名医ほど、患者さんに忘れられる|扁鵲の逸話が教える予防医学の危うさ
重い病気を乗り越えた患者さんに、「先生のおかげです」と両手で握手されることがある。
悪い気はしない。しない、けど、握手されながら、心のどこかで、別のことを考えている。この「ありがとう」が生まれている時点で、自分はもう負けていたんじゃないか、と。
もっと前に手を打てていたら、この人はこんなふうに自分に感謝する必要が、なかったかもしれない。
医者をやっていると、感謝される瞬間ほど後ろめたい、という奇妙なことが起きる。強く「ありがとう」とといわれるのはたいてい、何かが大きく崩れたあとだからだ。
この感覚を、2300年以上前の中国人が、ぴたりと言語化している。
扁鵲は、自分を一番下手な医者だと言った
扁鵲(へんじゃく)という伝説的な名医がいる。瀕死の太子を蘇らせたとか、顔色を見ただけで病を見抜いたとか、派手な逸話が『史記』や『韓非子』に残っている。
その扁鵲に、こんな話がある。魏の文侯が聞いた。
「お前の兄弟は三人とも医者だそうだが、誰が一番腕が立つ?」
扁鵲は即答している。「一番は長兄。二番目が次兄。自分が一番下手です。」
文侯は驚いた。天下に名を知られているのは、扁鵲だけだったからだ。
扁鵲は続ける。長兄は、病の兆候が現れる前に治してしまう。だから誰も、長兄が何かをしたと気づかない。名前が家の外に出ることすらない。次兄は、症状がほんのわずかなうちに治す。だから名前は里の外に出ない。自分は、病が重くなってから血脈に鍼を刺し、強い薬を使い、肌を切り開く。だから諸侯にまで名が聞こえる。
腕がいい医者ほど、無名になる。
読んだ瞬間、あの握手の後ろめたさがどこから来るのか、少し分かった気がした。自分が感謝されるのは、扁鵲でいう「三男」の仕事をしたときなのだ。
現代医療は、ほぼ三男
外来では、三男の仕事が評価されやすい。
HbA1cが7.5の患者さんに生活改善を試みて、下がらなければ薬を出す。LDLが160を超えた人に食事の話をして、それでも戻らなければスタチンを使う。血圧が160を超えた人がきたら、家庭血圧を測ってもらって降圧薬を調整する。もちろん大事な仕事だ。薬も検査も、必要な場面では迷わず使う。
ただ、これは全部、火が大きくなってから消している仕事だ。本当は、火がつく前に止めたかった。
長兄なら、こうなる前に手を打っていた。本人すら気づかない段階で。患者さんにとっては、そのほうが圧倒的にいいのに。じゃあ、自分はちゃんと長兄をやれているのか。ここが、あまり自信のないところだ。
自分が長兄になれなかった日
何年か前。ある経営者の健診データを見ていて、血圧と脂質がじわじわ悪くなっていることに気づいた。気づいていた。でも、踏み込めなかった。
「少し気をつけましょうね」くらいは言った。でも相手は明らかに忙しそうで、診察のたびに時計を気にしている。その日も外来が押していて、後ろにはまだ何人も待っていた。そこで「このままだと5年後が危ないです」と言い切る勇気が、自分になかった。
数値の落ち方を追っていれば、もっと早く生活を変える提案をすべきだった。でも「まだギリギリ基準値内だし」「本人も自覚症状ないし」と、自分のほうが言わない理由を作っていた。
扁鵲にも、聞かなかった王の話がある。蔡(さい)の桓公だ。『韓非子』に出てくる。
扁鵲は桓公の顔色を見て言った。「あなたは病気です。今はまだ腠理(皮膚の表面)にありますが、治療しなければ深くなります。」桓公は「私は病気ではない」と取り合わない。扁鵲が去ったあと、側近にこう漏らした。「医者というのは、病気でもない人間を治療して手柄にしたがるものだ。」
その後も扁鵲は二度訪れ、病が肌膚(肉)から腸胃へ進んでいると告げた。桓公は、いよいよ不快そうにするだけだった。四度目、扁鵲は桓公の顔を見て、何も言わずに帰る。理由を問われて、こう答えている。
「腠理なら湯薬で治せた。肌膚なら鍼で。腸胃ならまだ手があった。今は骨髄に達している。もう、私にできることはない。」
桓公はその5日後に亡くなった。
