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国宝指定から30年の「臼杵石仏」を訪ねて

大分県臼杵市に所在する臼杵石仏は、平安時代後期から鎌倉時代(12世紀末~14世紀前半)にかけて彫刻された摩崖仏群です。

1995年以降、合計61体が国宝に指定されており、磨崖仏群としては、日本で最大かつ唯一のものです。

臼杵石仏の場所
(Google Earth)

「臼杵石仏」が造られた経緯
大規模な摩崖仏群にも関わらず、資料や文献は残っておらず、この地に多くの石仏を造った人物や理由等は、今でもはっきりしていません。

ただ、当時は臼杵石仏を見下ろす場所に「満月寺」という天台宗の大きな寺院があり、いずれも、藤原氏の流れをくむ九条家(注1) を領主とする「臼杵荘」と呼ばれる領地にあったことから、

(注1) 九条家は、天台宗の総本山である比叡山延暦寺とも深い関係を持っていた

臼杵石仏
《大分県臼杵市深田》
(Photo by ISSA)

九条家が、京都から仏師(注2) を呼び寄せ、満月寺の創建時に併せて、石仏群の製作も行わせたと考えられています。

(注2) 仏教美術の研究者によれば、臼杵の石仏群には、平安中期に京都で活躍した仏師によって確立された技法や、石造なのに木彫に見える技法など、地方の石工の作とは一線を画す洗練された高い技術がうかがわれ、京都や奈良の一流の仏師が製作した可能性があるという

この一帯は、石仏群を「あの世」、満月寺を「この世」に見立てた、当時の浄土信仰を体感できる空間だったと推定されています。

臼杵石仏
《大分県臼杵市深田》
(Photo by ISSA)

摩崖仏は、一時衰退へ
その後、磨崖仏は山岳仏教の衰退と共に忘れ去られ、数百年にわたり風雨に曝され続けることとなりました。

元々、阿蘇山からの火砕流が溶結した凝灰岩に掘られた石仏は脆く、雨による浸食を受けた一部の石仏では、特に下半身の損傷が目立ちます。

臼杵石仏
《大分県臼杵市深田》
(Photo by ISSA)

石仏群の案内
石仏群は4群に分かれ、それぞれ、ホキ(注3) 石仏第1群、ホキ石仏第2群、山王山石仏、古園石仏と名づけられています。

(注3) ホキ(岸險)とは、「崖が切り立って非常に険しいこと」を意味

臼杵石仏周辺地図
《大分県臼杵市深田》
(Photo by ISSA)

参拝に際しては、入口にある清浄香を浴びて、心身を清めてお参りします。

臼杵石仏の入口
《大分県臼杵市深田》
(Photo by ISSA)

ホキ石仏第2群
最初に到達するホキ石仏第2群は、阿弥陀浄土を表した空間で、阿弥陀三尊からなる第1龕と、九品阿弥陀からなる第2龕により構成されています。

第1龕の阿弥陀三尊のうち、中央の重量感のある阿弥陀如来像は、臼杵石仏の中でも最も優れた石仏のひとつとされています。

ホキ石仏第2群第1龕「阿弥陀三尊像」
《大分県臼杵市深田》
(Photo by ISSA)

この阿弥陀如来座像は、彼岸の日に、朝陽が水面で反射して当たるよう位置が計算されているそうです。

第2龕は、やや小さめの9躯の阿弥陀如来像が刻まれています。

ホキ石仏第2群第2龕「九品の弥陀像」
《大分県臼杵市深田》
(Photo by ISSA)

ホキ石仏第1群
第2群の先にあるホキ石仏第1群は、4つの龕に分かれています。

第1龕と第2龕は、共に如来坐像3躯を配し、第1龕は更に脇侍菩薩立像2躯を配しています。

ホキ石仏第1群第1龕「如来坐像」
《大分県臼杵市深田》
(Photo by ISSA)

第3龕は、金剛界大日如来坐像を中心に、その左右に1躯ずつの如来坐像、更に左右に1躯ずつの菩薩立像を配しています。

第4龕は、左脚を踏み下げて坐す地蔵菩薩像を中心に、その左右に十王像を配しています。

山王山石仏
更に進むと、山王山石仏が見えてきます。中央に大きな如来座像を据え、左右には脇尊としての如来座像を配す珍しい形式をとっています。

邪気のない童顔が印象的で、見る者の心を和ませてくれます。

山王山石仏
《大分県臼杵市深田》
(Photo by ISSA)

古園石仏
そして、最後は古園石仏です。こちらは、曼荼羅を構成する臼杵石仏の中心的存在です。

古園石仏

特に中尊の大日如来(注4) は、端正で気品あふれる表情が各方面から高い評価を受けており、

(注4) 天台宗・真言宗で宇宙そのものを示す仏

日本の石仏の中でも最高傑作の一つとされています。

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運慶との関係は?
平安時代後期から鎌倉時代といえば、東大寺・南大門の金剛力士像をわずか69日間で完成させたといわれる天才仏師・運慶が活躍した時代と重なりますが、

果たして運慶の作風が影響しているのでしょうか。

過去、そのことを論じた書物が刊行されており、

大変、興味深いテーマではあるのですが、

運慶の活躍は、臼杵石仏より少し後の時代だったことや、表現の違い、及び運慶は木像を好んだこと等から、

学術的には運慶と臼杵石仏の関連性については否定されているようです。

なお、akiyochan 様によれば、「運慶仏は、背中にもの凄い迫力がある」んだそうです。

今後は、石像や木像など、ちゃんと背中まであるものについては、裏側もしっかり見るようにしたいと思います💡

おわりに
いったい、誰が、どんな目的でこれらの石仏群を製作したのかーーー。

冒頭で述べたとおり、このことは未だ歴史の謎として残されているのですが、

少なくとも、人々の救済と平穏な暮らしを一心に願って創られたことは間違いなさそうです。

無心になって、一心不乱に製作に集中する(=今に集中する)ことが、あらゆる迷いを払拭する一番の方法である。

様々な石仏の御姿から、当時の仏師たちが、数百年の時を超えて、今を生きる私たちにその事を伝えようとしているような気がしました💡

一見の価値がありますので、近くに行くことがあれば、是非、訪れてみてください。

いつも、ありがとうございます🍀