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【SMAP解散10年・後】ジャニー喜多川はなぜ加害者になったのか


ある証言から


 前編では昭和時代に発行された芸能雑誌を中心に、ジャニー喜多川の性加害問題の報じられ方を検証したが、資料を読んでいるうちに分かったのは、ジャニー喜多川が子供時代に経験したある出来事だった。
 アイドルグループ・ジャニーズ結成のきっかけとなる新芸能学園を開いた名和太郎の妻・高橋純子はこう述べている。

「昭和二十年七月九日、和歌山に大空襲がありました。そのとき和歌山に住んでいたジャニーは、火に巻かれて危ないところを、四十代ぐらいの男性に助けられたんだそうです。ところが、男にそういう嗜好があったらしく、木賃宿に連れ込まれてしまった。そこでいたずらをされたというんです。メリーは、『だから、かわいそうな癖だと思う』と、話していたんですよ」

『週刊文春』2000年1月27日号

 同様の証言は複数存在する。

「ジャニーさんは小さい時から、自分がしたことをやられてきたんだ、と。『うちの弟は病気なんだよ』って、メリーさんが言っていたんだって」

NHKスペシャル『ジャニー喜多川 “アイドル帝国”
の実像』、2024年10月20日放送

「ある時、彼が運転していて、僕1人助手席に乗っていて、昔の話をしだして、『戦争時代にメリーと一緒に和歌山の方に疎開したことがあって、そこでお世話になったおじさんから、すごい愛してもらった』、みたいなことを言うわけです。嫌だった思い出ではないんだろうなというのは感じましたし、嫌だったらたぶん『愛してくれた』なんか言わないと思うんですよ。もともと、そういうのを持ってたんじゃないですかね。それはそれとしても、加害しちゃダメだろうと思いますけどね」

同前

 2つ目と3つ目の証言は実際にジャニー喜多川から被害を受けた当事者のものだ。彼らに「反論」したいなどとは全く思わない。ジャニー喜多川の「擁護」をしたいなどとも全く思わない。
 第一、ジャニーが死去した今となっては、この話が事実かどうかは確認のしようがない。それにジャニーの少年たちへの加害を隠蔽し続けた姉・メリーの言葉を信用できるだろうか。空襲の中で「助けられた」男性、「お世話になったおじさん」と、内容にズレもある。何より被害者だったことが、加害者になったことを正当化しはしない。
 だが、もしこの出来事が本当であったならどうだろう。ジャニー喜多川その人が、まさしく性暴力の被害者だった可能性が存在するのだ。

パラフィリア治療とその現状

 2023年8月29日、ジャニーズ事務所外部の再発防止特別チームが調査報告書を発表し、ジャニー喜多川を性嗜好異常(パラフィリア)と認定した(「ジャニー喜多川氏の性加害問題、藤島社長の辞任を提言 特別チームが報告書」、https://www.bbc.com/japanese/66645078)。
 ジャニー喜多川およびジャニーズ事務所の問題はメディアが事務所の権力に屈し、加害に加担したという論点が主なものとなっているが、このパラフィリアという件はかなり重要であるように思う。上に引いた週刊文春の記事やNHKの番組でも、ジャニー喜多川が「病気」ということで終わっているが、これでは「病人」に対する恐怖感を煽ったり、スティグマを与える危険性がある。
 つまり、この問題は「病人」という一種のレッテル貼りで終えられるものではない。被害者を生まないためには、加害者を生まない必要がある。加害者になり得る人、あるいはなってしまった人人をいかに治療すべきか、という議論こそが必要なのではないか。

 「被害者を生まないためには加害者をなくすしかない」。まさにこう記すのは、NPO法人性犯罪加害者の処遇制度を考える会・性障害専門医療センターSOMECの福井裕輝だ(『子どもへの性暴力は防げる! 加害者治療から見えた真実』時事通信社・2022年、p.17)。
 福井によれば性嗜好障害・パラフィリア症群とは、性的対象や性的満足の手段に逸脱があるものを指す。その対象が子どもである場合を小児性愛症障害・小児性愛症と呼ぶ。
 パラフィリアの原因の一つとして考えられるのは被虐待・性被害体験だ。子供時代の被害が性的な発育に悪影響を与え、正常な発育が阻害される。性依存に陥ると脳の前頭葉=抑制が効かなくなり、即坐核=欲求の過剰反応、前頭葉と即坐核の接続が破壊される。
 そこで加害者に対する刑務所・保護観察所での再犯防止プログラムでは、グループディスカッションやホームワークによる認知行動療法が行われる。「子供と合意があった」「子供が望んでいた」などといった「認知の歪み」を除去し、思い込みに気づかせ、異なる視点から物事を捉え直せるようにする。
 また、SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)の服用やホルモン治療(飲み薬か注射)といった薬物治療も行われる。抗うつ薬や強迫性障害の治療にも使用される前者は加害の引き金となる不安・抑うつを改善し、固着=思考の固定化を和らげることで衝動性を減少させ、後者は男性ホルモンの抑制によって性欲を低下させる。うつ・統合失調症など併存症がある場合はその治療も同時に行い、心理検査・精神科医の診察、加害リスクの程度や配慮の必要性(発達・知能の程度など)を見極めて治療方針を決定する。
 だが、小児性愛の原因の研究は進んでおらず、性犯罪再犯防止プログラムは保険適用でなく、診断を受け付ける機関も依然少ないという(以上、前掲『子どもへの性暴力は防げる!』参照)。

