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本を読むために遠くへ行く。

はじめに

 「読書旅」と称して家でも読めるはずの本をわざわざ時間をかけて読みに行く旅をかれこれ3年ほど続けている。 優雅なエッセイを期待するかもしれないが、私がしているのは始発に飛び乗り、1本でも遅延や乗り過ごしが発生すると目的地に辿り着けないチキチキ読書旅である。

 私は本を読むのが好きだ。未就学児は絵本を読みながら車で登園し、小学生の頃は、ハードカバーのハリー・ポッターシリーズを読みながら通学してたまに電信柱にぶつかっていた。大学生になり、片道1時間半の慣れない電車通学では安らぎを求めるように本を読み、最寄駅を過ぎてもそのまま読み続け、慌てて終点で折り返して帰ってくることもあった。大学生という世間で示すところの“モラトリアム”を終え、社会人になっても毎朝の通勤時間は読書に充当した。しかしながら、それは一時間足らずで途切れ、朝の電車で深く入り込んだ物語は、無慈悲にもオフィスに着く前に引き剥がされる。そのたびに、風邪をひきそうだった。帰りの電車では仕事に疲れ、思うように潜れず、文字が目の前をすべっていく。休日は、疲れを抜くことと意味もなくスマホの画面を眺めることに消費された。このままでは本が読めなくなってしまう。そのような危機感を覚えた。


「もっと腰を据えて本を読み続けたい」


 社会人1年目の4月、仕事を終え、身を縮こませて電車に乗っている時に、不意に大学生の頃の本を読んで終点まで乗り続けてしまったことを思い出した。そのとき、本を読みたければ電車に乗り続ければいいじゃないとでも言わんばかりの閃きが降ってきた。これしかない、当時はそのように思えた。それ以来、本を読むためだけに遠くへ行くようになった。

香川編

 曰く、青春18切符を使えば、愛知から香川は日帰り往復ができるらしい。読書旅をするために地図アプリを眺めていたとき、小学生の頃に聞いたその話をいまさら確かめようと思った。調べると滞在は90分ほどになるが、往復は可能だった。そうと決まれば、出かける準備である。

 なるべくスマホを見ないで過ごすために、測量野帳に乗換やホーム、車両数を書き出していった。線路をなぞるように文字を並べていくうちに、まだ出発していないはずの旅が、既に始まっているような気がしてくる。それは慣れない仕事に疲弊しかけていた日常から、無理やり身体を引き剥がすようでもあった。荷物を詰める手つきは、『エルマーの冒険』の冒頭で少年が支度をする場面をどこかでなぞっており、心が躍った。

 翌朝、始発に乗り込んだ。いよいよ読書旅が始まってしまう。出かけると決めてから青春18切符の使用期限までに時間にあまり余裕がなく、後先考えずに準備を進めてしまったため、座席についてから漸く実感が湧き始めた。滞在時間90分の旅行なんて今までしたことがなかったし、もっと言えば一人で遠出も数えるほどしかしてこなかった。私には助ける竜はいないけれど、これでは本当に冒険のようではないか……。始発の電車は、昨日の終電ぶりの乗客を迎えるため静謐としていた。かすかに涼しげな空気を思い切り吸い込み、肺胞を満たした。膝にかかる荷物の重みを受け止ながら座席に腰を下ろし、本を開いた。

 そこから先は、ほとんど頁をめくる時間だった。終点まで乗り続け、3度ほど乗り換えを挟む。読めていなかった分を取り戻すように本を読み続けた。ふと顔を上げると、窓の外に瀬戸内海が見えた。教科書で見たとおり本当に地中海式農業をやっているんだ、本当に斜面にオリーブを植えているんだと感心しつつ、車窓もほどほどに本を読み続けた。

 復路では終点の数本前に最寄り駅に戻ってくることができた。家に戻ってきた私は、初めて10時間以上電車の椅子に座り続けた疲労感のほか、遠くまで行けた満足感と、大好きな本を抱えるだけ抱えて旅をした充足感に満ち足りていた。一方で香川へ行ったはずなのにその実感はほとんど残っていなかった。ただ、今後の読書旅に向けて心は浮足立っていた。

