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外様から老中へー  北国の名君・松前崇広

今回の「三極志の会」では、北海道民として僕が個人的に知名度がもっと上がってほしい大名について取り上げます。
それが、北海道最南端部を本拠地とする松前藩、その12代藩主の松前崇広(たかひろ。1829~1866)です。

地元に関連する人物を取り上げてしまったせいか、思いのほか長くなってしまいました(笑)、すみません。

彼は幕末という厳しい時代にあって松前藩の改革に力を尽くしただけでなく、幕府政治にも関与し、外様大名から老中になるという異例の抜擢をされた人物です。一体、どんな生涯を送ったのでしょうか。


1.崇広が藩主になった経緯、内憂外患の松前藩

彼は、文政12年(1829)年、松前藩9代藩主・松前章広(あきひろ)の5男として生まれました。ただし、この出自をみてもわかるように、崇広は本来藩主となる見込みはありませんでした。

彼は江戸の松前藩邸で藩から生活費をもらいつつ勉学にはげみ、この「部屋住み」時代に詩文・兵学・西洋史・化学など、幅広い学問を身につけました。ここで崇広がコツコツと努力していたことが、彼自身の出世の基盤となったといえますし、松前藩を支えることになります。

さて、崇広が少年時代を過ごしていた天保年間(1830~1843)は、松前藩にとってまさに試練の時でした。

この時代、全国的にも外国船が日本近海に現れつつありましたが、特に日本最北端の大名である松前藩は北にロシアをのぞみ、また、北海道の東からは北太平洋で捕鯨をする外国船がたびたびやってくるなど、小藩(1万石格)なのに海防の最前線に否応なく立たされていました。

さらに、9代藩主章広の長男・見広(ちかひろ)、見広の長男で10代藩主となった良広は若くして亡くなってしまう、という不幸にも見舞われ、松前藩政も安定していませんでした。

その後、良広の弟、昌広が11代藩主となりますが、彼は政治的手腕に優れた藩主だったようで、藩校(徽典館)や「万巻楼」という図書館を設置して藩士の学問水準を上げようとしたり、家臣たちを江戸・長崎・大坂に遊学させて最新の知識を藩政に取り入れようとします。

そうした昌広の主導のもとで前代まで政治を専横していた家老も排除され、いよいよ松前藩政が軌道にのるかと思われた矢先、昌広は嘉永2年(1849)、病気のため(精神疲労が原因とみられる)政務がとれなくなってしまい隠居します。そして、4年後に亡くなってしまいます。まだ29歳という若さでした。

以上のような不幸により、江戸で部屋住み生活をしていた崇広に藩主の座が回ってきた、というわけです。

2、崇広主導の松前藩政 ~海防重視・家臣統率

嘉永2年6月、12代藩主となった崇広ですが、彼は国元の松前に来ると、学問の才能を持つ人間を抜擢して側近におき、逆に家格が高い者であっても、本人の行動によっては家格を下げるなど、世襲による藩士の序列に必ずしもとらわれない人事を行いました。
崇広は、学問に優れた藩士がいると、その藩士に講釈を行わせて自らそれを聴いたようで、彼の学問重視の姿勢がうかがえます。

崇広が藩主になって最初の大仕事といえばまずは松前城の改修(正式には「築城」)です。

実は、それまでは松前家はいわゆる「陣屋大名」というもので、城を持てる格の大名家ではありませんでした(大名といえども、全体の約半数は陣屋大名で、城を持っていませんでした)。なので、松前にあったのは正式には「松前城」ではなく「福山館」という「館」だったのです。もっとも、松前の領民たちは「松前城」と呼んでいたみたいですが。

しかし、外国船が北海道近海に多く現れるようになっていたこの時代、松前の防衛力を高めなければいけない、と幕府は判断して、崇広が藩主になって直後の嘉永2年(1849)7月、幕府は松前藩に対して「城主大名」への引き上げ、従来の福山館を改修して城をつくるよう命じます。

崇広は高崎藩から当時全国的に有名だった兵学者、市川一学・十郎父子を呼んで城の縄張(城の全体像を考える)を担当させ、有力家臣らを動員して安政元年(1854)に5年の月日をかけて新・松前城を完成させます。

