#9新シリーズ50歳からはじめる、思考を言葉にする技術 第9章|光の外側にいる人たち──私はなぜ伴走者に敬意を払うのか
スタジアムでサッカーを観ているとき、私は少し変わった場所を見ているのかもしれない。
ボールの行方を追っているようでいて、実はそうではない。
気づけば、ベンチに目が向いている。
まだピッチに立っていない選手たち。
交代を待つ時間の中で、静かに身体を整えている人たち。
歓声の中心からわずかに外れた、その場所にいる人たち。
その表情や姿勢から目が離せなくなる。
なぜなのかは、うまく説明できない。
ただ昔から、そうだった。
歌番組を観ていても、センターではなく端で踊る人に目が向く。
企業の成長を見ても、目立つ拡大よりも、その土台を支える現場の方が気になってしまう。
いつからこうなったのだろう。
かつては、それを「自分が伴走者だから」だと思っていた。
けれど今は、少し違う気がしている。
伴走者になろうとした記憶はない。
気づけば、いつも誰かの隣にいた。
それだけのことなのかもしれない。
そこにある感情は、同情ではない。
もっと静かなものだ。
敬意
と言った方が近い。
それは感情というより、見方そのものに近い。
誰だって、本音を言えばエースでありたい。
中心に立ち、結果を出し、拍手を浴びたい。
それはとても自然なことだと思う。
けれど現実は、そう単純ではない。
すべての人が中心に立つわけではない。
多くの人は、その外側にいる。
控えとして。
支える側として。
伴走する側として。
そこで人は、ある静かな事実に出会う。
「自分は、中心ではないのかもしれない」
その感覚を、かつて恩師は「諦念」と呼んだ。
それは、あきらめではない。
現実をそのまま見て、
自分の立つ場所を引き受けること。
役割を、静かに受け入れ直すこと。
思えば、あるアニメ映画を観たときにも、同じものを感じていたのかもしれない。
息子に誘われて観に行ったその映画を、当時の私は少し斜に構えて見ていた。
どこかで、まだ自分との距離を保っていたのだと思う。
しかし、物語が進むにつれて、気持ちは変わっていった。
そこにいたのは、自分の役割を最後まで手放さない人物だった。
彼は勝ったわけではない。
むしろ結果だけを見れば、報われたとは言えないかもしれない。
それでも、自分の場所に立ち続けていた。
その姿を見て、心が静かに動いた。
たぶん私は、その強さに感動したのではない。
役割を生き切るということそのものに、敬意を払っていたのだと思う。
そのとき気づいた。
私は主役を見ていたのではない。
主役を成立させている側を見ていたのだ。
センターの光ではなく、その外側。
結果ではなく、その前後にある準備や沈黙。
見えやすいものではなく、それを支えている見えにくいもの。
そこに、どうしても目が向いてしまう。
それは、特別な思想ではないのだと思う。
生きてきた時間の中で、自然に形づくられた視線なのだろう。
誰かの隣にいた時間。
支える側に回った時間。
うまくいかない時間。
そういうものが積み重なって、今の見方になっている。
人生には、主役が必要だ。
けれど、伴走者がいなければ物語は続かない。
若い頃は、前に出ることばかりを考えていた。
中心に立つことが、どこかで正解だと思っていた。
今は少し違う。
光の外側にいる人たちに、静かに目が向くようになった。
それは年齢のせいかもしれないし、
ようやく自分の場所を受け入れられるようになったからかもしれない。
この場所も、悪くない。
むしろ、この場所だからこそ見えているものがある。
私は、伴走者を選んだのではない。
振り返れば、そこが一番自分らしい場所だった。
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