 この日を境に私の部屋には「読書旅で読むための本」による積読タワーが建築され始めた。この積読タワーは増築や減らすだけでなく眺めているだけで幸せな気持ちになれる。

東京往復編

 年末、本を読むためだけに東京を往復した。これまでの「読書旅」は読書旅だと言いながらも、行く先々で観光をしていたけれど、今回は純然たる読書旅とするために、東京と愛知のあいだを円を描くように一周することにした。往路は中央本線、復路は東海道本線で読む旅程だ。目的地はないため、本を読むこと以外に、何も起こらない旅である。12時間近くかけて、763キロを移動する。一見長く思える距離や時間も、移動のための移動ではなく、読むための移動だと思えば、むしろ足りないような気さえしてくるから不思議だ。

 読書旅では旅程ごとに鞄を使い分けており、次の2つのうちのどちらかを使う。
 1つは登山用の50リットルのリュックで、1泊2日以上の際に利用しており、ボーイスカウトに所属していた時に愛用していたものだ。かつてはテントやコッヘル、ロープ、ハンドブックを詰めていたリュックは、いまは紙の束が詰め込まれている。
 もう1つはトートバッグで、A4の書類が収まる程度のものだ。大学生の頃はポケット六法や基本書や判例集等を詰め込んでいた。トートバッグはあの頃と同じ重さ(なんなら少し超過している)の読書旅を支えている。

 どちらの鞄を使う時も、到底読み切れるはずのない冊数を入れるのが好きだ。ハードカバーを数冊、文庫を数冊、それに電子書籍を廿冊分。選ぶためではなく、逃げ道を塞ぐために持っていく。日常生活でも、メインの文庫本とは別に予備の本を鞄に入れているので、私の読書旅はその延長にあるといえる。
 今回は日帰りなので、トートバッグを選んだ。それでも持ち上げると、ほんの一瞬だけ、手が止まる重さがあった。

 車窓から差し込む西日を背に受けながら、『アンと幸福』を読み終えた。中学生のころ、塾までの時間調整のために駅ビルの本屋に立ち寄るのが好きだった。そのとき買った数少ない小説の一つが『和菓子のアン』である。本作はそのシリーズの1冊で、思い入れのある作品を腰を据えて読める環境で読めたことは、この旅の目的にかなっていた。

 東海道本線の鈍行で長距離移動をしたことがある人は共感していただけると思うが、東海道本線の静岡県のなんと長いことか。終わりの見えない車窓を眺めていると、どこへ向かっているのかより、どこまでも移動し続けている感覚だけが残ってくる。景色が変わらないまま(静岡県民の方、ごめんさい)、終わりの見えない直線を、ただ進み続けるような感覚がある。気分はさながら銀河鉄道や谷崎潤一郎の『細雪』だ。そのあいだ、ひたすら本を読む。静岡の長い長い復路を『すばらしい孤独 ルネサンス期における読書の技法』だけが私に寄り添ってくれているようだった。本書曰く、ルネサンス期の人文主義者たちは読書を通じて古の偉大な知性との精神的対話を行なっていたと言う。私もまた静岡県を横断しながら、その物語や自己との精神的な対話をしていた気がする。

 読むことしかやることがないから読むのではなく、読むことしか許されていないような気がしてくる。ページをめくる手を止める理由がない。止めたところで、外には同じ景色が流れ続けているだけだからだ。読書旅は好きなだけ読める旅であり、同時に読むことしかやることがない旅でもある。「車窓を眺めたり終点まで昼寝をしたい……うっ、それでも鞄には山のように本が入っている」この感情さえも愛おしく感じてくる。ページをめくり続けるうちに、「読む」ということが、目的というより前提になっていく。豊橋駅で降りたとき、身体だけが先に現実に戻っていて、意識はまだ本の中に取り残されているようだった。駅近くのカフェに入り、ソファに身を沈めた。いつもであれば万人に愛され、すっかりへたってしまい座れば骨組みを感じるそのソファが、この日ばかりは高級ソファのようだった。そこでようやく現実に戻ってきたような気がした。どっと疲れたのである。心地よい疲労感と、読書と現実の狭間を歩いているような心地がした。

