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明治の野心——国家が「留学」を設計した時代 - No.16

前回、こう書いて終えました。「その昔から日本は、国際社会で強く生きていくため、外へ送り出しました。」。今回は予告どおり、数字が生まれる前の時代へ、150年さかのぼります。

明治には、数字が残っていない

官費で送られた留学生は、明治期を通じて数百人の規模とされます。私費まで含めれば数千の桁に届いたかもしれない。岩倉使節団とともに渡った留学生の数さえ、数え方によって40名あまりとも60名ほどとも言われます。年ごとの人数も、帰国率も、追跡調査もありません。

だから今回は、数えるのをやめました。

そのかわり、はっきり残っているものがあります。誰を選び、いくら出し、何年行かせ、帰ったあとどうするか。それを決めた制度の設計図です。

人数の記録は薄い。それでも制度の記録は濃く残っています。彼らは、数を目標にしていなかったのです。

6歳の留学生と、10年の約束

1871年12月23日、横浜。総勢107名の使節団とともに、留学生たちが蒸気船に乗り込みました。そのなかに5人の女子がいます。最年少は満6歳の津田梅子——いまの5000円札の顔です。

彼女たちは「夢を追って」海を渡ったのではありません。開拓使の募集に応じ、約10年におよぶ留学を前提に、官費で送られました。渡航から学費、生活費まで、当時としては破格の支援です。

注目したいのは年齢ではありません。国家が条件を定め、人を送り出したという事実です。

設計図に書かれていたもの

1882年、文部省は官費留学生に関する規則を整備します。帰国後は修学年数の2倍の期間、命じられた職務に就く義務が課されました。留学の入口で、出口まで決めていたのです。

しかも帰国者を待っていたのは、できたばかりの大学や官庁の中枢でした。

ここで設計されていたのは、留学ではなく、人材循環そのものです。

明治の設計図には、三つの道が同時に書かれていました。

出る道——国費。
戻る道——奉職義務。
報われる道——配置先。

設計図に書かれていたのは、数ではなく、道でした。

ただし、この三点セットには但し書きがつきます。書かれていたのは、男子の道でした。

6歳で渡った梅子が11年後に帰国したとき、日本語をほとんど話せなくなっていたとも伝えられます。そして、学んだ力を十分に生かせる場は、当時の日本には限られていました。教壇には立てても、その先は細かった。

だから彼女は、自分で道をつくる側に回ります——いまの津田塾大学です。設計の力を示す最良の証人は、皮肉にも、設計の外に置かれた人でした。

「昔は、そうするしかなかった」

ここで、もっともな反論があります。

当時は蒸気船で何週間もかかり、費用も桁違いで、留学を売る民間市場もなかった。国が出すしかなかったのだから、あれは設計ではなく、ただの必要ではないか——。

その指摘には、一理あります。必要性は「誰がお金を出したか」を説明します。けれど、説明しきれないものが二つ残ります。

ひとつは、お金を出すことと、戻り道を書くことは別の決定だということです。奨学金を出すだけなら、奉職義務も配置先も要りません。現代の日本も、お金は出しています。書かれていないのは、そのあとのほうです。

もうひとつは、清の存在です。

1872年、清も「幼童出洋」として計120名の少年をアメリカへ送り出しました。同じ太平洋、同じ蒸気船、同じ危機感。しかし1881年、計画は途中で打ち切られ、少年たちの多くは帰国しました。

制約が同じで結末が違うのなら、分かれ目は制約ではありません。

もちろん、制度がすべてだったとも言い切れない。密航してでも海を渡った幕末の若者のような、時代の熱もありました。ただ、熱を規模と持続に変えたのは、設計のほうだった——そう読めます。

明治は、絶滅していない

「昔は偉かった」という話をしたいのではありません。実はこの設計、いまも現役です。

トルコは1929年制定の法律(第1416号)にもとづき、国費留学生に留学期間の2倍の奉職義務を課す制度を、ほぼ1世紀運用してきました。明治の1882年規則と、驚くほど似ています。

カザフスタンのボラシャク奨学金も、帰国後の勤務義務を勤務地によって2〜5年に傾斜させ、担保や保証人まで求めてきました。国費で送り、条件をつけて戻す仕組みは、姿を変えて生きています。

もしあれが「移動が高価だった時代の化石」なら、移動が安くなった時点で消えていたはずです。消えていません。格安航空券とオンライン出願の時代にも、担保を取ってまで続ける国がある。

あれは制約の産物ではなく、選択だったのです。

気づくのは、この道具を使うのが「追いかける側」の国だという非対称です。日本も、追いかける側だった時代にこれを使い、追いついたところで手放しました。

影がなかったわけではありません。選ばれたのはごく少数で、奉職義務は自由の拘束でもあった。そのまま移植すべきものではないでしょう。

それでも、取り出せる原理は残ります。

出る道だけでなく、戻る道と報われる道を、同時に設計するという原理です。

戻る道は、いまどこに

いまの日本の留学支援に、「戻る道」は設計されているでしょうか。

送り出す数の目標は掲げられています。けれど、帰ってきた人を、どこが、どう待っているのか。

ひとつだけ数字を置いておきます。海外に住む日本人のうち、現地に根を下ろした永住者の割合は、いま45%を超えました。総数は増えていないのに、この比率だけが静かに上がり続けています。

数える仕組みは増えました。待つ仕組みは、どこにあるでしょう。

明治には、数字がありませんでした。次の時代には、あります。

次回は、日本人がもっとも外へ出ていった1980年代へ——国家ではなく、企業と家庭が人を押し出した時代を訪ねます。

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