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沖縄研修×平和教育 31「善意では逃げ切れない──学校に生じる共同性という責任」

 前回の記事(30)で以下の内容を整理しました。
 ・共同性とは何か
 ・なぜ善意や教育的意図が共同性の根拠になるのか

 今回は、共同性が学校をどのような立場に置くのかを考察します。
 最初に、前回の内容の復習と前提の確認として、学校が「善意」を主張すればするほど共同性が明確になるという逆説を確認します。

1.学校が示した“善意”は、共同性の根拠となる
⑴学校は辺野古見学について、正当な教育活動と考えている

 学校は辺野古見学について、以下のような考えを示すと考えられます。
 ①平和教育としての価値がある
 ②外部の牧師は信頼できる
 ③生徒にとって有意義な学びになる
 ④辺野古見学は正当な教育活動である

⑵学校の主張を共同性の観点から評価する
 学校が主張する「善意」は、捜査・司法の視点では「共同性の根拠」となります。具体的には以下です。
 ①学校は反基地団体と価値観を共有し、その価値観に基づいて行動した
 ②辺野古の意味づけについても、学校と団体の価値観は一致していた
 ③辺野古見学は「学校と反基地団体との共同企画」である。

2.共同性が認定されると、学校の位置づけが変わる
 
学校の位置づけの変化は、とくに「刑事責任・行政責任」に顕著に現れます。
⑴刑事責任の射程に入る可能性
 
辺野古見学が共同企画であったと認定された場合、 学校は反基地団体とともに「辺野古見学の企画主体」と評価されます。
 共同性が認定されると、学校は企画主体として「行事全体の安全確保に関する注意義務を負っていた」 と評価されます(注)。
 この注意義務に違反し、かつ事故との因果関係が認められた場合には、 刑事責任(業務上過失致死)の対象となる可能性が生じます。

(注)「行事全体の安全確保に関する注意義務」
①学校が企画した「辺野古見学」という行事に対する安全配慮義務を指します。具体的には、移動計画、外部団体との調整、生徒の引率、危険の予見と回避などです。なお、船舶の操船や運航管理はこの対象には含まれません。 ②学校に求められる安全配慮義務は、通常「行事全体の安全管理体制の確認」にとどまります。しかし、共同企画と認定されると、学校は企画主体として「行事全体の安全確保義務」を負っていたと評価されます。
(確認から義務という重い責任に格上げされます)。

⑵ 教育の中立性が問われる
 
文科省の視点では、共同性が認定されると次のような評価にならざるを得ません。
 ①反基地団体の価値観を学校が取り込み
 ②その価値観に基づく企画を学校行事として実施した
 つまり、辺野古見学には、教育の中立性に対する重大な疑義が生じるということです。

3.学校の責任が重くなる(海難事故の責任 × 安全管理義務の序列の変化)
⑴学校は本来、海難事故の直接責任を負う立場ではない
 
船の操船判断や海象判断に基づく安全管理は、 船舶を所有し運航判断を行う団体および旅行業者の専門領域です。したがって、学校に求められるのは、 行事全体の安全管理体制の確認にとどまります(注参照↑)。この場合、責任の重さを序列化すると次のようになります。
 ①船舶を所有する団体(運航判断の主体)
 ②旅行業者     (旅行手配・安全確認の専門家)
 ③学校       (行事全体の安全確認義務)

⑵共同企画と認定されると、責任の序列が変化する
 
辺野古見学が、船の所有団体と学校との共同企画であると認定されると、 行事の企画主体としての責任は、団体と学校とが同等の立場と評価されます。 
 この場合、責任の重さは次のように変化します。
 ①団体 ≧ 学校 (企画の共同主体)
 ②旅行業者         (旅行手配・安全確認の専門家)
  
 共同性の認定によって、学校は企画主体とみなされます。すると、責任の位置づけは「学校=企画主体として団体と並ぶ位置」になります。

4 まとめ──善意では逃げ切れない理由
 今回のケースでは、学校は海難事故の直接責任を負う立場ではありません。しかし、辺野古見学が、反基地団体と学校との共同企画と評価された場合、状況は以下のように変化します。
 ・刑事責任の射程に入る可能性(業務上過失致死)
 ・教育の中立性の逸脱という行政上の問題(文科省の指導対象)
 
 つまり、今回の事故は「善意では逃げ切ることはできない」と言えます。
 なぜなら、学校が辺野古見学の教育的価値や善意を説明すればするほど、共同性の構造が明確になるからです。

 次回は、この「善意では逃げ切れない」を、反基地団体にあてはめて考察します。団体側に生じる共同性と責任の拡大がテーマです

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