本州北上編

 豪雪の心配をしなくてもいいくらいには暖かくなった3月、青森まで読書旅をした。仙台までは鈍行で向かい、そこからは新幹線に乗り換え青森駅を目指した。帰路は航空機で神戸まで飛び、そこから再び鈍行で愛知へ戻る旅程だ。それまでの読書旅は、座れることを前提に組んできたが、今回は一味違う。「上野東京ライン」を経由するのだ。関東圏に在住の方には何を身構えているのかと思うかもしれないが、愛知県でのんべんだらりぬくぬくと暮らしている私にとって、東京及び神奈川の満員電車は絵本に出てくる食べ物より遠い存在だった。途中下車と乗換を挟みながら、混雑する区間を通り抜けなければならない。東京の平均乗車率は139パーセントとも言われている。その中で、重量のあるリュックを膝に抱え、ハードカバーを開き、なおかつ終点ではない駅で降りる――そんなことが本当に可能なのか、見当がつかなかった。そもそも、読めるのかどうかさえ怪しかった。それでも横浜までは余裕だろうと『小さなことばたちの辞書』を開いた。

 この旅を始める少し前、私は昼休みになると職場近くの書店で過ごしていた時期があった。その本屋はどこにでもある大型書店で、全国の図書館はこの本屋の本の配置や検索機械の置き場を参考にしているという噂のある「あの書店」である。入口から、左手に平積みの新刊、本棚の新刊、国内・外国文学、写真集、文庫、壁面に新書……と並ぶその書店はまさにオアシスであった。とりわけ、私はここの「外国文学」の棚を舐めるように見るようになった。新潮クレストブックスや白水社、東京創元社、国書刊行会等々、お気に入りの出版社も増え、この本いいな!と手に取り、自宅の蔵書を確認すると既に購入済みで積読タワーの一部になっていることも少なくなかった。『小さなことばたちの辞書』は、その最中に購入した本であった。読み進めるにつれて、周囲の人口密度も増していった。この日は平日で、品川から大宮を通り抜ける時間帯はちょうど退勤ラッシュと重なっていた。そわそわしながらハードカバーを外側のポケットにしまい、衣類のポケットに入れていたスマートフォンを取り出し、電子書籍版の『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』を開いた。文庫本も考えたけれど、完全によそ者である私が満員電車の中でリュックの中からあれこれ本を入れ替えるという行為は、あの時は至難の業に思えた。普段は紙媒体愛好家を標榜しているけれど、この日ばかりは電子書籍のありがたみを感じざるを得なかった。 『ハリー・ポッターシリーズ』は、幼少期の頃と今とで肩入れをするキャラクターが変わってくることや、情景描写への感想が異なるからいつ読んでも面白い。古希になってもハリーポッターシリーズを読み続けていたい。大宮を抜けるころには文字を追うことに慣れ、程なくして尻尾爆発スクリュートに吹き飛ばされるようにその日の宿泊地である黒磯駅で降りることに成功した。満員電車を経路に組み込むのは今後はやめることを固く胸に誓った。

 北関東で1泊し、翌朝、日の出前の始発に乗った。寄り道をして会津若松へ向かう道中、雪が降っていた。道中の車内では『十二国記 白銀の墟 玄の月 第一巻』を読んだ。私が『十二国記』を読み始めたのは十数年ぶり待望の続編が発売されたまさにその時である。新潮社ビルの壁面いっぱいの、固い表情の青年と「泰麒、帰還」とだけ書かれた大きな広告を見て、大変なことが起きていそうだと何も知らないながらも浮足立ったのを覚えている。大学の教授から熱烈な布教を受け、その世界の虜になるまで半月もかからなかった。

