【SF小説レビュー】 なぜ『タイタンの妖女』が私にハマらなかったのか?——「未消化」な読後感が教えてくれた自分の現在地【ランチタイム読書その8】
まえがき
毎日のランチタイム、自分で詰めた手作りのお弁当をつつきながら本(電子書籍)を開くのが、私のささやかで大切な日課であります。
さて今回ランチのお供に選んだのは、カート・ヴォネガット・ジュニアの『タイタンの妖女』。
SFファンならずともオールタイム・ベストに必ず名を連ねる、非常に評価の高い古典的名作です。
長らく読みたい本リストに入っていた一冊をついに手に取り、期待に胸を膨らませてページをめくりました。
といいますか、昔セールで買って積んでそのまま忘れてたやつでした。
うーん、あるある(笑)
ところで弁当のおかずの業スーの冷凍からあげや業スーの冷凍ブロッコリーなどは、いつも通りきっちりと胃袋で消化されたのですが、数日かけて読んだこの本をパタンと閉じたとき、というかバックボタンをタップした時、私の心に残っていたのは驚くほど未消化な読後感でした。
誰もが絶賛する名作と呼ばれる作品を読んで、ここまで自分にピンとこなかったのは久しぶりのことです。
と思ったけどそういえばこちらもそうでした(^_^;)
今回は、なぜこの輝かしい名作が私にはハマらなかったのか、その理由を自分なりに紐解いてみたいと思います。
「タイタンの妖女」とは
まず、この物語の簡単なあらましをご紹介します。
時空を超えて波動現象としてあらゆる時と場所に存在する、神のような力を持った男、ウィンストン・ナイルズ・ラムファード。
彼が企てた壮大な計画によって、全米一の大富豪であったマラカイ・コンスタントは富も記憶も奪われ、地球から火星、水星、そしてタイタンへと、広大な太陽系を流浪させられることになります。
世界観はとてもレトロなSF味が溢れていて、興味深いものではありました。
地球以外の太陽系の惑星に普通に生物が存在しているあたりは、現代の緻密な科学知識からすると少し微妙に感じる部分もありましたが、そこは書かれた時代を考えれば古典ゆえのご愛嬌として受け入れられます。
しかし、物語を読み進めるうちに、私の中に強烈な違和感が芽生え始めました。
「──────村上春樹かよ(;´Д`)」
私の正直な第一印象を言葉にするなら、この一言でした。
カート・ヴォネガット・ジュニア氏にも、村上春樹氏にも、そして氏を愛する熱心なハルキストの皆様にも大変失礼な感想かもしれません。
ですが、読みながらずっとそう思えて仕方がなかったのです。
なぜそう感じたのか。
一言で言えば、よくわからないという感覚が何重にも分厚く重なり合っていたからです。
よくわからない世界で?、
よくわからない人が?、
よくわからない理由で?、
よくわからないことを?、
ちょっとかっこいい感じで(笑)、
なんかしてるみたいな?
それが私の偽らざる素直な印象でした。
そうです。
私が思うところの(あくまでも私個人の感想としての)、村上春樹ワールドです。
ちなみに、私は村上春樹さんはけしてきらいではありません。
というかデビュー作の「風の歌を聴け」とか多分3回くらい読んでる。
その周辺の初期作品も。
でも村上作品で一番好きなのは、エッセイとかで彼の大好きなヤクルトスワローズをディスりながら応援している話です。
「タイタンの妖女」にハマらなかった最大の理由
一言で言えば物語を牽引する登場人物たちに、個人的な感想としてはまったく魅力を感じることができなかったからでしょう。
すべてを見通して人類を導いているかのようなラムファードは、私にはただ高みからかっこつけているだけのように見えてしまいました。
そして、主人公であるはずのコンスタントは、ただひたすらに愚かで、ひたすらに気の毒な存在でした。
彼を取り巻く家族に至っては、輪をかけて悲惨で救いがありません。
巨大な運命の歯車にただ無力に巻き込まれ、理不尽な状況をただ受け入れるしかないような諦念の空気感。
それが私に、ある種の文学作品を読んだときのような、途方に暮れる感覚を呼び起こしたのだと思います。
そもそも私が好きなSFとは
ではそもそも、私はSFというジャンルの小説の、何に惹かれてきたのでしょうか。
『タイタンの妖女』を読んで逆説的に気がついたのは、私はSFらしいSF、つまりSFであることそのものが大きなテーマや主軸になっている作品が好きなのだ、という事実でした。
例えば、最近読んで夢中になったアンディ・ウィーアーの作品や、若かりし頃に夢中になって胸を躍らせたラリー・ニーヴン、J.P.ホーガンの作品たち。
これらももちろん、単なる科学技術のひけらかしではなく、それぞれに重厚なテーマを持っています。
しかし、その根底には圧倒的なセンス・オブ・ワンダー、つまり未知なるものへの驚きと畏敬の念があり、理詰めの快感やガジェットのワクワク感に満ち溢れています。
私にとってSFを読む喜びとは、未知の論理や科学的な想像力にワクワクするための舞台を楽しむことだったのです。
一方で、ヴォネガットにとってのSFという設定は、人間そのものや社会の愚かさを風刺するための一つの手法やメタファーだったように感じられます。
テーマはSFであることのずっと外側に置かれています。
だからこそ、SFファンや評論家からの文学的な評価が極めて高いのだということは、頭では十分に理解できました。
「なんでそうなるの(?_?)」
しかし、私の不完全燃焼の決定打となったのはラストシーンです。
結末に至っても、なんでそうなったのかが私にはほぼ理解できませんでした。
私は、物語の最後に伏線が見事に回収され、「そうこなくっちゃ!」と膝を打って快哉を叫ぶような結末が大好きなのです。
たとえハリウッド的と揶揄されようとも、です。
「なんでそうなるの」と首を傾げたまま取り残されてしまうようなオチは、どうにも好きになれません。
こうして自分の不満や違和感を並べてみると、どうやら私はSF小説ファンとしてはかなり浅い、つまり純粋なエンターテインメント至上主義者なのだということがはっきりと浮き彫りになってきました。
深遠なテーマや文学的なメタファーをじっくり読み解くよりも、緻密な設定のもとでキャラクターたちが知恵を絞り、読者にカタルシスを与えてくれる爽快な物語を楽しみたい。
それが私の求める読書体験なのだと自覚しました。
まとめ
名作と呼ばれる『タイタンの妖女』は、残念ながら私の好みのど真ん中を射抜くことはありませんでした。
しかし、この本を読んだ時間が無駄だったとは少しも思いません。
なぜなら、自分が本当に好きなものは何かという輪郭を、これまでになくはっきりと自覚させてくれたからです。
未消化な読後感は、私自身の読書家としての現在地を知るための、とても貴重な収穫でした。
浅いと言われようがエンタメ大好き!な自分のスタンスを、今更改める気は毛頭ありません。
さて、次のランチタイムには、胃も心もすっきり爽快に消化できるような、ゴリゴリのハードSFを用意しようと思います。

でてこないんだもんなー(ガッカリ
……あ、もしかしてこれが一番のつまんなかった原因か(笑)
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