰り返す幸司に、「あなたとは生きた時代が違う」、「理屈を言えば負けるに決まっている」などと礼子は素っ気ない台詞で言い返すに過ぎない。
私見では、日本人の生活文化、心性の変化としては、敗戦前後よりも、高度成長期前後の方により大きな断絶があるように考える。
「乱れる」には構成上、二つの山場があるように思う。一つ目の感情の炸裂は映画のほぼ中ほど。ある夜のこと、義弟のだらしない女性関係、暮らしぶりをいつものように咎める礼子に、幸司が真情を吐露する。「仕事をやめたのは義姉さんのそばにいたかったからだ。ずっと義姉さんが好きだったんだ」。あまりに突然の、そしてあまりに真っ直ぐな義弟の告白に礼子はただ驚き戸惑う。「やめて!」。石井長四郎の緻密なライティングと相まって、成瀬巳喜男の演出が冴え渡っている。感情の揺れを伝える人物の移動、そして心の奥底を照射する逆光の美学——。
この夜の出来事を境に、姉弟の関係性は変化する。人が変わったように真面目に働く幸司だが、二人のやりとりはぎこちない。礼子は募る幸司への思いと、自分がいては酒店をスーパーにする計画の邪魔になるとの二重の葛藤から、一計を案じる。「私には好きな人がいる。この家を出て人生をやり直す」。親族を集めありもしない話をする礼子。そしてその日のうちに郷里へ帰る列車に乗るが、礼子は目を疑う。礼子の後を追い、同じ列車に乗りこんできた幸司の姿がそこにあった——。
ここから約20分、ラストの悲劇までは一直線である。潔いほどに。破滅に向かう男女の「道行」ということになるのだろうが、見事なまでに外面的な事件は起きない。清水を出たばかりの列車は混みあい、幸司は通路に立っているが、やがて少しずつ席が空き、二人は近づく。内面の繊細なドラマは、ここでも人物の位置の移動と視線のやりとり、何気ない動作で表現されている。二人は上野で夜行列車に乗り換える。「義姉さんはどうして新庄みたいな遠いところからうちに来たの?」「戦争中、勤労奉仕で清水に来ていたの。その時、お義母さんと知り合いになったの」。この二人、こういう重要な話も、この時が初めてだったのだろう。
何十年も前に初めて観た時から大好きなシーンがある。いつもこの場面になるのを楽しみにしている——夜の閑散とした駅のホーム、停車時間に立ち食いそばをかきこむ加山、一緒に食べようと車内の高峰に手招きする、もう発車するから早く戻れと窓越しにゼスチャーで伝える高峰、まだ大丈夫と手振りで応える加山、発車のベルが鳴り席に急ぐ——たったこれだけのシーンである。なんでそんなに好きなのか、考えたことがある。結局のところ、私はもっぱら無声映画的な表現に心を動かされるということなのだろう。それは無声映画に対する素養、教養のない映画作家にはまったく興味がないということでもある——夜が明ける。幸司の寝顔を見つめていた礼子の目に涙が。「どうしたの?何泣いているの?」。幸司は礼子の横に。ここで初めて二人は至近のポジションになる。「次の駅で降りましょう」。そして初めて女がイニシアティブを取る。「私だって女よ。幸司さんに好きだって言われた時、正直に言えばとってもうれしかったわ」。二人はバスで銀山温泉に向かう——その夜、温泉旅館の一室。礼子はよった紙を指輪のように幸司の右手の薬指に巻き、明日の朝一番、清水に帰るよう諭す。「義姉さんが好きだ」。再び愛を告白する幸司、ひしと抱き合う二人、泣き崩れる礼子。「堪忍して!」。礼子はどうしても一線を越えることが出来ない。堪らず旅館を飛び出す幸司。居酒屋で痛飲する。店を出て、夜の闇に消えていく幸司の後ろ姿——翌朝、旅館の部屋から外を見下ろす礼子。筵で覆われた男の遺体が担架に乗せて運ばれてくる。胸騒ぎ、目で追う礼子、指輪が巻かれた右手の大写し!礼子は旅館を飛び出す。「お連れさんらしい方が崖から落ちて……」。純然たる事故なのか、自死に近い事故なのか、もちろん説明されない——私にとって成瀬巳喜男とは、ここぞと見定めて、必ず勝負を打ってくる監督である。潔いほどに——幸司の亡骸に追いすがる礼子、走る、走る、そして呆然と見送る高峰のクローズアップ。嵐のような名ラストシーンである。
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