【小説】「桜華―あなたの声が聴きたくて―」#1 第一話
広い講堂は、緊張感で静まり返っている。壇上にゆっくりと進む男子学生は、その空気をものともせず落ち着いた態度で学部長に深々と礼をした。その一連の動作は、わざとらしくない品格と自信を感じさせた。
彼が話し始めたとき、私は耳を疑った。マイクを通して聞こえてきたその声は、少し低めで深いところに響く。……涼の声に、似ている。
涼は、先月、帰らぬ人となった。
合格したことを、直接伝えようと待っていたのに……。思い出しただけで涙が浮かぶ。目頭をはんかちで押さえながら、もう一度、代表として話している彼の声に耳を傾けた。やはり涼の声に聞こえる……。
「私たちは、医学部生として、人の命を救う助けとなるよう弛まぬ努力を続けます。厳しい倍率を突破したのは決してゴールではありません。ここからスタートをきりたいと思います。将来、僕は脳の研究を推進していきたいです」
深々と礼をして壇上から降りてくる彼の顔を見た。きりっとした目元、涼しげな顔立ちは、涼とは全く違っていた。けれど、あの声が耳に残り、私の中に沈殿していく。涼も医師を目指していた――
学生代表の言葉は、まるで涼が語りかけているかのように私の脳裏にこだました。彼が、スピーチの最後に言った名前を忘れないように心に留めた。
私は涼の代わりに、医師を目指すのかもしれない。内科医としていずれ地元で、父の個人病院を継ぐことになるのだろう。父は、内科医として町の人たちから慕われ、頼りにされている。
――あの病院がなくなるなんて、考えられない。だから、涼がいなくなった今、あの病院を守ることができるのは、私しかいなくなった。
「桜華、こんなときに話すことではないけれど……。父さんの病院を継いでくれないか。それを涼も願っていると思うから」
父は、言葉少なくバトンを私に渡した。息が詰まりそうになる。でも、涼の顔が浮かんでくる。だから、泣きながら小さく頷いた。
「桜華、お兄ちゃんのこと大好きだったものね」
母が私の髪を優しくなでた。小学生以来だった。母の胸を借りて泣いたのは……。私の手に母の涙もこぼれ落ちた。
まるで家中が、闇夜に包まれたように暗い空気が立ち込めていた。
地下鉄のアナウンスで我に返った。もう少しで乗り過ごしそうになった。あのまま実家で暮らしていたら、涼の思い出ばかりを追ってしまっただろう。重い気持ちのまま引っ越したのは、医大生として新しい生活を送りたかったから。思い出のない土地に行きたかった。
あの日、目にした変わり果てた兄の姿は、一生忘れられそうにない。あまりにも痛々しい姿だったから……。
駅のホームを抜けてアパートへ歩き出すと、知らぬ間に頬を涙が伝ってくる。私は、まだ回復していない。兄を失った喪失感で埋め尽くされている。
入学式の会場で、早速、友達を作り始めている周囲から距離を取り、真っ直ぐに帰宅した。明日から始まる大学生活への不安で押しつぶされそうになる。
アパートの一室に戻ると、スーツを脱ぎ捨てて部屋着を上からすっぽりと被った。ベッドの上にうつ伏せに倒れるように横たわった。足下に置いた鞄を手繰り寄せ、中から入学者名簿を取りだした。涼の声を持つ彼の名前を探すために……。
百人ほどの名前が五十音順に整然と並んだ名簿の、私の名前の後ろを見て、言葉を失った――。彼の名が、そこにあったのだ。彼が涼ではないとわかっている。それでも、心の中にうっすらとした光が差したような気がした。少しだけ安心すると意識は優しく沈み、いつしか眠っていた。
どこかで子供の笑い声がする。ふと目を覚ますと、窓からうっすらと西日が差し込んでいる。窓から外を見下ろすと、学校帰りの子供たちの姿が見えた。そして、どんな哀しみの最中でも、お腹がすくことに気付く。引っ越しをしたばかりで、まだ冷蔵庫は空っぽだった。アパートから五分くらいのところに食料品も売っている大型の薬局、みどりストアがある。私はゆっくりと体を起こすと、着替えを済ませた。鏡に映る自分の顔は、見たくなかった。
