「三極志の会」~第3回歴史好きライター交流会~
今回で晴れて第3回目を迎えることになりました歴史好きライター交流会です。この会は不定期に仲間のライターが作品を寄せ合って紹介しあうという集まりです。不定期にしているのは、定期にすると義務になるからです。義務になると詰まらなくなりますし、続けるのが面倒くさくなります。何事もやれる時にやるのが良いと思います。
さて前置きはそれまでにして、今回の作品をご紹介していきましょう。
私のフォロワーであるしまのかみ@経学×日本史さんが書かれた作品です。今回の企画のためにお忙しい大学生活の中、書き下ろして下さいました。ありがたいことです。
今回、しまのかみさんが取り上げたのが、松前藩藩主の松前崇広です。私は恥ずかしながら、この人のことは全く知らなかったので、今回の作品を読んで実に賢く素晴らしい人物だったことに驚きました。松前藩は北海道を統べる大名家ですが、難しい戦国時代を生き残り江戸時代に至りますが、ロシアに近いこともあり、中々大変なお国柄だったと思います。しかし崇広のような名君を生むことが出来たのは、逆にこうした難しい状況が有ったからではないかと思うのです。歴代藩主が苦労したことが、彼の様な英邁な君主を生んだ素地となった可能性はあると思います。のほほんと暮らしていたら、きっとバカ殿ばかりを粗製乱造することになったでしょう。
崇広が生きた幕末は、本当に難しい時代だったと思います。現状認識の甘いガンガンやれよ!という勤皇の獅子たちの一方で、政治をリアルに担っている幕府。外国との通商を嫌う孝明天皇に対して、開国を迫る諸外国。排外主義を唱える若い勤皇の獅子たち。そんなカオスな状態の中、なんとか日本を清朝のような泥沼のような状態にしないために苦心した幕府関係者。この時代に活躍した幕府の役人は、今の日本よりもさらに難しい状況にあったと思います。いくら英邁な崇広とはいえ、その激務には耐えられなかったんですね。どんなに賢い人間が歴史の中にいても、時に歴史は「勢い」で流れてしまいます。彼はその勢いの犠牲者と言えなくもありません。
しまのかみさんの作品は、崇広だけでなく、幕末日本の非常に複雑な難しい政治状況を実に上手く説明されてあるので、是非みなさんご一読ください。
さて、以下は今回の企画のために私が書いたエッセーです。
秀吉の正妻“おね”に想う
私は秀吉は好きではないんですが、その奥さんであるおねさんは大好きなんです。史実から彼女の人の良さが滲み出て来ると言いますかね。そうですね、有名な信長の手紙なんかからです。
二人は当時にしてはめずらしく「恋愛結婚」だったんですね。西洋にも彼らと同じようなラブラブな恋愛結婚をした有名な夫婦がいます。そうです。神聖ローマ皇帝フランツ1世とその皇后であったマリア・テレジアです。なんと彼女は6歳の時に15歳だったフランツを見て一目惚れしたようで、随分と早熟な王女様だったんですね。では当のおねはどうだったのか?
どこで見染めたのか、秀吉とおねは両想いとなります。ところが秀吉の身分が低すぎました。おねの実家である杉原家は信長に仕える歴とした武家です。一方の秀吉は、その素性がいまだによく分からない浪人同然の身分。つり合いが取れません。そのため、おねの母である朝日は二人の結婚に強く反対します。困ったおねは兄家定に相談したんでしょう。家定が秀吉に養子縁組するという条件で結婚することが出来ました。秀吉の身分を兄が保証したということですね。母親に強く反対されていますので、実家に居ずらくなったのでしょう、おねは親戚の浅野家の養女となります。ちなみに、この浅野家に養子に入ったのが、後に豊臣五奉行として活躍する浅野長政です。ですので、おねと長政は義兄弟の関係になりますね。
おねの容姿について、あの信長が手紙に書いてますね。「容姿が以前お会いしてから、十のものが二十になったほど格段に美しくなって…」と褒めそやしています。これはおねを喜ばせるために書いているのでしょうが、私の個人的な見解ですが、おねは恐らく美人だったと思います。なぜそう言えるのか?秀吉は大変な女っ垂らしです。武家の妻女によく手を出します。そんな彼がわざわざ恋愛で結婚したわけですから。秀吉は当然おねの性格にも惚れていたんでしょうが、その容姿も気に入っていたのだと思います。秀吉はそんなおねを終生大切に扱いました。淀殿の色香に惑わされていた最中も、おねを必ず立てるようにしています。秀吉はおねの正妻としての地位を大切に考えていたのです。この辺、徳川家康と正妻築山殿とはえらい違いですね。築山殿は今川家の縁戚ですので、旦那とはいえど格下の家康には何かとマウントを取っていたのでしょう。家康は面白かろうはずはありません。息子の信康もそんな母の側に着いて、家康との関係を悪くしたものと思われます。二人とも哀れな最期を遂げています。しかし、徳川家はその後も続きます。夫婦円満であった秀吉とおねが築いた豊臣家は、あっさりと滅んでしまいました。歴史の皮肉と言えましょう。
秀吉以外に、おねに対して強い魅力を感じていた人物に、あの徳川秀忠がいます。秀忠は一時期、秀吉に人質として差し出されていた時期があるんですが、おねはそんな秀忠をまるで我が子のように可愛がったと言います。秀忠もきっと実の母のように慕っていたと思います。人質ですから、何かあると殺される恐怖に日々苛まれているでしょうが、そんな彼をおねは優しく見守っていたんですね。秀忠が将軍となってからも彼らの交流は続いています。秀忠上洛の際は、高台院(おね)の許を訪れたと言います。1万6,346石もの領地を高台院に授けたのも、おねの好意への証といえそうです。
これは私の想像ですが、秀吉もおねも共に尾張出身ですから、当然夫婦喧嘩は強烈な尾張弁(名古屋弁)でバトルしたはずです。皆さんが名古屋弁と聞いて思い出すのは、恐らく河村たかし前名古屋市長でしょう。あの人はちょっとワザとらしい面もありますが、まあ大体あんな感じだと思って下さい。大坂城でも秀吉とおねは派手にやり合ったハズです。
秀吉「おみゃあさん、ええ加減にしとかなアカンわ」
(訳文:貴女、いい加減にしなさい!)
