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【小説】「桜華―あなたの声が聴きたくて―」#2 第二話


 翌週から、基礎科目と同時に、大森教授が開くプロフェッショナルプログラムが始まった。最初に医療倫理学のグループ討議をすることになった。

「えー、医療倫理学というのは、医療現場や医学研究において、何が正しい行為か、人としてどう振る舞うべきかを論理的に考える学問です」
 大森教授は、医療行為の中に隠れた倫理的葛藤に気づく力、答えが一つではない問題に対して、根拠を持って合理的な判断を下す能力、それから、患者と誠実に向き合う姿勢や責任感を養うことが肝要だと説いた。
 その指針となるものが、医療倫理の四原則であり、「自律尊重」「善行」「無危害」「公正と正義」なのだという。どの原則も、患者の立場を最優先に考えるものだった。

「それでは、今回の事例を伝えます」

 八十歳の進行癌のAさんは意識が混濁しており、自らの意思を伝えることができません。主治医は「苦痛を緩和するケア」を提案していますが、長年離れて暮らしていた長女が突然現れ、「どんな手段を使ってでも、一秒でも長く生かしてほしい」と強く要望してきました。

「あなたは、この状況をどのように受け止めますか。グループで話し合ってください」

 長机を囲む形に椅子を移動して、四人のグループを作った。そのうちの一人は、三浦駿だ。彼の顔を見ることができず、頬は次第に赤く染まってゆく。どんな考えをする人なのだろう。

 教授から、出席番号が一番早い人が司会をするよう指示があり、必然的に私が司会者となる。左隣から時計回りに指名することにした。
「茂上さやかさんから、意見を言っていただけますか」
 茂上さんは、背筋を伸ばして咳払いをした。
「私は、突然登場した長女が意見を言う資格があるのかなあと違和感を覚えました」

「次は村松とおるさん、意見をどうぞ」
「僕も、茂上さんと似たような意見です。長女の意見よりも、患者さん本人の意見を聞くべきだと思うんです。ですから緩和ケアを優先した方がいいのではと考えます」
「ということは、長女の意見に違和感を感じるということですか」
 問い返すと、村松君は、「はい」と即答した。
「三浦さん、いかがでしょう」
 三人の意見は、同じ方向に収束するものだと思っていた。

「僕は、違和感はないです。家族であれば、一秒でも長生きして欲しいと願うのは当然ですし、医師であれば、少しでも苦痛を緩和するケアをするべきです」
 三浦は当然という顔をして答えた。

「ということは、つまり……」
「まあ、つまり、どちらの意見も正しいということです」

 なるほど……。私は心の中でつぶやいた。この人は、冷たい人に誤解されやすいけれど、きっと冷たくない。どちらの気持ちも汲もうとしているから。

「三浦さんの考えを、私は理解できます。皆さんはいかがですか」
「いや、でも……それって両立しない考えですよね」
 村松君が意見すると、三浦駿は涼しい顔をして答えた。
「両立できないって、誰が決めたんですか? 担当医ですか? それなら、担当医は不誠実です」

 村松君は、罰が悪そうに黙った。茂上さんは、「当てないでくれ」というように、目を逸らした。

「私は、三浦さんの意見に賛成です。どちらの立場にも寄り添う姿勢は、医師として必要なことだと、三浦さんの意見を聞いて思いました」
黙っていた茂上さんが「たしかに」と小さくつぶやいた。

「例えば……」
 三浦駿が切り出した。
「もしも、医師が、その患者の長女に『どんな手段を使ってでも、一秒でも長く生かすことは、患者のためにならない。医療技術的にも不可能だ』と伝えたら、どうなると思いますか」 

 誰も、答えられなかった。だが、私は司会の立場から、ひと言でも反応しなくてはならない。
「長女は腹を立て、病院側が父の命を軽視していると訴えるかもしれません」

「そうですよね。桜華おうかさん」
 一瞬、その人はやわらかい笑顔を見せた。不意に見せたその表情に私の心は揺らいだ。でも次の瞬間には、何事もなかったかのように、いつもの涼しげな表情に戻っていた。気のせいだったのだろうか……。