夕暮れの町の中を歩いていると、春の匂いがする。桜の街路樹から、花びらが舞い落ちて私の服に止まった。まるで私を励まそうとしているかのように……。兄の死をきっかけに嫌っていた桜の花が、一瞬、私に微笑んだ瞬間だった。
小学生の頃、名前の由来を調べる授業があった。
「桜の花のように育って欲しいという願いから『桜華』という名前になりました」
そう発表すると、翌年から、春になると「さくらーさくらー」とからかわれたのだ。放っておけば良かったのに、私はムキになって言い返した。
帰り道に口げんかをしていると中学生になった涼が自転車で通りがかって、その意地悪な男子たちを一蹴してくれた。
「君たち、名前で女の子をからかったりしない方がいいよ。君の名前を言ってごらん。僕が同じことをしてあげるから」
自転車から降りた涼は、優しい口調で詰め寄った。低く響く涼の声に、その男子小学生たちは、一瞬で静まり返り震えている。私は兄の後ろで、小さく舌を出した。
「ごめんなさい」「もうしません」と口々に言いながら、情けない顔で走り去って行く姿を見て、心のもやもやが晴れ渡っていくのを感じた。
「桜華が困ったら、いつでも兄ちゃんが助けてあげるから」
涼は、穏やかに微笑んだ。私は大きく頷くと、自転車を押して帰る涼と並んで家路を歩いた。優しかった涼のことを、改めて意識した瞬間だった。涼は私のヒーローで、ずっと一緒にいたい大好きな人になっていた。あのとき……何か大切なことを涼は告げていた気がする。
みどりストアは、夕食前の買い出し客で混み合っていた。私は買い物かごを片手に、調理をしなくてもすぐに食べられるレタス、トマト、バナナ、ヨーグルトにグラノーラをかごに入れた。そして最後に牛乳を手に取った。ふと隣で同じく牛乳に手を伸ばしている人の横顔を見て、小さく声を上げた。
「涼……」
隣にいる人の顔を覗き込んだ。――そして、落胆した。いるはずがない。だって三月にお別れをして、私はここに来たのだから。でも……横顔がうっすらと似ていた。
私は、涼の影を追いながら生きていくのかもしれない……。
そう思うと、また気持ちが大きく揺らぎ始めた。大学生活への不安と重なって、明日のオリエンテーションが憂鬱になる。レジでバーコードを通す度に、ピッという機械音と共に不安は少しずつ膨らんでいった。
翌朝、早く目が覚めた。……というより、よく眠れなかった。身支度を整えると、早速、グラノーラに刻んだバナナを入れて、上からヨーグルトを掛けた。そして、自宅から持ち出した珈琲メーカーで、コロンビアを淹れた。
食欲はあるとは言えなかったが、医師を目指す者として朝食は外せなかった。
出掛けに、玄関の姿見で久しぶりに自分の顔を見た。窪んだうつろな目をしている鏡の向こう側の人と目が合った。これ以上、痩せないようにしないと……。「健康が保てない人は医者になるべきじゃない」とよく父が言っていた。冬の感染症が流行する時期でも、父は患者さんから病気をもらってくることはなかった。
それは、家族に病気を染さないための予防なのだと話していたことを思い出す。――あれはきっと、愛情だったのだ。
「いってきます」
誰もいない部屋に向かってつぶやくと、私は地下鉄を乗り継いでキャンパスに向かった。
オリエンテーションを行う講義室はとても広くて、自分の座席を見付けるのに、時間を要した。まだ、数名しか来ていない。五十音順に並んだ自分の座席を見付けたとき、後ろの人と一瞬、目が合って慌てて逸らした。入学式で代表を務めた彼だった。
涼の声をもつ人――