 しんしんと雪が降る中、わずかに見える朝日を車窓から眺めた。固くなった雪の上に新雪が重なり、風で新雪だけが舞う情景を見て、国が荒廃するなか肩を寄せて暮らす戴国の民や泰麒も同様の景色を見ていたのかと思うと感慨深いものがあった。車窓から飯盛山を見ることは叶わないが、さしずめ飯盛山は涵養山といったところだろうか。

飯田線完乗編

 少し肌寒さの残る3月。読書旅の初心に返るべく、乗り換え回数の少ないルートを調べたところ飯田線がヒットしたので、名古屋から中央線で辰野まで登り、辰野から豊橋まで降りる飯田線完乗読書旅を決行した。飯田線は6時間乗車するうちの乗り換え回数は0回、多くても1回である。本当にひたすら読んでいればよい、なんて素敵なことだろうか。

 この日は『十二国記 白銀の墟 玄の月 第四巻』と『Spring』と電子書籍複数冊をもって始発に飛び乗った。『Spring』は恩田陸が書くバレエ界を舞台にした小説である。私が読書好きになった理由の1つに絵本専門店の偏屈店主との交流がある。幼少期は無口ながらも優しい店主という印象だったが、蓋を開けてみれば読書好きの人付き合いが苦手な偏屈店主だと言うことがわかった。また、この本屋は、絵本専門店でありながら、絵本でもなければ児童書でもない本が陳列されている棚がある。『ルリユールおじさん』や『ナルニア国物語』『ガラスのうま』などが並ぶ隣に『蜜蜂と遠雷』や、ぱっと見ただけでは連関性のない新書や文庫等がみっちり入っている棚である。それは偏屈店主の私的厳選図書であった。そして不思議なことに私はその本棚に吸い寄せられることが多かった。それらをレジに持って行くとその店主は嬉しそうに「わかってるね〜」というのだ。恩田陸の作品を読み始めたのは偏屈店主が「多分好きだよ」と『蜜蜂と遠雷』を薦めてくれたところからだ。『蜜蜂と遠雷』は内容は勿論、ハードカバーの装丁が本当に素晴らしかった。カバーをめくり、表紙と花布としおりを見た時、まさかあの店主はここまで見越した上で薦めてきたのではないかと驚いた。真相は確認していないが、多分見透かされているような気がする。

 電車で本を読むことの利点は2つある。1つは誰にも邪魔をされずに読めること。2つ目は車窓を呆けながら見ることに理由が生まれる点である。片道6時間以上も乗っているのだから、正直ずっと読んでいるわけにはいかない。時には伸びをしたり、頭を休めることもある。腰を据えてどっぷり読むと決めた時、緊迫したシーンを「次は~(最寄り)駅~」や、「このあと乗り換えないとな」などに遮られることは通勤中や出かける中での読書では当たり前のことだが、実際のところはストレッサーとなり鬱屈は蓄積していく。ところが、ことに読書旅では(とりわけ飯田線のように乗り換えが1回もない電車に乗ってしまえば)、文字通りずっと読むことができる。どこまでも深く深く潜り込める。かつて、『同志少女よ、敵を撃て』を一気に読み通した日は、びゅうびゅうと北風が吹きすさぶ中、大学の誰もいない薄暗い研究室で足元ヒーターとブランケットをかぶりながら物語に熱中した。あのときの凪ともいえる静けさの中をセラフィマと一緒にレニングラードを駆け抜けた疾走感は、何とも言えない満足感が私を満たした。今思えば、電車の中で本を読むのが好きなだけでなく、静かに物語に打ち込める環境が欲しかったのだと思う。私は静かに本とともに沈める場所を探している。大学を卒業し、満足に本を読む場所は薄暗い研究室から縦横無尽に駆け巡るJR列車に変わっていった。