この逸話では、聞かなかった桓公が悪者になっている自業自得みたいになっているけど、これはあんまり笑えない。扁鵲は3回、はっきり言った。自分は、あの経営者に3回ちゃんと言えていたか。思い出すと、かなりあやしい。
外来で起きていることの半分くらいは、「聞かない患者さん」じゃなくて、「言いきれない医者」の問題だと思っている。
桓公の疑いは、本当に間違っていたのか
ただ、ここまで書いておいて何だけど、桓公のあの言葉も、完全に間違いとは言い切れない。
「医者というのは、病気でもない人間を治療して手柄にしたがるものだ。」
長兄の医療には、口に出しにくい弱点がある。兆候が出る前に手を打つと、自分が正しかったことを、永遠に証明できないんですよ。
介入して、その人が病気にならなかったとする。でも、それが介入のおかげなのか、放っておいても平気だったのか、誰にもわからない。起きなかった病気は、見えないからだ。「だから長兄は感謝されない」という美談で終わらせたくなる。でも裏を返せば、放っておいても大丈夫だった人まで「患者さん」にしてしまうリスクが、予防には常につきまとう。
健康な人に検査を増やす。数字をにらませる。飲まなくてもいいサプリや薬を足す。それは、長兄の顔をした三男かもしれない。
だから、良い予防と、ただの脅しの線引きは、思っているより難しい。桓公が扁鵲を疑ったのは、案外まっとうな警戒だったのかもしれない。
だから自分は、環境を変える予防を選ぶ
そもそも、病気のかなりの部分は、後から振り返れば行動と関係している。2024年に出た解析では、204カ国・88のリスク因子を調べて、世界の疾病負荷の41%以上がリスク因子に帰属し、その最大カテゴリーが行動要因(喫煙、食事、飲酒、運動不足など)だった。行動を変えていれば避けられたかもしれない健康被害が、4割以上ある、ということ。
じゃあ、どう予防するか。脅して検査を増やすんじゃなく、本人に我慢もさせず、環境のほうを変える予防がある。

しかも、その裏づけは医学よりむしろ、行動経済学から出ている。わかりやすいのが、2023年のScience Advancesに出たApple Watchの研究だ。16万人以上・760億分以上の行動データで、「50分座ると通知が来る」だけの仕組みで、立ち上がる確率が最大43.9%上がった。これを見て自分もやり始めたけど、全人類やった方がいいと思う。(座りっぱなしを仕事中にどう崩すかは、別の記事に全部まとめた。)
通知ひとつ。医者が30分説教するより、腕時計が一度震えるほうが人を動かすことがある。悔しいけど、かなり本当だと思う。長兄なら、間違いなくこっちを選ぶ。派手な投薬でも手術でもなく、環境を整えて、本人が「自分で変わった」と思っているくらいがちょうどいい。
自分が経営者に出している「長兄の処方」
どれも、禁止するんじゃなくて、最初の一手を変えるだけだ。

冷蔵庫の棚を変える。目線の高さにカット野菜とゆで卵、お菓子は取り出すのに一手間かかる場所へ。食べるなとは言わない。手に取る順番を変えるだけで、本人は我慢している感覚がほぼない。
夜22時にスマホの色を消す。iPhoneのオートメーションでグレースケールに自動で切り替える。色がなくなると、SNSの吸引力が落ちる。寝なさいとは言わない。画面を少しつまらなくするだけ。5人に出して、3人は1ヶ月以上続いている。2人は「グレーでも普通に見れる」で脱落した。全員には効かない。(スマホが睡眠に悪いのはブルーライトのせいじゃない、という12万人のデータの話は別で書いた。)
ジムウェアを前夜に玄関へ出す。朝、行くか行かないかを考えさせない。服がもう出ている。行かないほうが「せっかく準備したのに」の損失感が出る。自分も17年、意志力でトレーニングを続けているんじゃなくて、行かないほうが面倒くさい状態を作っているだけだ。…書いてて思ったけど、長兄もたぶんこんな感じだったんだろうな。患者さんに「治した」とすら思わせない。
どれも地味だ。派手な治療でも、スーパーフードでもない。でも長兄の医療は、たぶんこういうものだ。
火を消す人が、透明になる
こういう話は医療に限らないなぁと思う。あなたの職場でも、燃え盛る火を消した人がヒーローになって、そもそも火が出ないように根回しをして未然に防いだ人は透明になっていないだろうか。