 そもそも福井のNPOと医療センターの設立はそれぞれ2010年と2011年である。LGBTなど性の多様性が謳われるようになったのも最近のことだ。前編で見たように“ジャニーズ裁判”が行われたのは60年代で、同性愛に対する偏見や差別意識が色濃かったことは言うまでもない。
 法の整備も同様である。児童買春・児童ポルノ禁止法の施行は1999年、児童虐待防止法の施行は2000年。刑法の強姦罪は1907年の制定時から110年間変わることがなく、2017年に強制わいせつ罪・強制性交等罪に法改正されるまでは親告罪、つまり被害者自身が訴え出なければならなかった。その上、男性が被害者であるケースが対象となったのはこの時が初めてだった(2023年に不同意わいせつ罪・不同意性交等罪に改正)。

 こんなことを書いても今更遅いのは分かっている。多くの人が被害を受けてしまった後であるし、加害者自身も死去している。
 だがそれでも、ジャニー喜多川には罪を償わせた上、然るべき治療を受けさせるべきだった。彼が幼少期に性被害を受けたのであったなら、その過去の被害に対するケアも、だ。

罪滅ぼしとは何か

 被害を受けた元ジュニアたちの証言を読んでいて、吐き気がした。ジャニー喜多川は少年たちをモノとしか思わず、自身の欲を満たす道具として利用し、人権を踏み躙った。「芸能界でデビューさせてあげる」と誘い、抵抗すると待遇を悪くしクビにする。貧困や母子家庭など、少年の弱みに漬け込む卑怯さ。追及されればメディアへ圧力をかけ、責任から逃れ続ける、その浅ましさ。こんな人間が権力を持ってしまったのか。
 こんな人間を「擁護」なんてしない。できるはずがない。
 だが、もしジャニー喜多川自身が幼少期に「グルーミング」された被害者であったなら、無数の加害行為の原因がその体験であったなら、ジャニーのことを頭ごなしには非難できなくなってきはしないだろうか。
 繰り返すが、それが事実かどうかは分からない。あくまでも可能性の話に過ぎない。それに、こんな人間に治療という“施し”を与える余地など無いのかもしれない。加害者側の事情を少しでも慮ろうとすることが、被害者を二重に被害者化してしまうかもしれない。だが加害者を断罪するだけでは足りない。被害者を生み出さないためにこそ、「なぜそうなったのか?」という、加害の原因を考えることが重要なのではないだろうか。
 前編の冒頭に引いた投稿を再び引く。

 記者先生、僕は、いつも小松先生の『一太郎物語』を愛讀してゐます。
 この物語は、僕たちの氣づかぬ日常(にちじゃう)のことがらの中に、いかに科學(くわがく)の問題が、ひそんでゐるかを敎へてくれます。
 僕の家は、海邊に近い村にありますから、九月號の『冷たい火』の夜光虫(やくわうちゅう)の實驗(じつけん)をしてみようと思つてゐます。

『少年倶楽部』1942年10月号

 何ら不思議なことではないが、喜多川擴は「普通の」少年であったのだ。資料を入手し、読み、まとめている中で感じたのは、ただただ虚しさであり、また無念さばかりであった。

   *

 最後に、ごく個人的な話をさせて頂きたい。
 私は、性暴力などの加害者を糾弾する人たち、被害者に連帯しようと言う人たちを見聞きすると、同じようなことは自分にはできないと思ってしまう。
 まず「連帯」などと軽々しく言えるだろうか。被害を告発した勇気は計り知れない。だが当事者の痛みは当事者にしか分からない。同じような経験をした者が言うならまだしも、分かったような気になって「連帯」などと言うのは暴力そのものだ。
 むしろ考えるべきなのは自分が何らかの形で加害者になり得る恐れである。
 性暴力の被害者と比べれば大したものではないが、私は親の過干渉や暴力的な言葉によって精神に障害を患った。自分に恋人ができると、モラハラ的な振る舞いによって傷つけた。
 ある意味で親の“被害者”であったことが、加害者としての自分を免罪しはしない。だが、いずれにせよ、こうした後ろめたさがあり続けているので、性暴力の問題のみならず、殺人事件などが起きる時でさえ、加害者に共感……とは言いたくないが、加害者側の方を自分のこととして考えてしまうのだ。
 
 加害行為を働いた者は、何らかの精神疾患を持っている可能性がある。私も、精神障害がなければ恋人や友人にまともに接することができたかもしれない。
 だからといって、自分がこの世に存在してはならない人間だ、とまでは思わない。少なくとも今は。
 しかしながら私の印象では、精神障害に対する理解は現代でも追いついていないように思う。人間を“生産性”の有無で価値づけるような傾向、もっと卑近な例で言えば少し風変わりぐらいな人間のことを気軽に「サイコパス」と呼んでしまう昨今の風潮がそうだ。「多様性」を賛美する私たちは、依然として優生学や反出生主義めいた思想を流布し続け、あるいは同質的な者同士で固まり、異質な少数者を排除し続けているのではないだろうか。
 そうした排除の理論が行き着く先は、かつてナチスドイツが精神障害者や知的障害者を虐殺したような、人類が二度と繰り返してはならないはずの蛮行だ。
 “正常”だった人間が“病人”になったのであれば、そんな人間は存在しない方がよかったのだろうか。
 もし生まれながらの“病人”であったなら、そんな人間は生まれてこない方がよかったのだろうか。
 そうではないはずだ。
 そして、加害者が自身に問わなければならないのは、生き抜いて、いかにして罪を償うか、である。


 



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