2026年版飯田線編

 私は「18切符読書旅」と称して社会人になってから様々なところへ出かけていた。宇奈月温泉へ赴いた復路で岐阜を縦断したこともあれば、鈍行で4日間かけて北海道を1周したこともある。17時間かけて別府まで読み続け、フェリーで大阪入りして紀勢本線をなぞるように帰ってきたこともあった。これらの旅は純然たる読書だけの旅行ではなく、行く先々でかねがね訪れたかった場所へ出向き、読書旅とは名ばかりの数多くの人情あふれる体験もした。今回は触れないが、こちらもいつか記録にしたいと思う。

 3年以上このような旅をしていると、職場の人との「かなどめさんは電車で旅行をするのが好きなの?」「いいえ。私は電車のシートで本を読むのが好きで、そのためにあちこち出かけているのです」というやり取りの信憑性が薄くなってきていた。

 私はこれまでの電車旅を思い返し、一番読みやすい環境はなんだったのか、初心に返ることにした。乗換なしで乗り続けられる「飯田線」である。ただし、今回は18切符を使わずにJR東海のお得な切符を活用して、天竜峡を往復することにした。どちらにしろ乗り換えなしで4時間以上読み続けることができる。やはり読書好きが乗るべきは飯田線である。

 今回の本は厳選をし『タタール人の砂漠』『地下図書館の海』『図書館巡礼』の3冊を読み切ることを目的とした。以前の私は、逃げ道を塞ぐように大量の本を鞄へ詰め込んでいたが、今回は精神的ゆとりのある読書旅である。翌朝、最寄りの始発に飛び乗り、本を開いた。

 『タタール人の砂漠』は、珍しく「帯買い」をした本である。森見登美彦が「これはおもしろい」と言ったと聞けば買うほかに選択肢はあっただろうか。あらすじを調べるに幻想小説とあった。私が幻想小説を幻想小説として意識して集めだしたのは、『地下図書館の海』からである。この本は2年前宇奈月温泉へ出向いた際に読了した。比較的乗換の少なかった宇奈月温泉旅行は、地下図書館の海へ潜水するのにぴったりだった。主人公ザカリーが『かいじゅうたちのいるところ』の扮装をしたマックスに連れられて地下図書館に入る構造から、いくつもの世界が交錯する物語構成、ありとあらゆるファンタジー小説が土台となっているのがひしひしと伝わるその内容はまさに圧巻の一言で、私は幻想小説の虜になっていた。またこの時の本の帯も素晴らしかった。「子供の頃、衣装簞笥の奥がナルニアに続いていないか確かめずにはいられなかった人々のための物語」――帯にはそう書かれていた。最高だった。まさにナルニアの物語を読んだ頃、ルーシーと年齢が近かった私は夜中に和室の衣装タンスに足を踏み入れ、両親のコートやスーツに皺を残しながら奥へ奥へと入っていた経験があった。私はこの旅から、電車で物語にのめり込む楽しさと苦しさと幻想小説が一等好きになった。

 飯田線を北上していくと同時に、『タタール人の砂漠』のなかでドローゴ少佐は砦へと馬を進めた。今回の旅程は比較的距離が短く、飯田駅で折り返し、復路で天竜峡での乗り換えを挟むものだった。昼過ぎに天竜峡を出発し、豊橋へ向かう外の景色は段々暗くなっていく。往路の時に車窓から眺めた天竜川や満開になった山桜や木蓮、高くそびえる山肌は私を遠くへ連れていくスイッチのようで、前向き且つ愉快なものに感じられた。しかし、復路はどうだろうか。昼間はあれほど近く親密に思えた山肌は、日が暮れると遠く恐ろしいものへと変化した。飯田線は人里離れた山間をひたすら走り続ける。昨年度飯田線を完乗したときにはその暗ささえ、物語にのめり込むためのトリガーに過ぎないと高揚していた。これがここまで恐怖心に代わるのは、ひとえに『タタール人の砂漠』を読んでいたからだろうか。両側から迫る真っ暗な山々が私の心身を狭くさせた。タタール人は幻想小説の皮をかぶった怪物のような「ページを捲るたびに月日」が流れていく恐ろしい小説であった。終点につく30分前くらいに本編と解説を読み終え、電車を降りるまで放心状態であった。その昔、浪人していたころに『現代文と格闘する』という参考書を解き込んでいたが、格闘の指し示すものが異なるとは言え、まさにこの時は格闘しているような心地がした。