おね「おみゃあさんこそ何言っとりゃあす。そんなこと言っとるでアカンの
だわ。このたわけぇ」
(訳文:貴方こそ何を言っているのですか?そんなことを言っているか
らダメなんです。この愚か者!)
天下人秀吉のことを“たわけ”と言えるのは、この世で唯一おねだけですね。
近江出身の上品な石田三成にしてみたら、この二人の操る尾張弁は理解不能だったことでしょう。口をパカンと開けて彼らのバトルを見ていたに違いありません。そんな三成の顔を見て、きっと二人は大笑いしたことでしょう。大坂城内ではこのようにホンワカした雰囲気が流れていたことでしょうが、下界ではそうは行きませんでしたね。キリシタンへの迫害や秀次事件、朝鮮出兵など、とかく血なまぐさい事件が次々と起こっていたのが秀吉治下の日本でした。
信長の命令で秀吉が毛利攻めに加わるため、居城である長浜城を留守にしている間、秀吉の代行を務めていたのはおねでした。彼女は単なる妻ではなく、城主代行として政治力を発揮していたわけです。因みに、本能寺の変に際しては、長浜城は明智方の阿閉貞征に攻めらますが、おねたちは近くの寺に逃げ込んで難を逃れています。
秀吉没後、おねが大坂城を出たのは、恐らく二重権力を防止する意味があったと私は思います。秀頼の母は淀殿であり、後継者の母はおねではありません。しかし、そんな自分が大坂城に留まれば、最初は淀殿との関係が悪く無くても、次第に不協和音が生じるでしょう。それは豊臣家にとって良くないことです。大坂城内で派閥争いが起こるかも知れません。豊臣秀長が生きていれば彼が豊臣家を上手くリードしたでしょうが、残念ながらこの才人は既に個人です。
かつて、家康が浜松、息子信康が岡崎をそれぞれ居城にしていたおり、家臣たちが派閥をそれぞれ作ってしまい、それが結果的に信康の切腹に繋がるという悲劇がありました。おねはそうした悲劇を繰り返さないために、早々に大坂城を出たのかも知れません。もちろん、家康から何らかの圧力が掛かっていた可能性はありますが、いずれにせよ、家康に高台院を建ててもらい、その地で亡き夫の菩提を弔う余生を送ることにしました。先にも書きましたが、秀忠が将軍になると、おねとの旧交を温めたようです。徳川家は政敵である秀吉の夫人ではありましたが、おねを大切に扱いました。彼女は結局、秀吉と二人で築き上げて来た豊臣家の滅亡を目の当たりにします。その時の心境たるや…。
歴史には、ある種“流れ”みたいなものがあります。例えば、フランス革命ではルイ16世がヴァレンヌへ逃亡した結果、民衆の王への不信感が一挙に募り、彼は断頭台へ送られてしまいました。言ってみればこれがトリガーとなり、フランス革命はその後断頭台無しでは進まない激烈な様相を呈します。王の逃亡というスイッチが入ったことで、フランス革命の性格が恐怖政治を容認するような形態に変わってしまいました。もし、ルイ16世が逃亡しなければ、恐らくフランス革命はもう少し穏かに進んでいたでしょう。ひょっとすると、共和制ではなく、イギリスの様な立憲君主制になっていた可能性もあります。そうなると、あのナポレオンも歴史に出て来れなかったかも知れません。しかし、実際には王室への怒りが暴発して、フランス革命は随分と血なまぐさいものとなります。
おねと秀吉の間に子が生まれなかったことは、結果的に豊臣家の未来を決めてしまったと言って過言ではありません。二人の間に子が生まれなかったことで、様々な政治的思惑が渦巻き、それを上手く解消した家康が天下を取りました。日本の歴史が、豊臣家ではなく徳川家を選んだと言えるのかも知れません。
「あの時、あの人が生きていたら。あの時、あの人が席を外していなければ…」
歴史はそんなことの繰り返しです。まるで決まっている結末に雪崩れて行くようです。ほんの些細な出来事が、歴史の流れを作るのです。歴史は大きなことがいきなり起きるのではありません。小さ歪みによって起きた“力”が蓄積され、ある瞬間、地震のように一気に巨大なエネルギーとして放出されるのです。ですから私たちは、そんな小さな歪みを決して見逃してはいけないのです。
恐々謹言
では皆さん、次回の交流会をおたのしみに。
