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テレーズ・ラカン 岩波文庫

エミール・ゾラ 小林正訳

ゾラはよくこんな風に陰惨な話を次々に書けるものだ、と感心する。ただ若い頃の私は、その陰惨さにも惹かれていた。ローランとテレーズが、最後まで後悔の念や良心の呵責を感じないで、ただしんどいから死にたかった、というのは今回読み返した時の大きな発見だった。現代の作品なら、何も考えずにまた肉欲に溺れ、何ならラカン夫人も殺してのうのうと生きていく主人公がいそうだけれど。何よりも「良心の呵責で死んだのではない」というのが興味深かった。


青白い小さな息子の顔を、誇らしげな愛情のまなざしでながめては、この子には十度以上も生命を与えてやったのだと思うのだった。

結局、ローランはなまけもので、血気さかんな人間らしい欲求をもち、安易でしかも長続きする享楽にたいして、実にはっきりした欲望をもっていた。

彼は用心深い反面、一種の荒々しい向こうみずなところがあった。ふとい拳をもっている男の向こうみずである。

周囲の事情から身をかがめてきたテレーズは、ついにたちあがって、その実体を完全にさらけだし、その声明を表明したのである。

危険などというものは、これを平気でおかしさえすれば大丈夫なものだと女はくりかえしていったが、その通りだった。

悪いことをしているのは承知だった。しかも、ときおり、食卓の席をたって、公然とローランに接吻し、自分がばかでないこと、自分にも男があることを、夫や叔母にみせつけてやりたいという残忍な思いにかられることがあった。

なにかの拍子で、ラカン夫人とカミーユが下へおりていったりすると、テレーズはやにわにたちあがって、無言のまま、荒々しく、自分の唇を男の唇におしつけ、あえぎながら、息づまる思いで、階段の板木のきしる音を耳にするまで、そうした格好でいる。音がすると、す早く、もとの席につき、また例の無愛想な渋面になる。ローランはおちついた声で、カミーユを相手に、とぎれた雑談をつづける。それはまるで、静まりかえった空に光る、一瞬の、目のくらむような、激情の稲妻だった。

「息だけしかしてないような、あんな人たちって、けっして死なないものなのよ」

「人間って死ぬこともあるわ。でも、生き残るものには危険だわ」

あたりにみなぎる夜陰と痛恨の沈黙のさなかで、お互いに物狂わしく握りあう手は、まるでカミーユの頭が水面に浮かびあがらないように、これをおしつぶそうとしてなげられた重しのようだった。

「死体公示場」はどんな財布のもちぬしでも見られる見世物で、貧乏人でも金持でも、通りがかるものは金を払わずにすむ。

この連中は死体を滑稽だと思っている。

殺害がふたりの肉欲的昂奮を一時しずめたかのようだった。身体もくだけるばかりに抱きあっても、なおみたすことのできなかった、あのもの狂わしい貪婪な愛欲が、カミーユを殺すことによって、やっとみたされたのだ。

かわいそうに、老婆は、自分ひとりが心のおくそこにいとしいわが子のまざまざとした思い出をいだいているのだとつくづく思った。彼女は泣いた。カミーユがいままた改めて死んだような気がした。

毎夜、心のなかではふるえながら、ひそかに嫌悪感におそわれながらも、彼はカミーユの人なみすぐれた美点や、やさしい心根や才気について話をもちだし、あきれはてるばかりの図々しさで、自らの手で殺した相手のことをほめあげた。

テレーズは男の二度の接吻でやけどでもしたように、急に身をひいた。

男は血を、女は神経を出しあって、ひとつ身体で呼吸し、接吻を求め合っては、その生理の働きを調整していた。

ローランの恐怖心には、良心のひとかけらもまじってはいない。カミーユを殺したのを、すこしも後悔してはいないのだ。

「じゃまになったからこそ、あいつを河に投げこんだのだ。なんなら、もう一度だって投げこんでやる、そうだろう?」

とりわけ、老婆にとってくやしかったのは、いくらにらみつけてこの罪深い女を殺してやりたいと思っても、そのまなざしに憐れみの心を読みとったといいはる、この女のとんでもない、ひとをばかにしたやり口だった。

ローランの子をもつという考えは、なぜだか自分でもよくわからなかったが、とんでもないことに思われた。溺死体を生むのではないかという漠然としたおそれがあった。

将来に希望がないと、現在はやりきれないほどにがいものとなる。

「君には大きな欠点がある。そのために君にはすべての門戸がとざされてしまうだろう。君はばかものと二分もしゃべると、相手にばかだということを自覚させずにおかない。」

「しかし、すくなくとも、私は、私のしなかったことについてではなく、私がしようとしたことについて批判されることに、深い喜びを感ずることになるだろう。」

最後に、私はやむをえず悔恨という言葉を使ったが、その正体は、単なる器官の不調、緊張しすぎてやぶれかけた神経組織の反逆作用にすぎない。ここでは心はまったく介在しない。
再販の序


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