終わりに

 3年間電車であちこちに出かけ、旅行をしているが、電車旅行は特段好きではない……と思っている。電車の中でしか読めないから読み続けるために電車に乗っているのだ、宇奈月温泉、東北、北海道等も、読み続け、物語と向き合うための舞台装置に過ぎないのだと言い聞かせている。

 社会人4年目になり、読書は油断すると簡単に失われるものであることを実感した。仕事が終われば動画を見てしまう。休日になれば家事や雑事が割り込む。本を開いても、調べ事を思い出してスマホに手を伸ばし、気づけば別のことをしている。学生時代の頃、息をするように読んでいた時間は、いつの間にか特別な時間へ変貌していた。読書旅を始めてからそれはより一層顕著なものとなり、読書旅は、本を読むために確保した避難所のように思えた。旅をしている間は、私と本を引き剥がすものはない。それ故に私は北海道へ行くし、飯田線にも乗る。旅がしたいわけではなく、ただ本を読みたいだけなのだ。

 最近、職場で小さな読書会をするようになった。職場の人に「この本面白いよ」とすすめられたそれは、普段であれば自分では買わない内容の本だったが、試しに読んでみたらたいそう面白かった。勢い余らせず、諸突猛進に感想を伝えると、あれよあれよと読書会の計画が進んでしまった。共通の1冊を読み、お互いが読み終えたタイミングでその感想を言い合うその会は、今まで積極的に参加してこなかった系統の会合であったけれど、驚くべきかな、いまや6冊目である。最近は職場の読書会のおかげで、通勤時間や始業前のわずかな時間にも本を開くようになった。社会人になって失ったと思っていた読書の感覚は、案外なくなってはいなかったらしかった。私は長いこと本を読むための場所を探していた。静かで薄暗く快適な研究室。徐々に人がいなくなる終発列車。おおよそ本を読むためだけに乗っている人はいない早朝の始発列車。雪の降る会津若松へ向かう車内。日が昇り、暮れる飯田線。そうした場所では、不思議なくらい深く物語に潜ることができた。電車に乗らないと本が読めなくなっていたらどうしようと一瞬考えることもあった。しかし、先日は読書会の本のために年次有給休暇を使い、1日中家の中で丸まって読み通した。家で読む達成感を久しぶりに味わったが、正直物足りなさを感じていた。それは車窓の向こうへ流れていく景色を横目に、物語の中へ潜っていく楽しさを知ってしまったからではないか。切符を買い、測量野帳に乗換案内を書き写し、エルマーよろしく鞄に読み切れないほどの荷物(本)を詰め込む。私は竜を救いにいくことはないけれど、本と向き合う時間を救いに行くための旅行をしているのだ。その季節が近づくたびに胸が高鳴るのを感じている。春の始発で、夏の乗換までの数時間で、冬の西日を背に受けて読み続ける贅沢さをなんとしようか。

 もうすぐ夏の青春18切符のシーズンが到来する。そしたら私は切符を買い、測量野帳に行程表を書き込み、ああでもないこうでもないと積読タワーを前に唸り読書旅選定タワーを作り上げるのだ。
 一昨年の夏に北海道を1周した時はゲーテの『イタリア紀行』を持っていった。新千歳空港から札幌へ向かう中で読み始めると、なんとゲーテが誕生日会を抜け出してイタリアへ旅立った日付と、私が読書旅へ出発した日付が偶然にも同じだったのだ。本の中の旅と現実の旅が不意に地続きになったようで、あの時の興奮はいまでも覚えている。

 本でファスナーが壊れそうなリュックを背負う夏が間も無くやってくる。


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