きりっとした目元、涼しげな顔立ちは、涼とは似ていない。でも、どうしても声が聞きたかった。知らない人に話し掛ける勇気はなかった。
だけど、心の底から声を振り絞る。
「おは……おはようございます」
その人は、怪訝な顔をしてこちらを一瞥した。そして目を合わさずに小声で「おはよう」と言った。
その短い言葉は、低く、深いところに響いてきた。ああ……、涼の声だ。
涼の声に似ている……。それだけで涙腺が緩みそうになるのを、じっと堪えた。神様は、私に涼の幻と会わせてくれている――。深見という名字で良かった。
オリエンテーションが始まる五分前になると、いっぺんに学生が入ってきて、たちまち座席は埋まっていった。
白衣姿の教授が、教壇の前に立った。
「医師を目指す若い皆さんの力が必要です。今、医療の分野は様々なテクノロジーのおかげでかつてないほどの進歩を見せています。特に、脳の分野はこれまで未知数だったところにもメスを入れて、治らないとされていた病を研究し、立ち向かっているところです」
白衣の教授は、壇上を歩きながら語っていく。この大学の特色として、一年次から教養科目に加えて、専門性を高めるための「プロフェッショナルカリキュラム」という講座を用意していると説明があった。私が心を惹かれた講座は、「老い」を「医療」でどう支えていくのか、実際に高齢者と関わりながら学ぶ実習だ。
「皆さんはお若いので、まだ『死』は身近なものではないと思います。でも医師を目指すならば、『生』と同じように『死』についても、それぞれの価値観をもって、将来、患者様と接することができるように倫理観を育てていく必要があります。故に、グループワークを通して、他者の価値観に触れることで医療倫理について深く考えていきます」
具体的な患者さんのシチュエーションに対して、医師としてどのように受け止めていくかを討議するというのだ。
「知識がないことを心配する必要はありません。大切なことは、自分の考えを持つこと、そして、状況に応じて、自分の考えを柔軟に変更していく対応力です」
私は大きく頷いた。
すると後ろから、「先生、質問があるんですが」大きな声がして振り向いた。涼の声をもつ人だ。
「はい君、質問どうぞ」
意表を突かれた教授は、慌てた様子を隠すかのように落ち着いて指名した。
「状況に応じて、自分の考えを柔軟に変更していく対応力は、患者さんには必要だと思います。でも、医師に必要でしょうか? 僕は、医師の言っていることがころころ変わったら、患者さんが不安になるのではって思うんです」
「ああ、そうだね。君の名前は?」
「三浦 駿です」
教授は、予想外だろう質問にも、丁寧に説明をした。
「長年の経験から、医師に一番必要なのは謙虚さだと思うんだ。これまでにやった症例がこうだったからと言って、必ずしも、あなたの目の前の患者さんもそのときと同じとは限りません。だから、間違いに気付いたら、しっかり軌道修正をし、そのことを患者さんに説明する義務がある、そう私は考えています。どうですか三浦くん」
後ろの席で立ち上がる音が聞こえる。
「はい、そういうことでしたら、僕は納得です」
周囲はざわついていた。
「医師だって人間だから、判断を誤ることもある。そういうことですよね」
「君は柔軟な思考をもっているようだ。きっと、いい医師になると私は確信しましたよ」
「ありがとうございます」
後ろを振り向くと、少し照れたような表情で、座席に座るところだった。これまで見た中で、一番いい表情だと思った。
彼のことを知りたいと思う自分がいた。
音楽
南かのんさん
【癒しピアノ】雨の日のお茶会より
Across the Distance ,To You (距離を超えて、あなたへ)
その中の二曲を持ち込みの画像で使わせていただきました。
ありがとうございます💐