この新たな城は天守の基礎の石垣の積み方を二重構造にして強固にしたり、新たに砲台を7座設置するなど、幕府の命令通り「北方の海防を担う」という意図に沿った築城がなされたことがわかります。

現在残っている松前城は当然この幕末の改修を経たものです。興味のある方はぜひ行ってみてください(僕も何度か行っていますが、桜の時期が一番おすすめです)。

こうした事業が可能だったのも、当時西洋の学術にも通じた崇広が藩主となり、また藩士たちにも最新の学術を吸収をすすめていた、そんな松前藩の気風を幕府が見込んだ、という側面もあるのではないでしょうか。

なお、同時期にペリーが開港予定地の箱館に来航する、という大イベントもありました。安政元年(1854)4月のことです。

ここで、ペリーとの応接を担当したのが、前年に家老格へと出世したばかりの松前勘解由(かげゆ)でした。現職の家老も4人いたのですが、みな高齢だったので、崇広も若手の勘解由に期待したのでしょう(高齢の家老よりも、勘解由のほうが外国への理解に優れている、と判断されたのかもしれません)。

この松前勘解由の応接は、俗に「こんにゃく問答」と言わるもので、ペリーの要求をのらりくらりとかわす、というものでした。ペリーは崇広との直接交渉がしたい、松前に行かせろ、と言ってきたのですが勘解由はそれをかわした、ということです。

こうした勘解由の態度にペリーもイラついたようですが、勘解由の品行方正さにはペリーも感心し、また結果としてペリーの圧力に屈しなかったことから、松前藩は将軍・徳川家定から褒美をもらうことができました。

こうして、崇広をリーダーとする松前藩ですが、若死が連続するなどして不安定だった藩主権力を強め、家臣たちをよく統率していきました。崇広の時代にとられた藩士の集合写真が残されていますが、これも崇広が藩士たちを統率していたことを示していますし、カメラという最新技術を積極的に利用しようという崇広の開明的な態度がうかがえますね。

家老同士の抗争など、とかく藩政の乱れが江戸時代前期から多かった松前藩にあって、藩士をよく統率できる藩主の存在は藩にとって大きな利益であったといえます。


3.幕政への道が開ける~ 開港論の主張、イギリス船救助


さて、そんな松前藩・崇広に転機がやってきます。

文久3年(1863)2月、当時攘夷派の勢いづいていく世相をみて、幕府は攘夷の決行に対してどう対応すべきか、諸大名に意見を求めました。

しかし、全国的にも過激な攘夷論をとなえる武士が増えていたこの当時、藩士の反発を恐れたのか諸大名はあえて意見を言おうとしませんでした。ただ、崇広はこの幕府からの諮問にはっきりと答えます。

「今の段階では、日本の軍備はまだ西洋に比べると劣っていて、幼稚な武器・兵力で攘夷を決行するのは極めて危険だ。そんなことをすれば外国に復讐するチャンスを与えてしまうし、日本が外国艦隊に攻められ、清国の二の舞(アヘン戦争・アロー戦争のことを指すのでしょう)になるのが落ちだ。そうならないために、まず開港して積極的に西洋の学問・技術を取り入れて軍備を整えて、その上で日本が西洋と対等に戦える実力をつける必要がある。攘夷はそれから決行すべきだ」

こうした回答は、かねてから西洋の学問・軍備をよく学んでいた崇広だからこそ可能だったでしょう。ちなみに、松前城改修のころ、崇広は藩内に「即応部隊」という部隊を設置して藩の軍備強化をすすめ、西洋式軍事調練をおこなう「威遠館」という施設を松前城下に設けていました。
崇広はまさに「言行一致」の人物であったことがわかりますね。

過激な攘夷論があふれるこの時代にあって、この崇広の回答に幕閣は感心し、同年の4月、崇広は将軍・家茂の命令として、寺社奉行に抜擢されます。ついに、崇広が地方の一大名から脱皮して、幕政に参与する道が開けたのです。