扁鵲の三兄弟は、医者の話の顔をした、組織と人生の話だ。世の中は、目立つ対処を評価して、地味な予防を透明にするようにできている。長兄が無名なのは、長兄が下手だからじゃない。人間の側が、起きなかったことに感謝できないからだ。
予防の価値は、医療費じゃなく「使える時間」にある
予防の価値を「医療費が安くなります」で語るのは、無理がある。
実際、予防をすれば必ず医療費が下がる、とは言えない。ワクチンのように明確に得なものもあれば、検査を広げると総額はむしろ増えることもある。「予防すればお金が浮きますよ」とは、うかつには言えない。
だから自分は、経営者には別の言い方をする。「あなたの60代・70代の、使える時間が増えますよ。」これはかなり反応が良い。医療費が数十万円浮くかどうかより、70歳でまだ出張に行けるか。会議で頭が回るか。孫と旅行できるか。
健康は、支出を減らす話じゃない。使える時間を、後ろに伸ばす話だ。
名医ほど、忘れられていい
小学校のとき、父親が横山光輝の『史記』と『三国志』を買ってきてくれた。あの頃は、ただ戦と策謀が面白かった。まさか何十年も経って、自分の外来で扁鵲の長兄を思い出すとは、思っていなかった。
自分は経営者のパーソナルドクターを名乗っているけど、理想は少し矛盾している。誰かが10年後に心筋梗塞にならなかったとき、その理由として、自分の名前は出てこないほうがいい。握手も、「ありがとう」も、発生しないのが一番いい。
ただ、長兄には弱点があった。誰にも伝わらなかったことだ。どれだけ優れた予防も、言葉にならず、目の前の一人にしか届かなければ、名前ごと消えていく。自分がnoteやXで書いているのはそのためだ。
病気になる前の一手を、外来の椅子に座る一人だけじゃなく、その向こう側にも届けたい。今日できる長兄の仕事は、大げさなものじゃない。冷蔵庫の棚を一段変える。夜のスマホを白黒にする。ジムウェアを玄関に出す。健診票を、去年の数字と並べてみる。そのくらいでいい。
誰にも褒められない一手が、10年後の自分を、静かに助けることがある。
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※本記事は一般的な健康・医学情報の提供を目的としたものであり、特定の個人に対する診断・治療・医学的助言を行うものではありません。健康上の懸念がある場合は、必ず医療機関を受診してください。記事の情報に基づく行動の結果については、筆者は責任を負いかねます。
参考文献
【古典】
『鶡冠子』世賢第十六(扁鵲の三兄弟の逸話)/『韓非子』喻老篇(蔡の桓公の逸話)/『史記』扁鵲倉公列伝(扁鵲の伝記・太子蘇生等)
GBD 2021 Risk Factors Collaborators. Global burden and strength of evidence for 88 risk factors in 204 countries and 811 subnational locations, 1990–2021. Lancet. 2024;403(10440):2162-2203.
Mertens S, Herberz M, Hahnel UJJ, Brosch T. The effectiveness of nudging: A meta-analysis of choice architecture interventions across behavioral domains. Proc Natl Acad Sci USA. 2022;119(1):e2107346118.
Nazaret A, Sapiro G. A large-scale observational study of the causal effects of a behavioral health nudge. Sci Adv. 2023;9(38):eadi1752.
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