「大森教授から、長女の立場を聞いたときには、絶対、その長女の意見は間違っているって思ったんだ。でもさ、三浦の意見を聞いているうちに、そういう二択的なことじゃないよなって思うことができた」
 村松君は、さっきまでの勢いを少し緩め、寛容さを見せていた。

 誰かの意見で、こんなにも人の考えは変化するものなのだろうか。それを、いとも簡単にやってのけるのが、三浦駿なのかもしれない。

 でも次の瞬間に、その考えは消えてしまった。

「僕は、個人的にはこの話の長女のように、何が何でも延命を希望するのはまずいと思っている。傲慢だよ」
 医師としては受容できる。だが個人的には、その考えは傲慢だと言い放った。

 なんだか自分のことを言われているようで、怒りを覚えた。
 私だって、それが兄だったなら――即死だと思っていた兄の息遣いが少しでもあったとしたら、延命を望むかもしれない。
 いや、必ず延命を希望する。たとえそれを、兄が望んでいなくても……生かして欲しいと願うはずだ。
 ――兄が生きていたら――

 なのに、頭ごなしに否定された。大きな喪失感が、理不尽な兄の死への怒りと混じり合って、三浦駿の言葉を拒んだ。

 時間と共に怒りは増幅され、いつの間にか三浦駿の意見を嫌悪していた。

 三浦駿……。ちょっとでも、温かい人だと思ってしまったことが悔やまれる。やはり、冷たくて、自分の意見を強引に押し出す人。
 意見が対立することは、あって当然だ。でも、あの言い方は、赦せなかった。患者の家族の心情を、まるで理解していない。もしも、身内に生死を彷徨う命があったなら、誰だって生きて欲しいと願うはず。

 私は兄の死を受け入れることができていない。だから、強烈に反応してしまうのだろうか……。

 アメリカの大学に臨床実習に三週間行って戻ってくる予定だった。
 だが、誤発砲の銃弾が心臓付近に命中して即死だったと聞かされた。戻ってきた兄の体には、検死の際に銃弾の痕を縫合した傷が、痛々しく残っていた。あまりに理不尽で、この受け入れ難い死は、容赦なく私を飲み込んでいった。

 グループ協議後の大森教授の話が全く入って来ない。協議のシェアをする時間だったが、上の空だった。自分のグループの討議内容を発表する役は、三浦が引き受けたようだった。私には関係のないことだ。目立ちたいなら、やればいい。

 ――だが、ひとつ問題がある。この医療倫理学のグループ討議は一年間、三浦と一緒のグループで行うことになる。協議の度に、自分が傷つくのではないか……不安に襲われた。

 医療倫理学の講座が終わると昼食になる。私は動けないまま、その場に残っていた。講義室はすぐに人が引けて空っぽになった。誰もいなくなったところで、ようやく立ち上がる。

 空っぽになった講義室を見渡すと、出口付近に人影が見える。腰掛けてこっちを見ているのは――三浦駿だった。
 なぜ?
 私は思わず、声が漏れてしまった。

 そして、一瞬目が合った――ような気がした。だが三浦は、何も言わずに立ち上がると、そのまま講義室を出て行った。
 なぜ? 嫌なヤツ……。
 心の中でつぶやくと、私はふらふらと歩き出し昼食を買いに売店へ向かう。

 講義室のドアを閉め、少し行ったところに、茂上さやかがベンチに座っているのが見えた。私が前を通ろうとすると、茂上さやかは突然、立ち上がった。
「ねえ、一緒にランチ食べに行かない?」
 驚いた私は、咄嗟に返事をしてしまった。
「よかった。なんだか様子が心配で、待っていたの」
 思い掛けない言葉に、私はなんだか胸の奥がじんと温まるのを感じた。
 ――この人なら、私のことをわかってくれるかもしれない。



 そういう幻影が、私の心に浮かんできた。




音楽
南かのんさん
【癒しピアノ】雨の日のお茶会より
Across the Distance ,To You (距離を超えて、あなたへ)
その中の二曲を持ち込みの画像で使わせていただきました。
ありがとうございます💐


プロローグに各話をリンクしています。