寺社奉行は、通常譜代大名が任命される要職で、老中への出世ルートの途中に位置します。なので、崇広のような外様大名、しかも当時格はあがったとはいえ3万石格の外様大名です。そのような位の人物はふつう寺社奉行になれないのですが、幕府も内憂外患に対処していくなかで、もはや先例とか格とかに縛られず、とにかく有能な人材が欲しかったのですね。

しかし、攘夷派の世論の反発を受けたり、寺社奉行の公務を行うためには多額の費用が必要で、松前城下の商人に献金を求めたりしたので、崇広の側近からも「寺社奉行やめたほうがいいんじゃないか」という意見が出て結局4か月ほどで崇広は寺社奉行を辞めました。

これで崇広の出世もおしまいかと思いきや、ここから彼はさらなる出世をします。
きっかけは、文久3年(1863)11月、松前城下の東4キロくらいにある大沢村というところでイギリスの商船が難破したという事件です。

このとき、松前藩は村民、城下の行政を担う寺社町奉行・町吟味役を現場に出動させ、乗組員を救助するとともに、箱館からやってきたイギリス・フランス領事にも寛大な態度で接しました。

箱館駐在のイギリス領事の記録に、以下のようにあります。

「(攘夷論の高まりが影響したのでしょうか)幕府の箱館奉行の役人たちは無能で、イギリス人たちに対して威張り散らしてばかりいたのに対し、松前藩の処置は実に見事であった」

この報告は、横浜にいたイギリス公使オールコックを経由して本国のヴィクトリア女王の耳に入ります。
女王は、このイギリス商船救助を見事に行った崇広に報いるため、「金の鎖が取付られた豪華な時計」(懐中時計でしょうか?)など、返礼品を送りました。

この商船の救助は、崇広のリーダーシップのみならず、現場で活躍する藩士たちの力量もあって初めて可能だったことと思います。
崇広が藩主となって14年がたっていましたが、その間藩士全体の行政レベルが上がっていたことがわかるエピソードだと思います。

4.崇広、いよいよ老中へ。将軍を支える存在に


さて、こうして外国人の間でも崇広の評判が高まるなか、元治元年(1864)7月、ついに幕府は崇広を老中格、兼幕府海軍・陸軍総奉行に任命、11月には崇広を正式な老中に任命します。

この時期、禁門の変や天狗党の乱など、国内の軍事的混乱が見られ、幕府も西洋の軍事に理解のある崇広に軍事・政治面両方で要職につけることで、なんとか幕府の立て直しをはかろうとしたのでしょう。

もはや崇広は地方の一外様大名などではなく、名実ともに幕政の中核を担う大名として期待されたわけですね。

翌元治2年(1865)4月、将軍家茂は第2次長州征討のために大坂へ出陣することが決定、崇広も家茂の守護という大役を仰せつかって大坂へと出陣します。

崇広は若き将軍・家茂からの信頼もあつく、大坂城では夜になると毎日ように両者は長州征伐に関する相談をしていたといいます。

大坂では、もう一人の老中・阿部正外(まさとう。白河藩主)と共に家茂を支える両輪として崇広は幕府のために職務に尽くしました。

しかし、時代は崇広や家茂の思い通りにはいきませんでした。崇広の老中としての政治生命、そして彼自身の命も、意外に早く終わりが来てしまうのです。

5.崇広、無念の失脚~ 神戸開港問題をめぐって

元治2年(1865)9月、米・英・仏・蘭の四か国の軍艦が、下関砲撃事件の賠償、加えて神戸開港を迫り、神戸~大坂沖に押し寄せます。開港を拒否するならば、武力行使も辞さない、という強硬姿勢を見せてきました。

神戸は、安政の5か国条約で開港することになっていたものの、地理的に京都に近かったことから、孝明天皇は神戸開港を許可していませんでした。ただ、そうした日本側の姿勢に4か国がしびれをきらしたのです。

かねてより開港派だった崇広は、阿部正外、将軍家茂と共に相談し、三人は10月1日をもって神戸を開港する、ということで決定。四か国にもそのように通達します。

彼らは、今回の問題は即断を要する危機自体であり、神戸開港問題は将軍の行政権の裁量内であり、天皇の許し(勅許)を得る必要はない、と理解してこのような決断をしました。

ところが、天皇の意見を無視するのはまずい、と考えた一橋慶喜を中心とする勢力(通称一会桑といいますね)がこれに待ったをかけます。四か国との交渉を引き延ばし、その間に勅許をえるべきだ、と主張してきました。これが9月26日のことです。

開港の期日まであと数日、というところで幕府内にこうした意見のずれが生まれ、混乱が生じてしまいます。将軍家茂の臨席のもとで会議が行われ、阿部・松前両者は依然として早急の開港を求め、慶喜と対立します。

結局、慶喜、会津の松平容保、桑名の松平定敬の「一会桑」三名は9月28日に京都御所に参内し、今回の一件の処置を天皇に仰ぎます。

すると、孝明天皇は勅許を求めず開港しようとした阿部・松前の姿勢に激怒し、両者の官位はく奪、国許への謹慎処分が下ってしまいます。

本来、幕府の人事に天皇が介入するのは認められていなかったのですが、幕末のこの時期になるともはや幕府も天皇の意向を無視できなくなっていたのですね。それが今回の事件からもわかります。

孝明天皇の意向もあり、神戸の開港もこの時には実現しませんでした。ただ、四か国も強硬姿勢を見せているので、幕府も四か国に対し、「孝明天皇は条約を批准しましたから」などと苦しい回答をしてその場をしのぎました。
ただし、この事件によって江戸幕府の外交能力に対して、外国からの信頼は落ちてしまった感はあります。
結局、孝明天皇が神戸開港に対して許しを与えたのはこの二年後のことです。(神戸港は、新暦で1868年1月1日に開港されました。ちょうど鳥羽・伏見の戦いが始まる直前です)

さて、孝明天皇の怒りを買った松前崇広は、今回の事件により幕府内での地位を一切失い、松前への帰国を余儀なくされます。自らの知識を生かして幕府を立て直す、という目標が打ち砕かれ、失意の帰国であったでしょう。

そして、このストレス、長年の苦労がたたったのか、松前に帰国してから三か月後の慶応2年(1866)4月、崇広は熱病にかかり、ほどなくして松前城で亡くなります。38歳の若さでした。

その後、松前藩は先代の昌広の子・徳広を13代藩主にすえます。ただこの徳広、病気がちでまともに政務がとれませんでした。なので、戊辰戦争前後に藩内でクーデターが発生(おおざっぱに言うと、日和見主義の家老と新政府派の若手藩士が争った)するなど、家臣団は再び分裂してしまいます。

これを思うと、学問に通じて藩の改革を実行し、藩士をまとめげる優れたリーダーシップを持っていた崇広を(しかも慶応という激動の時期に)失ったことは、松前藩にとって大きなダメージだったといえるでしょう。

おわりに 崇広の足跡を遺していこう


さて、ここまで松前崇広の人生をみてきました。崇広は、北海道の中でもあまり知名度が高い存在ではないと思います。幕末の北海道に関する人物では、榎本武揚や土方歳三のほうが断然有名だと思います。

しかし、崇広の存在ももっとクローズアップされていいのではないでしょうか?彼は確かに自分の理想を幕府内で実現できず、失意のうちに亡くなってしまいました。
けれど、自らの職務に責任をもって取り組み、藩をまとめ上げ、幕末という困難な時代にあって日本全体の国防を真剣に考えていたのは事実です。

神戸開港問題は、当時の人には崇広の態度が外国の圧力に屈したかのように見えたと思うのですが、西洋と日本の軍事力の差を現実的に認識したうえで、「今は開港して日本の国力を高めて、西洋に負けない国を作ろう」という彼の意識の表れだったと思います。

同じ北海道にこうした人物がいたことは大変ほこらしいですし、崇広の足跡、政治生命をかけて国事に責任を担うという彼の態度はちゃんと後世に遺さなければいけないものだと思います。

記事を書くうちに、再び松前に行きたくなりました(笑)ちなみに、冒頭の写真は冬に行った時のものですが、雪のお城も個人的に好きです。

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